2016年3月18日金曜日

白銀の意思 アルジェヴォルン

★★☆☆☆
~イージーリスニングアニメ~

2014年に放送された24話(2クール)のオリジナルアニメ。
二足歩行の巨大ロボット兵器が主力として活躍する世界。「アランダス連合王国」と「インゲルミア諸国統合体」は長い戦争状態にあったが、ついに均衡がくずれアランダス軍は撤退戦へと追い込まれる。
主人公はアランダス側のロボット操縦士であるススム上等兵。撤退のさなか新型機体「アルジェヴォルン」を運搬する民間会社を助けたことからそのパイロットとして登録されてしまう。担当技師(といっても新人で知識はほぼない)ジェイミーも従軍することとなり、二人でアルジェヴォルンに搭載されたユーリンクシステムの謎を追うことになる。

二人の所属する独立第八部隊の面々や両軍の策謀も描かれるため、主人公が引っ張る物語というより群像劇の印象が強い。
特に後半は主人公の比重が下がって部隊隊長のほうが表に出てくるくらい。
見終わった後思い返すと、自分はなぜこの作品を最後まで見たのだろうと不思議に感じるほど印象が薄い。普通このような感想を持つ場合、時間を損した! といった恨み言が湧いてくるのだが、なぜかそれさえもない。ロボットの位置づけはあやふやだし、格好良いシーンもあまりない。デザインも好みではない。感情移入できる登場人物はおらず、戦争なのに緊迫感は薄く、特に悲惨なことが起こるわけでもない。(起こっているはずなのだがたんたんと描かれるのでむしろ笑いが漏れそうになる)
ないないづくしなこの作品なのにちっとも腹が立たない。

思うに、この作品は存在が「ゼロ」に近いのだと思う。
良いところも悪いところも起伏が少ないフラットな作品。
一話を見ると良くも悪くもないので次も見てみる。それも良くも悪くもなく……という具合に最後まで至ったのだ。
なにも与えてくれないが、邪魔にもならない。ぽかーんと見る事ができるのでリラックスタイムとしての時間の方が勝ってしまい、時間を無駄にしたという風にも感じない。魚のかからない釣りだ。
存在感のない隣人というか、言い方を変えればとても自然な存在なのだ。
テレビで放送終了直前に流れる風景映像やイージーリスニングのような……。

こういった感想を書くのは製作者にとても申し訳ないのかも知れないが、むしろそういう存在を目指したということは無いだろうか。
なぜなら、この作品はすべての事柄が中途半端に、成し遂げられずに終わっている。

主人公は最終決戦に挑まぬまま、なんと機体の電源が落ちて終了。
ライバルは主人公と再戦できず、おなじく電源が落ちて終了。
ヒロインは端からなんの目的もなく状況に流されるだけなので成し遂げることもない。
部隊長の想いも、副隊長の想いも、成し遂げられることなく終了
戦線さえもが開戦前に立ち戻って終了。

物語は「行きて戻れる形」があるべき姿だと聞くが、それは螺旋階段のように成長を含めたものだろう。
今作は、誰も特に成長したと思えないまま、まるで落ちた石を拾い上げただけといった感触だ。
ここまで徹底するのは強い意志、それこそ白銀の意志が必要なのではないか。

現実は物語のように行かないし、意味の無いことの方が多い。

こんな事柄を描いたのかも知れない。
しかしまあ、こんな解脱者みたいな作品に合ったのは初めてだ。

2016年3月15日火曜日

失われた未来を求めて

★★★★
~たそがれの一途な想い~

今回は中学の頃から温存されている自分のオタク心が共鳴した作品だったので、全般に気持ち悪い感想になっているかも知れません。

  TRUMPLEから発売された18才以上向けのいわゆるエロゲームを原作としたTVアニメ。全13話。2013年に放送。
  ゲーム自体は2010年にWINDOWS版として発売されている。

  マルチエンディングのゲームを原作としたアニメはいずれかの「ルート」を採用せざるを得ない。
  多くの場合メインルート、トゥルーエンドが採用され、その他のエンディングに至るエピソードは省かれる。言ってしまえばメインヒロインとは違う女性を選んだ場合のエピソードは描かれない。が、反対に言えば、ゲームをプレイすればそういった物語を選択して楽しむことができるのだ。これはかなり魅力的な宣伝である。
※しかもプラットフォームがWindowsであるならば、H要素も完備状態となり付加価値は極大となる。
なので、このタイミングで関連商品(別プラットフォームへの移植や続編)を発売するのが定石だろう。

ところが本作はアニメ放送のタイミングでも何らリリースが為されない。定番であるマルチメディア展開としてのうまみを無視している。これが果たして狙ったことなのか、何らかの不都合(ゲームの開発会社自体今作をもって活動休止となっている)で単独投入となったのかは分からないが、一つの可能性として製作者が「この話に魅力を感じたから」ということもありえるだろう。ゲーム自体様々な突っ込みを受けつつもしっかりファンのついている作品のようであり、自分もアニメ視聴ではストーリーに魅力を感じた。

物語は海辺に立つ高等学校「内浜学園」の天文学会というサークルに所属する男女が、校内校外の不思議な事件を追っていくという内容。主人公(男)はサークルメンバーの一人(もちろん女性)の家に同居していたり、謎の記憶喪失少女が登場しても、身元不明なまま何ら社会的な問題なく同級生として収まっているなど、各種お約束に満ちている。自分などは懐かしい空気さえ感じた。「うる星やつら」とか「らんま1/2」みたいなスラップスティック(ドタバタ喜劇)として楽しめそうな雰囲気。

しかし見ていくほどに不可思議なエピソードがちりばめられ、大仕掛けが動き始めると、喜劇は一転切ない物語に姿を変える。「どうにもならないことを、どうにかしようとあがく」のは自分の好きなモチーフなのだが、趣味が合致したという形で最後まで一息に楽しむことが出来た。

演出は一般に言って間延びしていると感じるし、作画も波があるが、物語を伝えようという気持ちが表に出ている作品だと思う。
放課後活動が中心であるのでたそがれの画面が多いこと、海辺の風景が多いことも懐古感を刺激する。

合う合わないが大きい作品だと思われるので強くすすめることはできないが、「一途な思い」「それを見守る第三者」が嫌いでないなら見てみて欲しい。

ところで最初数話分のOPアニメーションがえらくカクカクである。原画部分だけ存在して動画が存在していない感じでこれはこれで貴重な……。OPだけは頑張る作品も多いので大丈夫かいなと心配になったが、途中から非常に細かい中割が入り滑らかなアニメーションに差し替わった。
制作が間に合わなかっただけなのだろうが、徐々に登場人物の魅力が見えてきた頃、つまり自分の中でキャラクターが動き出したタイミングで差し替わったので非常に心情にマッチした。これが演出なら凄いなあ。

クリード チャンプを継ぐ男


★★★☆☆
~ロッキーシリーズ第七作目!~

題名や宣伝を見てもほとんど分からないが、この作品はシルベスター・スタローンの「ロッキー」シリーズのスピンオフ(といっているが、七作目の続編といって良かろう)である。なぜこの点を強く喧伝しないのが不思議だが、前作(シリーズ六作目)評価が低いと言われていることが原因なのだろうか。

ロッキーシリーズで「クリード」という題名なら、ファンならピンとくるかも知れない。一作目から四作目まで登場し、ある時はライバル、ある時は盟友としてロッキーと深く関わった偉大なチャンピオンがアポロ・クリード。そして彼は四作目でリング上での死を迎えている。――ということは……。

クリードの主人公はアポロの愛人の子供であり、唯一の血族アドニス。出会うこともなかった父の背中を追ってボクシングの世界に入ろうとする彼は近しい者たちからそれを拒絶される。アドニスが最後にたどり着いたのがロッキー・バルモア。
はじめは師事を断るが、その熱意に負け、またボクシングに関わる喜びを思いだしていくロッキー。
アドニスと同じアパートで音楽の夢を追うビアンカとの出会い。ロッキーが立ち向かうリングの外側での戦い。
二人の「いわくつき」師弟のボクシングに世間は好奇の目を向け、やがてとんでもない大きな話が転がり込んでくる――。

物語は一作目をなぞるように進むが、ただ繰り返しているのでもなければ、無理矢理独自性を打ち立てようとしているのでもない。一作目の物語を今もう一度描くとしたらこうなるという答えが示されている感じ。そもそも、それさえ流れればロッキーというあの「ロッキーのテーマ」が流れないのだ。それなのに同じような昂揚を感じる事ができる。
主人公であるアドニスの短絡的な素直さは魅力的で、自然と応援したくなる。ロッキーの後継者としてするっと収まってくれるのも気持ちが良い。ロッキーも年老いながらチャレンジスピリッツを失わず、変わらず戦い続けているのが嬉しい。エイドリアンに対する愛情もそのままなのがまたロッキーらしい。

ロッキー一作目を楽しめた人は、つまり多くの人は、この作品を楽しむことができる。
四作目まで復習してから見るとなおさら楽しめるだろう。
三作目のラストで静止した、あのアポロとの第三戦についても言及があり、さらっと語られるだけだがそれがまた良い。
ただその言及が本当なのかどうかについては、自分は多少の揺らぎを感じる。

キルラキル

★★★☆☆
~絵が動く気持ちよさ~

「天元突破グレンラガン」の今石洋之監督作品。2クールのテレビアニメ。
特別な「糸」で縫製された極制服(ごくせいふく)。それは着る者に強大な力をもたらす。
中でも特別な「意志」を持つ服を身に纏う女子高生、纏流子(まといりゅうこ)は父親の敵を求めて本能字学園へ転校、入学。
学園は生徒会長、鬼龍院皐月(きりゅういんさつき)を頂点とした身分制度で統治されており、極制服を着こなす力こそが全てだった。様々な部活動や彼女を守る四天王との戦いを繰り返し、流子は父の敵、極制服の謎へと近づいていく――。

物語と設定には大きな展開や仕掛けが用意されており最後まで視聴者を牽引する。が、なんといっても今作の魅力は戦闘におけるキャラクターの動く気持ちよさ。タメとツメのきいたメリハリある動きがリミテッドアニメーション――動画枚数の限られたアニメーションのこと。テレビアニメの苦しい台所事情の中で発達した――の健在を宣言する。
このこだわりは演出にも現れており、止め絵やハーモニー処理を多用した、いわゆる出崎演出。文字のみで構成された画面。話数単位での動画メリハリ(戦闘シーンの少ない回と戦闘主体の回)など、TVシリーズで高いクオリティの手書きアニメを作るための努力にあふれている。
これら方針、感触はグレンラガンでも同様だったが、今作はCGをうまく活用することでさらに画面密度を高めている。
特に主人公達の変身シーンはCGと手書きを組み合わせ、どちらか一方では作り上げることが出来ないだろう領域に達している。変身の最後にポーズを決めるシーンでは最後に腰がキュッと入り、欲情してしまいそうになるほど人物が魅力的に見える。

このように割り切った作りのとんがった作品なので、あきらめた部分が目につくのは確か
戦闘以外のシーン、とくにギャグに偏った部分は動画枚数が極端に抑えられている。というより、動画がない。ポーズを切り替えてみせるだけの紙芝居の風体になっており、タイミング取りが決まっているため小気味良いのだが、なんだか古いフラッシュアニメーションを見ている気分になる。「キッチン戦隊くっくるん」みたいな感じでせわしない。

また、これは監督の持ち味でもあるのだろうが、下品の度が過ぎるとも感じる。
アニメの魅力は動きとエロ! つまり女体を動かすことだ! 的な意気込みが伝わってくる。
これ自体はその通りだと思うが、変身シーン――変身後は非常に露出度の高い、ほぼ丸見えの格好になる――がすでに限界ギリギリ。エロ以外の意味があるとは思えないアングルのカットがサービス過多のように感じられた。
それ以外の下品さも自分にはきつすぎる。下町に住む一家にずいぶん助けられるのだが、彼らの生活様式、発する言葉などを含めたモラルが下品すぎる。物語を進めていくのに気の抜きどころは必要だと思うが、嫌悪感に気を緩めることが出来ない。

どんどん3DCGの範囲が広まってきているアニメーション業界だが、こういった作品を見ると、やはり良く作られた手書きアニメーションには圧倒的な魅力がある。3DCG技術が高まっていけばやがてそういった分野も置き換えられていくだろう、というイメージを何となく持っていたが、手書きの魅力はその先にはないのではないかと感じた。

<漫画>月光条例

★★★★
~描ききったことに敬服~

※漫画作品についても、完結したものに限って感想を書いていきます。

単行本29巻からなる漫画作品。週刊サンデー連載。
うしおととら、からくりサーカスなど熱い物語を描かせたら天下一品の藤田和日郎、三本目の大長編。
狂った月の光を受けたおとぎ話のキャラクターが現世に立ち現れて暴れ回る「ムーントラック(月打)」を鎮める役割を負った主人公の戦いを描く。

赤ずきん、シンデレラ、長靴を履いた猫、桃太郎……。
洋の東西を問わぬ数多くのおとぎ話とそのキャラクター達との対峙。
シンデレラは本当に城の中で安穏と暮らしたかったのか?
浦島太郎は最後の仕打ちに何を思ったのか?
なぜ、悲しい結末の物語が存在するのか?
物語のIFの展開や、読み手の感じる理不尽をたたきつけながら異常事態はどんどんと進行していく。
主人公の出自、ヒロインの正体など、徐々に浮かび上がり、解き明かされていく謎。
架空の世界と現実の世界。それを包むまた大きな別の世界。
スケールは拡大の一途をたどり、果たして納得の行く結末たり得るのかと読者の方が心配になってくる。

とうとう最終巻。
正直、決して最高の物語体験ではなかった。
中盤以降些細な部分や些末な戦闘を延々と描き、進展が遅くなっておもしろみを感じにくくなってくる。
説教臭い上、説明的に過ぎるセリフ。
※藤田氏は読者サービスに過ぎるきらいがあり、キャラクターの細かな心情をなんとか示そうとして台詞が増える印象。
前話の終盤を次話冒頭でなぞる、「ダブり」部分の増加。(これが単行本派には特に辛い)
勿体ぶったわりに大したことのない(納得の行かない)謎解き。

気になる点を挙げればきりがない。
実際、評判も余りよいとは言えないようで、連載時の掲載順も最後尾すれすれとなり、カラーや表紙などの掲載誌による推し具合も明らかに控えめになっていた。
最後の風呂敷たたみも、努力は買うものの首をかしげる切れの悪さ。
だがそれでも、自分は胸を張って言える。

「この作品を読んで良かった」
「この作品が好きだ」

最終巻の三つの点だけで、もうこの評価は確定した。

◆一つ目
主人公の、ヒロインに対する言葉と、それに対する返答。
この上なく意地っ張りで、全ての問題を自分だけで抱えようとする二人が、お互いに寄り掛かり合ったこの問答。
これまでの全てのやりとりで、ずっとずっと越えることの出来なかった壁。
観ているこちらにとっては歯がゆく、無駄に感じ、なぜそんなに頑ななのかと腹が立つくらいだった殻をパリンと割った瞬間。
二人が昂揚に包まれ疾駆していく姿は快哉を叫ばずにはいられない胸のすくものだった。
作家にとっても読者にとっても、むろん登場人物にとっても、この時のために、どれだけの時間が積み上げられてきたのか。29巻にわたる物語は十分すぎる長さと分量で、感激の度合いを大きくしてくれた。

◆二つ目
表紙のギミック。
実は1巻の表紙と29巻の表紙は同じ構図、同じキャラクターを描いている。
わずかな違いが、この物語の結末と相まって目の回るような酩酊感を与えてくれた。
描かれているのは、月光、エンゲキブ、一寸法師、鉢かぶり姫の四人と背景の月。以下のような差異がある。

<一寸法師>
1巻:ふくれっ面
29巻:楽しそうに笑っている
<鉢かぶり姫>
1巻:顔が見えない
29巻:笑顔が覗いている
<月光>
1巻:ニヒルな笑み
29巻:ニヒルな笑み
<エンゲキブ>
1巻:笑顔
29巻:うれし泣き
<月>
1巻:三日月
29巻:満月

大きな事を為し物語を終了させたのだから、皆笑顔なのは妥当だろう。
エンゲキブはいつでも演技出来るので1巻の笑顔は演技なのかも知れない。だけど、29巻の泣き笑いは演技では出来ない表情、本当の笑顔なのだと思う。
※29巻の涙はホワイトの汚れのように見えるが、同じ絵柄は最終話でも描かれており、そちらでは確実に涙が描かれている。
三日月は「ムーントラック」の象徴の形であり、満月はそうではない穏やかな月となる。(もしくは満月は別の世界との通路であるので、月光の帰還を象徴しているのかも知れない)
ただ月光だけ変わりが無い。
彼だけは、はじめから最後まで、同じ方向を向き、同じ信念を貫き通した。だから変わらないのだ。
それならば月光に成長はなかったのか?
いや、彼が望み戦ったのは、周りの人たちを笑顔にするためである。彼以外の全員が笑顔になっていること。これが彼の成し遂げた成果であり、成長なのだ。

◆三つ目
「めいわくな話」という書き出し。
第一話は「とんでもなくめいわくなはなしをしよう」というナレーションから始まる。
それが誰の、どのような思いから発せられた台詞なのかが最終回で描かれる。
これは確実に連載開始時からの仕込みであろう。7年の歳月を経て、きちんと円環が閉じたのだ。

物語の長さに手を出せずにいる人、途中まで読んだが中だるみに耐えられなかった人。そういう人でも「うしおととら」「からくりサーカス」を読み切った人ならば、ぜひ読破してみて欲しい。28巻までの忍耐を29巻はきちんと受けとめてくれる。
一つアドバイスするなら、一気に読んだ方が良い。雑誌掲載や単行本発刊に合わせての読破はこの作品には向いていない。今回あらためて一気に読破してみると、単行本が出る毎に読んでいたのとは大きく印象が異なる。物語の勢いを保ったまま読み切ってしまうこと。熱いものを熱いまで食べるのがこの作品に最適である。

人はなぜ物語を作るのか。
漫画という形で物語を生み出してきた藤田和日郎氏が己に問いかけ続けて得た一つの結論。
それが描かれているこの作品は、全ての創作者が触れておくべき作品なのだと確信する。

ところで主人公月光の正体について、連載途中までは別の設定で進められていたのではないかと言われている。
ネットを検索するとすぐに行き当たる割と有名な話のようだが、確かにその設定の方がしっくりくる気がするのだ。
言われているにはその作品の著作権関連の処理がうまくいかず設定を変更せざるを得なかったのだとか。
これが本当なのだとしたら、大筋に変化はなかったとしてもそのプロットくらい読んでみたいなという気になる。