2010年10月29日金曜日

アルマゲドン

★★☆☆☆
~異なる感想~

ながらくの間、この作品は自分の中でもっとも憎むべき映画の一つだった。
ドラマから映画化された邦画のように、お約束で、薄っぺらで、お涙頂戴で。このような作品がヒット作に名を連ねる事に、おもしろかったと抜かす回りの人間に、映画という文化を侮辱されたようで腹が立ったものだ。

この自分の反応は独りよがりで、矮小なものだったと思う。

テレビでやっていたので、録画して見てみたが、素直に楽しむことが出来た。分かりやすさ、程良い力の抜け具合。これはこれで映画の一翼を担う分野だろう。あのころの自分は、古い、評価の定まった名画のおもしろさにようやく気がついたところで、そのような作品が多くの人の目にさえ入らない状況と、時流に乗っただけの最新映画に世が傾倒している事が、不条理に思えて仕方なかったのだ。
「好きな映画にアルマゲドンをあげる奴は、はっきりと敵だ」と公言していた。今もその時の自分の気持ちは分かるし、その一片は胸にあるままだが、偏った意見だったと思う。

今回見てつくづく感じたのは、テレビの放送枠に収めるために行われる編集の切なさ。
アルマゲドンはもともと151分の長編なのに、放送枠で二時間弱まで切り詰められていた。CMをさっ引いた実際の放送時間では100分がいいところだろう。三分の一を削除するなど通常不可能だが、何とか意味が分かり、楽しめる形に編集されていた。切り詰め作業担当者の苦労はいかばかりか。
まあもともと悠長で潔くない編集だったので、テンポがよくなったとも言えるが、これはさすがに切り詰めすぎだ。大ヒットしたテーマ曲に乗せて盛り上がるシーンさえ細切れにされている。あまりに短くなったため、曲の印象が残らないほどだ。
物語を伝えるためのシーンにどうしても時間が必要だったのだろうが、この映画の見せ所が摘まれていると、何のための編集なのだろうと言いたくなる。

無料で見ているものに文句を付けるのも傲慢だろう。ただ、この作品と初めて出会うのがこの放送という人も多いと思う。そう考えると制作者の意図と異なる編集を施されたのに、同じ名前を冠ぜられている作品が不憫にさえ思えてくるのだ。

それも含めて、気軽なテレビ放送映画ということか。映画館、DVD、有料チャンネル。映画を見る方法はたくさんあって、それぞれに特徴がある。
そこまで含めて、映画の楽しみ方、なのだろう。
だがしかし、「ノンカット放送」といった宣伝をするならば、同様にどの程度の分数カットしたのかという情報を、公平にアナウンスして欲しいものだ。

おまけのようになってしまったが、ヒットメイカー、ブラッカイマーがプロデュースした本作は、細かいつっこみを無視した勢いの良さ。最後まで力押ししようとする潔さ。馬鹿馬鹿しくも手に汗握る大冒険を味わえる。今見ると、いっそすがすがしい。
予定調和といわれようが、あまりに短絡といわれようが、そのように作ったのだから当然だ。
生ビール片手にプロレスを見るような、気楽におおらかに楽しめる、開けっぴろげな雰囲気が心地よい。

リング

★★☆☆☆
~和風ホラーの定番~

一世を風靡した和製ホラー。
マルチメディア展開で一気に人気の頂点を極め、強烈な印象を残してこれまた一気に消えていったようだ。恐怖のキャラクター「貞子」は怪異の典型として定着した。

感染していく呪いの恐怖はビデオテープが媒介となっている。ビデオテープは当時非常に身近なメディアであったため、恐怖をリアルに感じることが出来た。
映画の作りとしてはオーソドックスだが手堅いもので、主演の真田広之が映画の格を上げている。人気の波をうまくすくい上げることに成功。

時を経た今見ても興味を引かれる展開と恐怖。
詰め込みすぎず、薄すぎず、ちょうど良いあんばいの映像密度。
安っぽく見える場面も多いが、楽しむことが出来る。

らせん

★☆☆☆☆
~恐怖から不気味へ~

一作目「リング」の続編。
小説は「リング」「らせん」「ループ」という連作になっているが、ループは映画化されていない。

リングの登場人物を引き継いで、物語は呪いの規模を日本中へと拡大させていく。荒唐無稽さが強くなり、素直に飲み込める範疇を超えてしまっているため、感情移入しにくく、あまり怖くない。
実体のない訳の分からないものに対する恐怖が一作目だとするなら、今作はその恐怖が実体をともなっていく過程をえがいており、物語の印象は恐怖よりも不気味さへとスライドしている。

一作目を受け継いだ物語を見たい者には、拒絶反応を起こしそうな要素が多く、単体で見るとただただ妙竹林な映画という事になる。多くの映画に埋もれていく、凡百の作品。

リング2

★☆☆☆☆
~結局ループと同じ印象~

原作にそった正当な続編「ループ」とは異なる方向の続編が今作。
ループはあまりに突拍子もない方向に話が進んだため、このような作品が出ることもなるほどとうなづける。が、印象はループとさほど変わらないように感じた。
今作も、訳の分からないものに輪郭を与えようとする物語だからだろう。
物語は新たな事件を設定し、それを解こうと奔走する人々の姿を追うが、物語として吸引力のあった一作目の謎は、一作目できちんと解けてしまっている。それ以上の状況を設定できない限り前作を超えることは出来ないだろう。
そしてそれはやはり難しいことで、今作は縮小再生産の続編となってしまっている。

続編を二種作るというアイデアは興味深いが、それだけの作品となってしまったようだ。

リング0 バースデイ

★☆☆☆☆
~貞子の誕生~

「リング」「リング2」の流れを正史として、その原点を描いたのが本作。
部隊を過去へと移して、恐怖の対象としての貞子が生まれる過程を描く。
貞子の怨念がなぜ世界を滅ぼそうとするほど巨大なのかという点に、ある程度の説得力を持たせる内容となっている。が、登場人物それぞれの理屈があまりに利己的で、この世には愛も友情も無いかのように感じられる。

うら若き貞子役、仲間由紀恵は本作で女優として見いだされ、脚光を浴びていくことになるので、彼女の出世作としての意味合いが作品よりも強いのかも知れない。

閉鎖された人間関係で運営される劇団。そのアングラな雰囲気は好みだった。

踊る大捜査線3

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~感性変化の7年リトマス~
★★☆☆☆

人気ドラマシリーズの映画第三作。
一作目二作目はともに邦画史上に残る大ヒットとなったため、今作も期待が高かったが、残念ながら興行成績は低いものとなった。といってもけた外れの前二作と比べてというだけで、弩級のヒット作となったことに変わりはない。

前作から7年を経て、久しぶりに登板したこの映画にどのようなものを期待して見に行くかによって、評価は大きく変わるだろう。

思うに、前作公開時もう大人(映画の審美眼的に)だった人にとって、今作はああ懐かしいと感じるノスタルジックな映画だろう。これこれ、このノリ。この馬鹿馬鹿しさ! といった具合だ。
前作公開時にまだ幼かった(映画の審美眼的に)人にとっては、前作よりはるかにランクの落ちる、擁護しようのない駄作と映るだろう。

この作品は、前作と何も変わっていないのだ。

質も、テイストも、時間経過を無視してまるで同じ。7年前に作られたものが凍結保存されていて、それが解凍されて出てきたような。
だから観る者は7年前の自分の感性がどのように変化しているかを知る手がかりとして、今作を鑑賞してみるのもおもしろいだろう。

占い程度に、判定を書きつづれば以下となる。

前作より退屈だと感じるなら、それはあなたが幾多の経験により大人になったという事だ。単純な物語や、内側を向いたネタの数々に、子供っぽい完成度の低さを感じ取ったのだろう。これまでは食指を動かさなかったような、多少ヘビーな映画にも目を向けてみるといい。

前作ままだと感じるなら、あなたは自分の感性を保つことに成功した。時間でたやすく変わらない、きちんと重石のついた判断基準を持っていたということだ。その感性に沿って今後も映画を楽しむことはもちろん、範囲外に目を向けて感性をさらに強固なものに鍛え上げてはどうだろう。

前作よりも楽しめたのなら、あなたは解放されたのかも知れない。映画の価値は映画の内容だけで決まるものではないと、複数の判断軸を得たのだろう。ネームバリューの高い作品を。きちんと盛り上げて公開することは、産業としての映画を守ることだ。その困難や、努力を思いやれる余裕ができたのかも知れない。
今後もこだわりなく多くの作品と接することで、これまで見てきた作品達が異なる意味合いをもって蘇るだろう。

さて

作品に対する絶対評価を心がけるなら、少しお金のかかったテレビドラマ、程度の出来だ。
ファンアイテムの域を出ず、これまでの作品群を見ていない人に勧めることは出来ない。もしくは織田裕二を筆頭とした出演陣いずれかのファンであるなど、前提をクリアしないと楽しむことは難しいだろう。

署内に出てくる動物。
打ち壊し一揆のように扉をゴンゴンとたたく姿。

知らない人が観たらどこまでも寒く、もしくは一周してシュールな笑いを生み出す極寒の北極映画だ。

2010年9月21日火曜日

シャーロック・ホームズ

~意外で正当な探偵イメージ~
★★★★☆

ロバート・ダウニー・ジュニア演じるシャーロック・ホームズ。ジュード・ロウが演じるトーマス・ワトソン。監督は「スナッチ」「ユージュアル・サスペクツ」で小気味よい物語展開を魅せたガイ・リッチー。

何しろホームズとワトソンのイメージが楽しい。破天荒で世捨て人のようなだらしのないホームズと、頑強で物々しいワトソン。一般にイメージされる二人とは、役柄が反対のようにも感じられるが、これが原作に近いらしい。どうやら「名探偵」というアイコンになった彼のイメージは、原作と切り離されて一人歩きしていたようだ。

このホームズは推理と腕力で事件を追い進める。理路整然とした推理を解説しながら披瀝するシーンはなく、一瞬のシナプスのひらめきを独特の演出で映像化している。
ホームズは推理を語らず、彼の想起した推理が映像となってそのまま描かれるのだ。過去や未来の映像が、フラッシュバック(フォワード?)となって現れる。おもしろいのが殴り合いなどの格闘シーンでもこの能力が発揮されること。相手の動き、自分の働きかけを一瞬にシミュレートする事で、詰め将棋のように相手を追いつめていく。ホームズの格闘家としての強さに十分な裏付けを与えている。

頭脳明晰で格闘上等。これではまるでスーパーマンだが、多くの欠点もホームズには備わっており、例えばあまりの偏屈、例えばあまりの生活能力の無さが、彼を魅力的なキャラクターに仕立てている。とどめがロバート・ダウニー・ジュニアの捨て猫のようにつぶらな瞳。このホームズ像は、病みつきになること請け合いだ。

実際続編の制作も積極的に働きかけられているようで、彼らとの再開が楽しみでならない。

運命のボタン

~時間がたつほど腹が立つ~
★☆☆☆☆

自意識過剰でエンターテイメントの自覚を失ったB級映画。
シックスセンス以外のシャラマン映画に近い。
曰く、もったいぶったあげく訪れる、何でもないオチ。盛り上がりようもなく、見終わった後に残るのは頭上のクエスチョンマーク。
主演のキャメロン・ディアスは安定した演技。魅力的だとも思うが、映画自体の印象を覆すことは出来ていない。

一体この映画はどういった対象に何を伝えたいのか。
制作者の気持ちがまるで伝わってこないことに不気味さを感じる。映画という存在として、ピントがぼけているのだ。
思わせぶりな部分を深く考察すれば、何か意図が見えてくるのかも知れないが、その意欲が湧いてこない。何の興味も持てない相手に対して、考えるのも面倒くさいというものだ。

なぜだろう。見終わってから時間がたつほど腹が立ってくる。
したり顔で知ったかぶりを声高々と述べる客観性のない人間。
そういう、関わりたくない人物像と印象がだぶる。

そう、この映画は鳩山元首相と存在感がそっくりだ。

トイストーリー3

~何の不満もない傑作~
★★★★

映画館で3D鑑賞。
人間には内緒で動き回るおもちゃ達の冒険。
CGアニメの黎明期を一作目で切り裂いたシリーズの三作目。長足の進歩に驚きを隠し得ない。

練り上げられたストーリーは、まるでそこしかない細い穴を通すように繊細に紡ぎあげられており、見事に感情を操作される。とぎれない見所。全体の密度も過不足無く整えられ、鑑賞中に我に戻る機会が無く、没頭して楽しむことが出来る。
敵味方、どんなキャラクターにも愛すべき点があり、それぞれの存在感に奥行きを感じる。自分は1、2をきちんと通して鑑賞したことのない曖昧な印象で3を見たが、序盤で綺麗にキャラクターを理解できるし、不都合は全く感じなかった。
が、この物語をリアルタイムに楽しんでいた世代には、特別にすばらしい作品となるらしい。

登場するおもちゃ達には持ち主がいる。
一作目では小学生だった彼は、作を追うごとに、実時間に即して大人に近づいていく。今作ではついに大学入学の年齢となり、おもちゃ達の扱いをどうするのか、愛情が深いほど苦しい状況を突きつけられる。この苦しさは、おもちゃを愛する持ち主にとっても、持ち主を愛するおもちゃにとっても同じものだ。

持っているおもちゃが動いたら楽しいだろう、という子供の夢をそのままスクリーンでかなえてくれた一作目から、おもちゃの持ち主と近い年齢で楽しむことの出来た多くの人にとって、作品中のおもちゃ達は誰でもない自分のおもちゃに等しい。今作が描くおもちゃ達との決別は、まさに自分の問題だ。
ひときわ強い感情移入をもって今作を鑑賞し、たどり着いた結末にどんなに涙しても、それは恥ずかしいことではない。また、その涙は後ろ向きの回顧的な涙ではなく、これからの人生を凛と生きていく力になる、心強い涙であろう。

最後に、ピクサーのCGアニメに特徴的な徹底したローカライズによるものだと思うが、日本人にとってもはや最大公約数的なあのキャラクターが画面に登場する。このような点も物語を身近に感じさせる一つのテクニックなのだろう。

借りぐらしのアリエッティ

 
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★★☆☆☆
~生きる目的~

あえて言い切る。
生活感が足りない。
小人達の暮らしが、画面の中から現実感を持って立ち上ってこないのだ。この言い切りに疑問を持つ方も多いだろう。
かき込まれた背景。日々の暮らしを営む、片づいていない雑多な空間。細かなところまで気を配られた演技の数々……。
ここまで描かれた世界こそが生活感ではないのか!?
確かに、努力は見て取れる。懸命に考えて、想像して、積み上げた要素の数々が画面に溢れている。しかし、ときめかないのだ。どこか他人事のまま、物語に興味を持てぬまま、上映時間を退屈に過ごすことになる。

まるで、全ての好みがそろっているはずの女性を前に、なぜか心が動かない不可思議さ。惚れる、ということが理屈ではないのと同様、映画の吸引力も計算通りに現れるものではないのだ。それは恋のように理不尽なのだ。

生活感の無さの端緒に、二つの小さな事柄を挙げよう。
一つは「豆電球」。
小人は探検のランタンとしてボタン電池で灯した豆電球を持つ。
鍛冶加工の可能な小人は豆電球に金属の覆いをつけ、取っ手をつけて使用する。なるほど、細かな設定だ。
しかしそれは、嘘くさい頭で考えただけの設定ではないか。
工作をしたことがあるものなら、豆電球の危険な熱さを知っている。
金属で形作った覆いや取っ手はすぐに熱を伝えて、とても素手では持てなくなるに違いないのだ。
また、小人にとって豆電球の光量は目をつぶすほどのまぶしさだろう。
ボタン電池を直結した瞬間画面が真っ白になって、光量を絞る仕草を見せる……といった表現があったなら、架空世界への食いつきが増しただろう。それとも、電圧などの関係でボタン電池だとあの程度の光量が実際なのだろうか。そうだとしたら、本当だけど嘘くさい表現となっている訳で、よろしくないのは変わらない。
貴重だと思える豆電球を、目の届かないリュックの背中にひっかけて移動するのも無頓着すぎる。スケールの関係で、小人にとってのガラスは鉄に等しい強度なのかも知れない。それならその差異を表現しなければ、これも嘘くさい本当、になってしまう。

つぎに、「待ち針」。
アリエッティは人間界の冒険中に待ち針を拾う。彼女にとってそれはサーベルのような大きさで、喜んでそれを服の腰部分に突き通す。
違和感を感じた。
小人達は周囲の様々な事物を丁寧に、価値ある物として扱っているように感じるのに、なぜサーベルを自分の服にそのまま突き刺して持ち運ぶのだろう。そのような巨大な穴を、大切な服に開けるだろうか。余りに無頓着ではないか。

小さいということは、確実に世界が異なる。
誰もが興味深く感じたであろう、水の表面張力の表現。ポットからカップに注ぐ紅茶の、まるで粘性の高い液体のような動き。
このように世界の物理的な感触の差異をきちんと描くのであれば、もっとそういうシーンを増やすべきだった。おそらく小人達はその体長に比して、強力な筋力を持つはずだ。虫が体長に倍する獲物を運ぶように、体が小さくなると、筋肉や骨の容量に対する強力さが目立つはずなのだ。
逆にそうではなく、筋力まで小人なのだとすれば、世界は恐ろしい驚異に満ち満ちた魔界となり、小人達が家族単体で生き抜ける環境ではあり得ない。

「日本昔話」のようなデフォルメで描かれたなら、このような細部は気にもとまらないだろう。だが、今作はジブリのリアル表現で描かれた。ならば、このようなつっこみを受けることも必然だろうと思う。
こういった、現実的なようで配慮が行き届かないどっちつかずな印象が、生活感のなさとして目に映るのだ。

監督は今回初監督となるたたき上げアニメーターの米林宏昌。
映画公開にあわせてテレビで特集された制作ドキュメントを見れば、彼に好意を覚えずにはいられない。朴訥な見た目の印象そのままの、誠実な作業を一つずつ積み上げていく姿。回りを気にしながら、譲らないところも併せ持つ強情さ。
宮崎駿監督の息子、宮崎吾郎の監督作品「ゲド戦記」は絶望的に才能を感じられない物だった。彼は絵は描けるが、映像を描くセンスがない。このまま経験を積んでも、何らかの突然変異がない限り、その直線上に価値ある作品が生まれる可能性はない。
だが、米林氏は違う。確かにアリエッティはちぐはぐな作品で、おもしろくない。だが、誠実な姿勢と今後の可能性を感じさせてくれる。現時点で才気溢れる新たな才能ではないかも知れない。だが、今回の経験を踏み台にどんどん向上していくような期待感を感じることが出来た。なにとぞこの弱々しい種火を消すことなく、宮崎駿のいなくなったジブリを、日本アニメーションを照らす強い篝火へと導いて欲しい。
以降は考え進めることを放棄した思考の残骸であるが、メモ代わりに残しておく。

◆メモその1
この映画、内容を寓話的にとらえて、考えれば考えるほど鬱になる。脚本がどろどろとしすぎだ。
小人達には「生き残る」以外の目的がない。共同体の一員として役目を果たすこともなく、生活の安定やレベル向上を目指すこともない。
借り暮らしなどといっているものの、必要な物資は借りたまま返さない。借りたものを別の形で返す気もない。良く言っても泥棒暮らし、悪く言えばただの害虫だ。
そんなアリエッティの毎日に、夢も希望も感じない。
彼女が何をがんばろうが、何を語ろうが、全て無意味だと感じ、虚無感に引き寄せられてしまう。これだけなら、景気の悪い鬱な物語だと終わっただろうが、考えたくない可能性に気がついてしまった。
この俗世間にまみれた小人のありようは、そのまま人間のことだ。
小人と人間の関係は、人間と神、もしくは人間と世界の関係の寓意ではないか。
どのように時間と手間をかけた暮らしの空間も、神の、世界の気まぐれで一晩に灰燼に帰す。
核家族化する人間社会。孤立していく家族、個人。
自然から資源を借りたまま、図々しく返さない借り暮らし。
本質的に、目的のない人生。
嫌な小人だとないう印象が、そのまま自分に流れ込んでくる。なんと痛烈な批判だろうか。
しかも、物語は希望無く終わる。
美しいラストシーンに思えるが、その実、気持ちは過去に残したままの後ろ向きの別れだ。立ち向かうことを諦めて、世の決まりに従い、それなりに生きていく。
我々の暮らしや、人生のむなしさ、空虚さを描いたのか。すばらしいと思えるものは手に届かない幻だよ、と諭す物語になってはいないか。
脚本がこのような目的を持って書かれたのかどうかは分かりはしないが、少なくとも裏に何らかのネガティブな意図を含ませているのは確信に近く感じる。
この作品を見た誰もが感じているはずだ。
結末の煮えきらなさ。心地悪さ。
その後の明るい未来を想像できない、虚無。
脚本の宮崎氏は問題意識を前向きな意欲に導くことは出来ず、監督の若い力も脚本の虚無を打ち払うことが出来なかったのだろう。

◆メモその2
ヒロインアリエッティは学校に行くわけでもなく、畑仕事をするわけでもない。この年になるまで何をしていたのか。唯一の生産的手段である「借り」には行ってなかったわけだから、いいとこ家事手伝いだろう。
母親は物欲にまみれて既得権益の保護に躍起になり、潔さのない醜悪さをまき散らす。このあたりは笑い所にしたかったのだろうが、見るからに意地悪婆のキャラクターデザインがそれを許してくれない。
寡黙な父親は結局娘にどこまでも甘い親ばかで、実際あまり役に立たない井の中の蛙。
人間側もひどい。
薄幸の美少年は大人の前ではいい顔をしながら、その実己の境遇に疲れ果てて人生を諦めている。ゆがんだ生い立ちによってか、絶対的に有利な力関係での押しつけでしかコミュニケーションをとることが出来ない。
祖母やお手伝いに至っては、ただただ人間的な魅力を感じさせない。本当に良くいそうな人物という点ではリアリティに溢れているが、見たくないたぐいの現実感だ。こちらも笑いにしようとしているところで、醜さが勝り、少しも笑えない。
アリエッティと少年が今現在美男美女だとて、彼らのゆくすえたる大人達がこんなでは、明るい未来を想像することも出来ない。
物語だけでなく、遺伝子からにじみ出る類似性の面からも未来を封殺。どこまで見る者を暗い気持ちにしたいのだろうか。

アリス イン ワンダーランド



~チェシャ猫ふわふわ~
★★★☆☆

ジョニーデップとティム・バートン。おなじみのコンビが描く、狂気と耽美の映像美学。2010年公開。シャッター方式の3D上映で鑑賞。

3D映画をみるのは4作目だったが、びっくり映画でもなくただのうたい文句でもないきちんとした3D映画。。密度の高い画面要素にさらに奥行き情報が伴った、しかし情報過多ではない、きちんと設計されている。
なんちゃって3D映画として冷笑の対象となる「タイタンの戦い」をみて、3Dもだめかなあと思った後だったので、ずいぶんと心救われた。

大人になり、結婚適齢期を迎えて己の意に添わぬ事を「仕方がない」と受け入れざるを得ない立場になったアリス。彼女の前に、今再び、懐中時計をたずさえた白いウサギが現れる。しかし再び訪れた不思議の国は、かつてのワンダーランドではなく、狂った世界(アンダーランド)になり果てていた。

ここまで前置きを聞いて、興味を引かれぬはずもない。今作は世界で記録的なヒットを記録し、ティム・バートン監督の最大のヒット作になったという。
みてみると、それにも納得。この映画楽しいよ。

もともとティム・バートン監督の真骨頂といえば、ハイテンションな登場人物の突飛な言動と、尋常ではないが統一感のある世界表現。考えてみればアリスほどこの監督に適した題材は無いのではないか。
独特の世界観を持った原作の上に、さらにいびつな妄想が積み重ねられて、アリスが再訪した世界は、まさに狂気の世界。もともと強烈な登場人物の個性がさらに際だち、物語が存在しなかったとしても、紀行物として十分に楽しむことが出来そうだ。

そして今回、物語も気持ちがいい。
大人になろうとしているアリスが、アリスであり続けながら大人になるために必要だった心の旅。それがこの物語だ。
不思議の国のあれこれは、そのまま現実の寓意として直結しており、アリスはそれらを自分の中に消化して、新しい物語へと旅立っていく。細かな理屈は必要なく、ただ気持ちとして納得できる。

心技体のそろった、バランスの良い作品だ。

蛇足だが、チェシャ猫がかわいくてたまらない。
ふわふわ浮いて、好き勝手に姿を消す笑い顔。
猫バスに似すぎだとの意見もあるが、柔らかそうな毛並みは3Dとなって魅力満点だ。

真夏のオリオン

~貧乏くさい~
★☆☆☆☆

テレビ録画で見たので公開時のテンションなどは不明だが、全編で一貫しているのが貧乏臭さ。予算少なかったんだろうなあと常に気の毒になって淋しい気分になる。

太平洋戦争末期。沖縄方面に展開された日本海軍最後の戦力である潜水艦がいかに戦い、終戦を迎えたか。そのほとんどはフィクションであろう。
このような設定であるから、舞台のほとんどは潜水艦の中であるのだが、これがどう見ても広々している。広島、呉に展示されている自衛隊の退役潜水艦を見学したが、後世のそれでさえ驚くほど狭かった。撮影の都合などがあるのだろうし、なにも現物ままにセットを作る必要もないのだが、狭苦しさを表現しようという気がないのが残念。物語の追いつめられた雰囲気も薄くなってしまっている。
その広々とした船内の綺麗さがまた安っぽい。
使い込まれた機械という風がない。軍人らしい几帳面さでいつもピカピカに磨いていたとしたらこんなもんなのかとも思ったが、それなら磨き上げるシーンを入れるべきだろう。中途半端な汚れと軽々しさが、ブリキのおもちゃに見えてしまう。地上波デジタルの高精細が逆効果だ。

さらに艦長役が玉木宏。

人気があり、演技もそこそこならば問題ないようにも思われるが、一人涼しげに超然と、浮き世離れした雰囲気に他の乗組員と大きな隔たりを感じる。印象として、重みのない夢見がちな艦長が、超絶な幸運で生き延びていく物語と思われてしまうのだ。
ライバル役となる海上の米軍駆逐艦の表現がまた安い。
ロングのイメージカットと人物バストアップの両極端。最低限の画面要素で何とか状況を説明しようと一生懸命だ。選べない手段の中でよくやっているとは思うが、やはり安っぽさは拭えない。
物語も、妙なお涙頂戴の展開ばかりに辟易。全般に冗長な雰囲気で無駄に時間をとったカットが多い気がしてならない。

結論として、全てのパートが出来うる範囲でがんばっているけど、やはり全てが安っぽい。見ていると貧乏な祖母のかつかつな生活を見ているような、切なく、淋しい気持ちになる。(そういった経験はないが)
これがテレビドラマなら、このような切なさは感じなかっただろう。映画なのにこの安っぽさ。映画の中に馬鹿に出来ない努力を感じるだけ、やりきれない思いに捕らわれるのだ。

2010年9月15日水曜日

魔法使いの弟子

~ニコラス魔界大冒険~
★★☆☆☆

ニコラス・ケイジ主演の現代魔法大戦。
ディズニー初期のアニメーション映画、ファンタジアは複数の短編からなっているが、そのうちの一編が「魔法使いの弟子」。魔法使いは髭のおじいさん、魔法使いの弟子がミッキーとなっている。ニコラス・ケイジが髭のおじいさん役というわけだ。

物語は師匠と弟子の恋愛模様を織り交ぜて展開する分かりやすい内容。さえない若者が特別な力を得て……、という定番な内容だが、特筆すべきは主人公の若者が、心底さえないという事。
普通は役としてもてない設定になっていても、主演を張るような俳優。基本的にイケメンである。美形なのにモテない、というのはなかば黙認のルールみたいなものだ。だが、今作は異なる。主演のジェイ・バルチェルは本当にもてなさそうなのだ。演技だけでは出てこない、素のイケてなさ。なにせ、特別な力を得た後でも格好良くないのだから本物だ。
しかし替わりに、非常な親近感を覚えるのも事実。物語の最後まで距離を感じることなく終劇を迎える。これはおそらく意図された物なのだ。

なにしろ、彼はミッキーマウスのよりしろなのだから。

ミッキーマウスは、おっちょこちょいで、いい具合にいい加減で、すごい力を持つということはない。そして、あふれる親近感。
その枠に制限されて、今作の主人公は最後まで間抜けなままなのだ。

そんなことで話がまとまるのか? まとまる。
ヒロインは、大活躍をした主人公に惚れるのではない。非常に見る目のある(ひょっとしたら下手物ぐいの)ヒロインは、一見からは分からない、内面の優しさ、誠実さによって、主人公に好意を寄せるのだ。主人公が立派になりすぎることなく、ヒロインの立派さによって結ばれる。
ああ、これはドラえもんではないか。

今作のプロデューサーは大作をそつなくまとめて時代にあった娯楽を提供するのに定評のブラッカイマー。たしかに全編に、ブラッカイマー節がにじみ出ている。
冒頭の一気呵成な説明シーケンスがすごい。
細かいことを気にせずに堂々と前置きを説明してしまう度胸。
序盤から出し惜しみないスペクタクルシーン。
そして期待をあおり、これはひょっとして名作か! と思わせて中盤以降下がりっぱなしのテンション。
ネタ的にはたっぷり時間をとれそうなシチュエーションをゴミのように扱ってでも前進していく潔さ。
ブラッカイマーはこうでなければね。というか、こういう映画を作る人がいなくては、業界が弱っていくと思う。時代に残るとかは気にせず、今売れるのかどうなのかという、これはこれでまっとうな視点。
見所多く、値段分楽しめるという点で、今作もきちんと価値ある「商品」で、何も考えず楽しむことが出来た。

ところでジェイ・バルチェルは、ほぼ同時期に公開されたCGアニメ映画「ヒックとドラゴン」で主人公の声優をこなしている。この主人公がまた今作に負けていないへたれ具合。へたれ役としての立ち位置を固めている。

2010年6月6日日曜日

告白

 
★★★★★
~松たか子がすごい~


湊かなえの原作小説を、中島哲也監督が映像化。原作は未読。関連情報はCM以外無しという状況での鑑賞。
非常に刺激的で、熱中度の高い作品。

中学校女性教師の幼い娘が学校内で事故死。
その真相と原因と復讐が関係者の告白によって描かれる。

ともかく女教師の松たか子が良い。
冒頭、とうとうと告白を続ける女教師の緊迫した、達観した空気。これだけで見る価値がある。言葉の速度、強さ、細かなニュアンスが見る者の興味を惹いて放さない。本来の女優とは、プロの演技とは、このような強い吸引力を持つものなのだ。
松たか子が良すぎるが故に、彼女以外の要素が厳しいとも感じる。特に中学校の生徒が演じる部分は驚くほど空気が緩む。張り詰めた場面であるのに、どこが気が抜けているのだ。冷静に考えれば彼、彼女はよくやっている、高いレベルの子役だろう。だが、同じ作品内に同居されると、どうしてもその差異が目立ってしまうのだ。

映像的にも面白い。
監督の中島哲也はサッポロビールのCM「温泉卓球」シリーズや、「下妻物語」「嫌われ松子の一生」でストップモーションやCG合成、恣意的なアングルによる特異な映像表現を行ってきた。
他の作品ではけれんみが強すぎて作品と融和していないように感じたが、今作でもそれら手法は使用しつつ、作品に合う押さえた形に押さえている。緊迫した空気を茶化すことなく、日常風景におり混ざる違和感を映像として感じさせる事に成功。また、独白部分が多く映像的な見栄えの作りにくい画面に十分な魅力を与えている。
特に映画最後のもっとも力の入ったCG表現は、描こうとしたイメージと作品の中での意味、登場人物の心情が一体となり、心に深く残った。

しかし、もう一度みたいかといえば、そうでもない。
情報のない形で鑑賞できた初回に比べ、見返した時は数多くのアラが見えてしまいそうだからだ。だから、自分と同様に今作についての情報が少ない人ほど、ぜひ、そのままの状態で鑑賞してみて欲しい。
ともかく心揺さぶられることは、保証する。
松たか子の最後の台詞。そのまた最後の一言。
その一言の恐ろしさ。
それこそが、最大の「告白」だったと感じる。

夢のチョコレート工場

~これが一作目~
★★☆☆☆

深夜にひっそりと放送されていたのは、ジョニー・デップ主演、ティム・バートン監督の「チャーリーとチョコレート工場」ではなく、1971年に制作されたメル・スチュワート監督の「夢のチョコレート工場」。
どちらも原作は児童小説「チョコレート工場の秘密」なので、ティム・バートン監督の作品はリメークと言える。ティム版がテレビ放映されるのにあわせて一作目が深夜放送されたらしい。

ティム版が猛然と世の話題をさらったときも、一作目があったと聞いた覚えはない。ただの古びれたしようもない映画なのだろうと思いつつ眺めていたが、予想に反してなかなかに楽しい。
特にチョコレート工場にたどり着くまでのくだりが、名作劇場的な地に足のついた絵づくりで好感を持った。ティム版も古びた建物の並ぶ町並みを再現していたが、現代的な要素も持ち込んでおり、どうもすわりが悪い。前作はそのまま1970年代の雰囲気(なのかな? とにかくいい具合に古くさい)。チョコレートに夢中になり、夢馳せる子供達の姿は昔の風景の方がしっくりくるだろう。
工場主はジョニー・デップのように外見上の奇抜さや華やかさはないが、テンションの高いエネルギッシュな人物像という点で一致している。さらに工場を巡りながら見聞きするものの感触は両者とも大差がない。

ただ、特撮部分が厳しいのは確かだ。
チョコレート工場のイマジネーション溢れる部屋の数々。描こうとしているイメージは伝わってくるのだが、魔法の域に達したCGと特殊効果の生む昨今の映像と比べれば、どうしてもあらが見える。それがにじみ出している懐かしい空気も悪くないが、これは本来の楽しみ方ではない気もするし……。
時代を差し引いてみることが出来るとすれば、錯覚の利用、奇抜でどぎつい色彩が生むめまいのような感触など、大胆な映像手法もちいて一定の効果をあげているのは評価すべきだろう。

映像化の筋道を立てたのが今作で、それを時代に合わせてしっかり積み上げたのがティム版ということなのだろう。

タイタンの戦い

 
★★☆☆☆
~誉めにくい作品~


ギリシャ神話、勇者ペルセウスの物語を映像化。
1981年の同名作品のリメイク。全作ではストップアニメーションで描かれた伝説の怪物達が、限界のないCG映像で表現される。
3D上映の劇場で鑑賞。

元々が神話。大きく改変する事もない忠実な展開のため、物語としてはかなり苦しい。ギリシャ神話は神々の人間くささが特徴だが、特にゼウスの色ボケ具合は閉口せざるを得ない奔放さ。全ての元凶の色ボケじじいが愛を口にしても失笑しか生まれない。
さておき映像はといえば、こちらも残念ながら昨今の目の肥えた観客には及第としか映らないだろう。部分部分で挙げれば、黄泉の渡し守の造形や、クラーケンの圧倒的な巨大感。かつて絶世の美女であったというメドゥーサに残ったその片鱗。みるべき部分も多々あるが全体の印象を覆すほどの力はない。

ならば3D映像としてはどうなのかといえば、見づらいの一言。シャッター式グラスの明度低下を意に介さない暗い画面の多さ。バタバタとカメラのそばで大いそがしするアクションシーン。(3D映像は目前の大きな動きが理解しづらいのではと思う)
通常のバストショットも、人物の輪郭部分に間延びするような妙な立体感があり、質の悪さを感じさせる

およそ3Dを意識しないで作られているかのように感じたが、それもそのはずで、なんとこの映画は平面映画として作られたものを、完成後にデジタル処理で3D化したものだということだ。至極納得したが、後付けの立体化はやはり違和感が強いのだとつくづく感じた。それでも3D化したのは、興行収入の為なのか、監督の要望なのか……。みる方にとってはネイティブ3Dと価格が同じなのだからどうもだまされた気分になる。

今作は一部で張られたポスターに漫画家の車田雅美のイラストが採用されている。一世を風靡した彼の作品、聖闘士聖矢(セイントセイヤ)のイマジネーションが監督に大きく影響しているとのことで、恋われての採用ということである。作中、オリュンポスの神々が光の煌(きら)めく鎧を身にまとっているのもその影響らしい。
第九地区で日本アニメ、マクロスのミサイル表現が模倣されたことといい、世界中の若手監督がどこかで日本のアニメ、漫画の薫陶を受けて育った時代なのかも知れない。

そんな彼なら捨てちゃえば

★★☆☆☆
~映画の向き不向き~

女性の視点を重視した恋愛至上主義のトレンディードラマ。
昨今の過激な女性情報誌の内容をそのままぶちまけた感じ。
欲望をこぎれいな戯れ言とおしゃれな雰囲気でパッケージング。
最後はロマンティックと自己啓発。

あれこれぶっちゃけすぎていて、自分にはきつすぎる。
現実的すぎてきついというのではなく、抜け抜けと欲望まみれな生活を見せつけられて気が滅入るのだ。いや、これこそが現実なのだと認めたくないだけかも知れない。

この世に、真実の愛はない。

日々の生活を安定的に過ごすための楔、重石が多くの人間には必要で、そのために発生した依存関係が愛である。
これが、この映画の主張。
運命など無く、行き当たりばったりの思いこみが、なんだかドラマっぽいものを生むのだよ……。
確かに、反論しようがない。悔しいけれど、きっとそうなのだろう。
でも、だから映画を見るのだ。素敵な勘違いをしたくて映画るのだ。
それなのに、このような残酷を見せつけられるとは。

さらに全ての男女関係はセックスしてからでないと始まらないよ、というルール。
まあ映画だし、大げさにやってんだろうなと考えようとしたが、米国で育った帰国子女の知人曰く、アメリカはほんとにそうだよ、とのこと。
その言の信憑性は不明だが、少なくとも高校卒業パーティーでの経験談や、テレビの過激なお見合い番組の話を聞く分には根も葉もないことではないようだ。
万事米国の後追いが多い日本であるから、やがてこの国もそうなるのだろう。もうなっていて、自分が知らないだけなのかも。

この映画を見ていて、とある映画を思い出した。
「ワンダーランド」
同様に、だんだんと腐っていく日常を描いた作品だ。
今作よりも、わびしい登場人物達。身近で現実的だ。
その分、ラストの小さな救いが際だち、生きていく力をくれる。とても好きな作品。

比べると今作は、やはり痴話話好きのテレビ番組のようで、空々しさは最後まで消えることがない。
構成や展開にみるべきところがあるとも思うが、どうも反感が先に立つ。どうにも向いていない映画、なのだろう。

2010年5月12日水曜日

ルパン三世 バビロンの黄金伝説

ルパン三世 バビロンの黄金伝説 [DVD]

☆☆☆☆
~あなたを愛しているわ~


ルパン三世の劇場第三弾。
第一弾「ルパン VS 複製人間」、第二弾「カリオストロの城」が評価を高めているのに対し、本作はもはや無かったような扱い。だが、確かにそれも仕方がない。

テレビのサードシリーズ、ピンクジャケットのルパンが今作の主人公だ。
サードシリーズは原作の洒脱な画風を強調したものになっており、見方によっては雑や手抜きに見える。今作は残念ながら「味」で済む範囲を超えて、クオリティが低い
全体の構成もテンポが悪く、おなじみルパン&銭形のカーチェイスが妙に長かったり(しかも映像の使い回しが多い!)、会話がつぎはぎでうまく流れてなかったり。
コミカルな表現もサードシリーズで強調される部分だが、アニメーションの動きとして出来が厳しく、気持ちの良くない動画となっており、悪ふざけになってしまっている。

これら状況からみれば観る価値のない有象無象の一本となるが、自分はこの映画がなぜか忘れられない。
公開は1985年。自分が12歳の時。劇場で見た記憶はなく、数年後テレビで見たのだと思う。思春期まっただ中だ。
そんな自分には、いくつかのシーンが焼き付いている。

ロゼッタばあさんが、とぼとぼと線路を歩くシーン。
ルパンが事の顛末を不二子に説明する絵本のような画面。
列柱の螺旋を流れる地下水道。
下水道の蓋で夜空に飛び上がるルパン。
そして、最も心に残っているのが、ヒロインの別れの言葉。
「ルパン、あなたを愛しているわ」
決まり文句といえばこれ以上の決まり文句もない。
なのに、このシーンが好きで、ずっと覚えていた。

今回十年以上ぶりにみるにあたって、気づいたことには、この大ざっぱな物語や画面の中で、ヒロインの描写だけが細やかで継続的なのだ。
きちんと表情が感情を物語って、最後の言葉につながっている。おしむらくはルパンとヒロインの今作以前の関わりが全く描かれておらず、気持ちの突端が不明なのだ。
ヒロインの孤独。一人で過ごした長い時間。それを受けてこそ、最後の言葉が光るのだろう。
おそらくヒロインの設定が自分の好みなのだ。一途に長い時間を過ごしたヒロインに、自分は弱い。
「タイタニック」しかり、「LUNAR2」しかり。
だから人にはとても勧められないし、★も一つだ。だけどまた10年以上後、僕は一人でこの映画を見直すだろう。
そんな、作品。

ちなみにヒロインの声優はタイアップでアイドルの河合奈保子。
棒読みに近い台詞のたどたどしさも、その不器用がキャラクター性に見合って悪くないと思っている。


シャッターアイランド


測定不能
~配給会社が作品を壊滅させている~

ディカプリオ主演のサイコスリラー。
精神病の重犯罪者のみが収容された孤島の隔離施設で起こった事件を追う捜査官。
目から鱗。精神を病んだ者の中で聞き込みを行うということは、現実をどんどんぼかしていくということなのだ。健常者が多数の中でこそ精神病患者は異常となりきちんと区別されるが、その比率が逆転したとき健常者こそが異常となる。
何が正しく、何が間違っているのか、という単純な対立ではない。各人が心の中に持っているそれぞれの「正しい認識」「正しい判断」「正しい世界」同士がせめぎ合う混沌。「正義」の反対語は「悪」ではなく「別の正義」だという言葉を思い出す。

作品自体は丁寧に作られており、だいたいの流れを追う分にはさほど難解ではない。小さなギミック、大きなギミックを組み合わせた仕掛けもクオリティが高い。のだろう。
だろうとしか言えないのは、今作を楽しむことを配給会社に台無しにされてしまったからだ。
これまでもいくつかの映画で見かけた手法が今作でも取り入れられている。
「オチを誰にも話すな」
と冒頭に明示するやり方だ。
今作で問題なのは、これがどうも配給会社の宣伝行為、謎解きキャンペーンを告知するために差し込まれたもので、本来の作品原型には含まれていないのではないかと思われることだ。しかもそのレベルがひどい。謎を解くヒントにまで言及してしまっているのである。

♪これこれこういうところがヒントだからしっかりみてね♪

もう、はっきり殺意を覚えた。
「オチを話すな」というだけで、「すごいどんでん返しがあるよ」というネタバレ
だということに、宣伝担当者は気づいているのだろうか。その上にヒントを出されて、自分は冒頭5分で大仕掛けを理解してしまった。
自分がすごいよ、ということではない。
この映画は、そのように作られているのだ。
きちんとつじつまを合わせて作られている。だから、冒頭の細部にも謎の仕組みが演出されている。ただみていたなら、違和感を覚えつつ、可能性をいろいろ考えるだけで済んだだろう。
だが、配給の馬鹿野郎がヒントを冒頭に示したために、違和感は明快な推測となって固まり、残り時間はやっぱりそうか、とそれを確かめるためだけのむなしい時間になってしまった。

売らなければならないのは、分かるよ。
でも、そのために作品をおとしめてどうするのか。
多くの人間が莫大な時間とお金をかけてつくった価値ある作品を、こんな有様にして公開した責任は重い。

その配給会社、パラマウント ピクチャーズ ジャパン。

自分は初めて配給会社を明確に意識し、ここに呪うよ。
同時期に公開された「第九地区」は本編への興味を持たせつつ、コアな内容には一切ふれない見事に自己規律された宣伝だった。今作の宣伝担当者は、爪の垢を飲むべきだ。
パラマウント ピクチャーズ ジャパンは、クズだ。少なくとも、今作の謎解きキャンペーンを企画した者。それを通した者は、業界の末端にいるのもふさわしくない、ただの仕事の出来ないサラリーマンだ。と思う。そう勝手に思って毒を吐き、おとしめられた今作を追悼する。
もはや正当な評価は出来ないので、測定不能とさせていただく。

この作品を見たい人は、映画館ではみるな。
セルビデオにはキャンペーンが無いだろうから冒頭のネタバレは避けれると思う。それを待つべきだ。
どうしてもという場合は、冒頭文章は目を閉じて読まないように注意して欲しい。

2010年4月21日水曜日

モンスターインク


★★★☆☆
~箱庭の冒険~

ピクサースタジオ作成のCGアニメーション映画。
2001年。(日本公開は2002年)
高い評判は聞いていたのだが、ようやくみた。
十分に鑑賞価値のある、愉快な作品。だが、やはり子供向け。得られる感情のふれ幅が狭く、予定調和しかあり得ない。
興味を引く設定。愉快な登場人物。徐々に見えてくる物語。見所が続く構成。
およそ欠点を挙げるのが難しいほどの完成度だろう。
おもしろい。
だけどやはり、想像の範囲内だ。
この物語は、見ている者が傷つくことのない物語だ。
その大前提があるから、はらはらすることがない。実際には作品に没入して一喜一憂しているのだが、どこかに保険のかかった安泰がある。
その分、おもしろかった、良かったと思うほどに、心に残らない。

これは、様々な刺激にさらされて敏感さを失った大人の感想だから、本来のターゲットである子供には問題とならない視点だろう。
ただ、思うのだ。
自分が子供の頃に観て、今も心に残っている作品は、安全で、守られた物語だったろうか。今みても、鼻白むほどの残酷やアンバランスではなかったろうか。

ところで、「インク」とは株式会社のことで作品名は主人公の勤め先そのものなのだが、自分はこれをペンのインクだと思っていた。そこから想像していた物語は以下のようなものである。

「博士が発明したインクは、描いた物を現実とする力を持っていた。
軍事力として使用しようとする将軍と、正義のために使用しようとする博士。
争いの最中インク(の詰まった万年筆)を偶然手にした少年。
空想がちで、落書きばかりしている少年が描いた怪獣が動き出す……」

最後は将軍の生んだ怪獣と怪獣の対決。決め台詞は「モンスターは、こんな怪獣を生みだした将軍の心だ!」。
こんな風に思っていた人も多いのではないだろうか。なんて。

ハートロッカー

ハート・ロッカー Blu-ray 

☆☆☆☆
~米国国内向けの映画~

 中東の紛争地域に投入された爆弾処理班の任務を追う、ドキュメントタッチのフィクション。

 自分の国が戦地で行っている活動、という前提でないと評価できない作品ではないかと思う。実際3D映画の新時代を切り開いた「アバター」を押さえてアカデミー作品賞を受賞したが、それに納得する日本人は少ないだろう。 

 描かれている世界との距離感が重要な作品要素なのだ。例えば、日本の時代劇や原爆関連映画。ふだんの生活で染み着いている文化的な基礎が作品鑑賞に大きく影響する。

 そういったわけで中東情勢を情報としては聞いているが肌身に感じていない自分にとって、物語にもなれずノンフィクションにもなれない中途半端な作品としかみることが出来ない。興味を持続することが出来ない。一言でいえば、おもしろくないのだ。 

 テレビのCMでは自己犠牲の感動大作のように見えるが、実際はその逆。戦争中毒の主人公の葛藤をそれとなく見せるだけの、温度の低い問題提議映画。アルコール依存症の雇われマスターの日常と言えば雰囲気が伝わるだろうか。

 いずれにせよ2010年(2009年の作品)のアカデミー賞は、これまでのアカデミー賞でたびたびあったように、主要な賞を受賞した作品が歴史に残らず消え去っていき、とれなかった作品がずっと人の心に、映画の歴史に名を残していくという事になるだろう。

 

 

第九地区



★★★★★
~ハリウッドの背理~


低予算の消えものSF映画かと思いきや、全編に緊張感みなぎる想像を超えたおもしろさ。巨大宇宙船が来訪し、すわ宇宙外交の始まりかと思いきや、知的レベルの低い使役宇宙人の難民団というのがもう尋常ではない。地球外の知的生命体とコンタクトをとるという神秘的なイメージを、戦争を経ることなく、ありふれた現実問題にいっきに持ち込んだ点が楽しい。

アイデアに溢れ、小気味よく進む物語のテンポ、胸のすく無茶無謀。ジョンカーペンター監督「ゼイリブ」からチープさを排除したような映画と言えば伝わる人が居るかも知れない。
さらに今作は、ハリウッド的な映画とは何かという疑問について、重要な示唆を与えてくれる。この作品が明らかにハリウッドらしくないものだというのではない。反対に、一見実にハリウッド的な映画なのだ。同じような場面、展開はこれまでに他の映画で見たことがあるし、VFXを駆使した奇想天外な生物、迫力ある戦闘シーンは目を見張る高いクオリティーで安定している。
それなのに、見た者は違和感を拭えない。
いつもの、よくある映画とはどこかが違うのだ。
なぜだろうと考え、内容を反芻する。自分は、物語の中で発生する状況に対して、登場人物が選ぶ選択肢に、独特の基準を感じた。

得られる答えは人それぞれかも知れないが、明らかに、それ以外の映画が一定の範囲、檻の中で作られていたのだということを認識できるはずだ。
この似て非なる感触、対照実験としての存在感は宮崎アニメに対する、ゲド戦記のようなものだ。見た目は同じなのに、中身が違う。本質を問うのにこれ以上の材料はない。ただ、ゲド戦記は作品価値として宮崎アニメに劣ること甚だしいが、第九地区は他の映画に負けない、むしろ凌駕したすばらしい作品である。
次作が楽しみな若い監督が出てきたことに、とてもわくわくする。

アバター


★★★★☆
~3Dの波頭~

説明するまでもない大ヒット映画。
映画館における3D上映の定着だけでなく、薄型テレビの次のトレンドとしての3D立ち上げ。それら重責を担った大作映画。エポックメイキングを宿命づけられた本作はどのようなものであったか。
実際の内容については別の機会に、今回は通常、3D、字幕、吹き替え、について考察してみる。

・通常上映 字幕版
・3D上映 吹き替え版
を連日で見た。

■通常上映で感じたこと

◆フォトリアルのCGキャラクターで違和感のないドラマが展開
ディズニー系のデフォルメキャラではなく、フォトリアルのCGキャラが、完全に実写キャラと競演している。
これまでの同系作品と異なり、モンスターではない人間的なキャラクターの表情までが、きちんと映像に乗っている。(これまでのCGキャラクターは人間との差異が非常に大きいものに限られていたと思う)
指輪物語のゴラムを推し進めた表現は、リアルになるほど細かい部分が気になり気持ち悪く見えるという、いわゆる「不気味の谷」を、完全に飛び越えている。
その実在感、違和感のなさは、まさにエポックメイキング。
◆舞台のクオリティ
異星の植生や生態系が、ものすごい説得力。
進化の道筋まで説明なしに何となく感じられる。
◆戸田奈津子の訳がやり過ぎ
意訳しすぎと言われる彼女の翻訳が、明らかに脱線気味の気がする。
◆おもしろい
物語は単純で分かりやすく、見る人によって様々な興味を持つことのできる多面的な作品。

■3D上映で感じたこと

◆意外と3D演出としてはおとなしい
直前に見た3D映画「クリスマスキャロル」が、画面手前にどんどん押し出してくる印象だったのに比べアバターはどちらかというと画面の向こう側に奥行きを感じる作りで、意外なほど3Dを強調しない。
窓から異世界をのぞいている感じで、つまり視界が画面で埋まると、その場にいるような臨場感。
おそらく、既存の3Dが大げさに3Dを強調しているのに比べ、今作は現実的なレンジでの3D表現を行っている。
インパクトには欠けるが、徐々に実在感が強くなっていき、終盤の没入感は半端ない。
つまり、自然な3D。
これに比べると、クリスマスキャロルは3D表現として子供っぽく、遊園地のアトラクションの系統から外れてない。
◆翻訳すごい
登場人物の口の動きに合わせて、日本語が話される。
口の動きも考えて、日本語訳がなされているということで、これはすごい。
◆疲れる
160分と長いこともあり、3Dメガネを着用しての視聴は結構しんどい。

■比べて感じたこと

◆訳メチャ大事
吹き替えと字幕とは異なる訳者が翻訳しているので、訳も異なるのだが、思っていた以上に差異が大きい。
キャラクターの魅力や世界観把握に深く関わる部分までも異なっている。
戸田奈津子は明らかに意訳が多く、はまればすごいがはずした時のダメージもでかい感触。
今作に関しては吹き替えの方が素直で分かりやすく、引っかかりが少ない。
◆3Dと字幕
3D映画と字幕表示の食い合わせは非常に良くない。
字幕文字は規定のZ座標に浮かび続けるので、それよりも手前のオブジェとの干渉が特に気になる。
違和感が強く、非常に邪魔に感じる。
※吹き替え版でも一部字幕表示がある。
◆映像と字幕
普段は元の役者声を尊重して字幕でばかり見ているが、きちんと作られた吹き替えなら、その方が良い場合もあるのではと感じた。
ゴージャスな映像を押し出している映画ほど、画面を堪能できる吹き替えの利点は大きくなる。

■総論

◆3D用の視覚処理
映画がカット割りという文法を手に入れた時、そのつながりが気持ち悪くてしょうがない(引きから急にアップなど)と感じる人も多かったとか。
同様に、3D映像は、大きな映像文法の転換点だと感じる。
・カット毎の3D位置の差異が大きすぎると、遠近の脳内切り替えが追いつかない
・実在感が強いゆえ、引きのカットがミニチュアに感じられる
・ピンぼけ部分を注視した時の違和感(3D的な視差を合わせたのに、画像はぼけたまま、という違和感)
このようなたくさんの問題を感じた。
コンテンツ作成側の進歩が必要なのはもちろんだが、見る側が新たな理解力を鍛える必要があるのではないか。
実際、三時間の中で、当初感じにくかった微妙な3D具合が、時間がたつほどはっきり感じられる用になった。
見ている間に、視差による立体感構築の経路が鍛えられたのではないかと思われる。
3D絵本の立体視に得意不得意があるように、3D映画にも個人的な差異があり、それによって、3D鑑賞についての感想はまったく異なってくるかもしれないので、人の意見に振り回されないようにした方が良いかも。
実際自分は、目が疲れるというより、頭が疲れた。
中盤が特にしんどくなったが、それを越えるとランナーズハイのように3D鑑賞が楽になり、没入度が上がった。
「クリスマスキャロル」では3D映画は見たい人が見るだけの特異な存在と感じたが、アバターを経験してみると、これは普通の存在としてなじんでいくかも知れないと感じるようになった。
映画館は大画面、音響の良さが良いよね、というように、表現の一要素として3Dは有効で楽しい。
世界を塗り替えるほどではないにしても、一ランク上の映像体験という意味で3Dは今後伸張すると信じられた。

今作が今後の3D映画の指標となるのは間違いない。ただ、このクオリティに達する映画でないと逆に安っぽく疲れるだけの物になるかも知れず、やはりコンテンツ頼みなのは覆らない。
とはいえ、10年前は予算的に大作しか使用が難しかったCG処理が今では当たり前になったように、
作品が増えれば文法も整い、環境も整い、当たり前になる日が来るかも知れない。
最後に、二回見た上での自分のお薦めは、
★3D
やはりそれように作られているので。
★吹き替え版
画面に集中できる。言葉の量が増えるので、だいたいにおいて理解しやすい。
★前の方の席で、視界が画面で埋まるくらい
3D上映において、枠は立体の限界地点となるため、こぢんまりした画面だと気になる。

これだけの種類から選べるのは、贅沢なことだが、迷ってしまうね。

2010年3月25日木曜日

かいじゅうたちのいるところ

 
★★★★☆
~確実に、暖かい~

世界的なベストセラー絵本を映像化。

驚くべきは、そのアナログな感触の温かさとノスタルジイ。
9才の少年マックスが怪獣の住む島に行き、そして戻ってくる物語。
あらすじを言ってしまうと、本当にこれだけ。
なのにその中に含まれた手触りの優しさと繊細さ。
これは、観る映画ではなく、感じる映画だ。

怪獣達は基本的にCGではなくハイテク着ぐるみによって演じられる。
動きに不自然さはなく、アナログでもここまでやれるんだ、と素直に感心する。表情など緻密な制御が必要な部分はCGにゆだねており、無理にアナログにこだわる風でもない。
それならなぜ、全身CGにしなかったのだろう。(実際、スーツの作成を多くの会社に断られてCG化をすすめられたらしい)
それは、この怪獣達の表現に、着ぐるみが必要だったからだ。

着ぐるみの怪獣たちの体は毛羽立ち、ところによっては絡まったような「きたなさ」で構成されている。
動物園でみた年老いた虎のような。街角で寝そべる老猫のような。
子供の頃大好きで、今は押入で眠っているぬいぐるみ、とか。
それが嫌ではなく、存在としてのリアルと結びつき、懐かしいのだ。

ほぼ同時期に公開されたアバターはすさまじい技術と努力で未知の生物を
CG化した。一見しただけで比べれば、怪獣達はチープなぬいぐるみだと感じられるかも知れない。しかし、美しい、計算された形状と質感のアバターにはない、絵にならない薄汚い印象が、それこそが、怪獣達をリアルに感じさせるのだ。

そこに生きているという感触。その形の中に魂が宿っているという直感。

この視点で両者を比べたとき、けしてこの映画は劣らない。どちらも表現のために心を砕き手間を惜しまぬ、すばらしい作品だと思う。ただ表現手法が異なっているだけだ。
そして子供の思い描く怪獣としてふさわしいのは、言わずもがなだろう。

この映画は、9才の子供の感性を、観る者の中から引き出す。記憶の窓から、昔の自分を観ているような感触は他の作品には代え難い、独自の価値をもたらしている。

折り重なった怪獣達と一緒くたになって眠りに落ちる満足感。
居間で眠った幼い僕を、ベッドまで運んでくれた父の力強さを思い出した。

振り返るだけでなく、前に進むためのノスタルジイを、勇気を、この作品は感じさせてくれる。

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絵本も読んでみましたが、空気感が見事に同じです。
解釈し、肉付けし、このような形にまとめたことに驚嘆。
自分は映画の方が好きです。といか、絵本にはあまり共感を覚えませんでした。