2020年10月29日木曜日

スイス・アーミー・マン

 

☆☆☆☆
~雰囲気に惑わされてはいけない~


 2016年の米映画。日本公開は2017年。
 おならにゲロにチンコと、小学生が大好きな要素を詰め込んで、それをおしゃれな映像でまとめた頭のおかしいナンセンスコメディ。もしくは真に恐ろしいサイコホラー映画。これは皮肉でも褒め言葉でもなく、ただただ現実的にこの映画を表す最適な説明である。
 実写にしたスポンジボブ、絵を綺麗にしたダウンタウンの不条理コント、という比喩も浮かんだ。
 

 青年ハンクは無人島に一人きりでとうとう首つり自殺を試みようとするが、眼前の砂浜に一人の男が流れ着く。
 孤独が癒されるかと期待したが残念ながら溺死体そのもの。落胆したハンクの前で死体は腐敗ガスを肛門から吹き出し始める。その威力は強烈で水上を航行し始めたばかりか、追いすがったハンクを引き連れて島を離れていこうとする。
 とっさに首つり用ロープを死体に巻き付け、ジェットスキーのように上に立って疾走するハンク。飛び散る水しぶきときらめく陽光は彼の鬱屈した心を一瞬で霧散させた――。
 
 上記は冒頭あらすじだが、もし見るとしてもここまでて終えるのも良いと思う。もちろん以降も物語は続くが、え~そっちに行くの? といった異常な展開を見せるばかりなのだ。反対に言うと、ここで終わっていたらシュールなコントとしてひときわ目を引くものになっただろう。監督がこの作品を生み出したそもそもの原点がこのシーンだったということだから、ここが全てとも言える。

 水死体が放つ屁によって無人島を脱出という「へっこきよめさ」のような状態から始まった物語に、一体どのような妥当な展開が許されたであろうか。僕の心象風景としては、まるで毛筆の習字で最初の一筆を半紙の右下隅に置いてしまったような映画、となる。もうそれ以上どうしようもないのだ。まともな字を書くことは出来ず、文字に似た妙ちくりんな記号を描くくらいしか出来ない。
 
 あまりに突拍子もないものを突きつけられた時、上手く反応できないことがある。それが自分に届くまで誰も止めなかったという事実が、この作品に何かしらの価値があるのでとはないかという疑惑につながり、ひょっとして自分の直感が間違っていたのではと疑心暗鬼に陥るのだ。しかもそのトンでも案件を掲げているのが何がしらの実績を持っている人物であった場合、非常に対応が難しい。
 ゲーム会社で様々な企画に触れていると、まさにこういった状況に出会うことがある。
 新入社員だった頃、雄志による「企画立案サークル」のような集まりがあり、皆が順に自分の企画を提案していった。その中でサウンド課の重鎮が「ゾンビになったサムライによる対戦ゲーム」をぶち込んできた。当時「ブシドーブレード」という剣戟アクションが話題になっており、それの派生だと思われる。もう詳細は覚えていないが、企画詳細というものはほとんどなく、ただサムライがゾンビなんだという主張のみが全てであった。
 自分はこの企画の魅力がまったく分からなかった。煮ても焼いても食えそうにない内容に、先輩方はどのような反応を示すだろうか(どう諫めるか)と期待したが、「ゾンビと組み合わすのは斬新だね」とか「細切れになっても死なない戦いかあ」などの微妙ながらも好意的な反応。もしかして自分が気がついていないだけで、このアイデアは何か良いところをついているのか? 若さに傲慢な新入社員でも揺らごうというものである。

 上記の様な現象がこの作品界隈では発生しているのではないだろうか。
 ネットで評判を見ると、わりと好評意見が多いのだ――。
 水死体のジェットスキーをフックにしているような映画を見にいく人はそもそも奇特な集団だというのもあろうが、冷静に考えてこの作品は「★☆☆☆☆」以外あり得ないと思う。人に勧められる物では無い。

 今作の監督ダニエルズは二人のダニエルのコンビ名で、ミュージックPVの監督として評価が高い模様。確かに逆光気味の暖かな印象の絵作りや、一筋縄ではいかない悲惨なロマンチシズムとでもいった内容は個性的だ。PVから映画監督への転身というとデヴィッド・フィンチャーを連想するが、彼の映画監督1作目「エイリアン3」も個性は出ているもののあまり……という出来だった。同様に今後の活躍に期待したい。

 

 



フィフス・ウェイブ

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☆☆☆☆
~こんなヒット・ガール見たくなかった~


 2016年アメリカ。竜頭蛇尾のSFドラマ。
 

 突如上空に現れた巨大な宇宙船。いつかしらアザースと呼ばれるようになったその存在は、特に何をするでもなく地球を周回。その風景は意味の分からぬまま日常に溶け込もうとしていたが、その安寧はある日突然終わりを告げる。
 宇宙船が電子パルスを照射。地球上のほとんど全ての電子機器が使用不能となり、人類は混乱の只中にたたき落とされる。これを第一の攻撃、ファースト・ウェイブとし、その後も全地球規模の波状攻撃が繰り返される。――それでも人間はコミュニティをつくり、力を合わせてなんとか生き残ろうとする。
 そんな人類を殲滅するためにアザーズがとった第五の攻撃、フィフス・ウェイブとは――。
 
 特に関係がないようだが、ディズニーチャンネルで放映されるティーンを主役とした青春ドラマ(映画)に雰囲気が非常に似ている。日本でいうアイドル映画のようなもので、どこか割り切ったクオリティと内容
 序盤は丁寧な絵作りと派手ではないが気の配られた綺麗な映像で期待が高まったが、中盤以降は何かあきらめたようなぞんざいさ。終盤などはこれまで積み上げた設定や感情を投げ捨ててともかく一区切りをつけて終わり。スケールもどんどん小さくなっていき、まさに内容も規模も竜頭蛇尾。

 ともかく「第五の攻撃」が何なのかというのが作品全体を支えるギミックとなっているが、これがうまく働いていない。普通に見ていると中盤で十分予想できてしまうオチで、自分の洞察がすぐれているなどではなく表現として明らかにそう示されているのだ。例えばどこか怪しく見える軍隊の行う虐殺。アザースに寄生された人間の透過映像のチープさ(他のクオリティと比しても確実に程度が低く意図的としか思えない)。
 見え見えの設定を映画の中では予想も付かないこととして扱っており、正直辟易する。
 
 主人公が女子高校生で、彼女のサバイバルが一軸となっているが、どうにも判断がおかしい。いちいち「それはちゃうやろ」という判断、行動に出て見ている方は困惑し、やがて苛立ってくる。有り体に言えばバカ女の諸言動に振り回される童貞男という展開なのだ。コメディでなく真面目にこれをやるのだからつき合っていられない。


 残念ながら演じているのがクロエ・グレース・モレッツ。彼女は幼少期に「キック・アス」で生意気ながらも切れのある子供ヒーロー役を演じて人気を博したが、今作の彼女は残念ながら何の魅力もない元人気子役といった風情。生意気な役どころにキック・アスの人気再びを狙っての起用かもしれないが、幼さというフィルタがなくなるとその言動はただの「嫌な人間」になってしまっており、大失敗だ。

 

2020年10月26日月曜日

ザ・バンク 堕ちた巨像

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★★☆☆☆
~「政府も手が出せない国際メガバンク vs はぐれインターポール捜査官」~


 2009年のアメリカ・ドイツ・イギリス共同制作映画。経済ドラマかと思わせて武器商人と化した巨大銀行とインターポール捜査官との戦いを描くアクションサスペンス。
 

 インターポールの捜査官サリンジャーはドイツの巨大銀行IBBCの武器取引についての捜査を続け、ようやく証人との接触にこぎ着けるが、目前で仲間が不審死。証人もその9時間後に事故で死亡。現地警察はIBBC擁護の姿勢で手が届かない――。
 それでも捜査を続けるサリンジャーはとうとう暗殺者の手がかりを手に入れ、ニューヨークへ――。

 
 IBBC社屋や激しい銃撃戦の舞台となる美術館。インターポール本部にイスタンブールのモスク。世界中のロケーションが美しく映画に品格を与えている。緊迫した雰囲気は最初から最後まで続き、完成度の高さを感じるが、話としてはかなり苦しい。というか、スタローン主演のガンアクションくらいに捕らえた方が良い。画面の格式高さとアクション自体の頻度に勘違いしがちだが、中心はアクション映画。特にニューヨークのグッゲンハイム美術館内部を舞台とした銃撃戦を描くために全体が構成されているのではと思われる。そのために巨大なセットを組んだというのだから執念を感じる。
 それ以外はどうにも小ぶりで、話が広がりそうで広がらない。すっきりしないまま話が進み、そのまま終幕。

 また、多くの人が感じるのが題名と内容の剥離だろう。銀行というより国際マフィアの話なのだ。原題は「The International」でこれはこれで何やねんという題名でとらえどころがない。主人公はインターポール職員なので、普通に考えたら「インターポール」とか、「インターナショナル・クライム」くらいが似つかわしいと思うが、米独英の共同制作のしがらみがこのような中途半端な内容と題名に現れているのかもしれない。「国際捜査官サリンジャー」という題名でコピーが「政府も手が出せない国際メガバンク vs はぐれインターポール捜査官」でどうだろうか。

 綺麗なシーンのいくつかは確実に心に残る
ので、経済クライムを期待せず気軽に見るのがおすすめ。

 

 

ブブキ・ブランキ

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☆☆☆☆
~まずい脚本とはこういうこと~


 2016年のTVシリーズアニメ。第一期と第二期を半年ほどあけて放送の全24話。オリジナルでこれだけの話数を放送は昨今珍しい。

 「肌に合わない作品」という物は確実にある。理屈を立てて理解する前に、感触としてこれは合わないと感じ、視聴を続けてもその印象が変わらない作品のことだ。自分にとって、この作品はまさにそれ。
 

 いにしえから存在し、人間社会の裏で大きな武力として使役されてきた巨大機械「ブランキ」。それを操るのは一体に付き両手両足と心臓の5つの核を一子相伝するブブキ使いたち。最も重要な心臓の核全てが突然機能不全に陥り、世界中のブランキが起動できなくなり、各国のパワーバランスの崩壊から混迷の時代に突入した。
 その原因とされた「魔女」と呼ばれるブランキ使い一希汀(かずき みぎわ)。その息子である東(あずま)は、幼い頃から過ごしていた浮遊島で起きた事件により地上に落下。魔女の息子と呼ばれながら浮遊島に戻る方法を探し、10年を経て日本に帰国した――。

 
 あらすじを書こうとすると、何が大切で何がどうでも良いのかを取捨選択することになるが、今作はそれがまるで分からない。もちろん全編を視聴したあとなので大筋は理解しているはずなのに、判別出来ないのだ。
 最後まで見た上での物語の説明をすることは出来る。だがそれは一部始終を知った殺人事件において、犯人の動機、犯行手順のみを説明するようなもので物語をなぞったものではない。どうやらこの作品、脚本が致命的に悪いようだ。
 
 自分の勤める会社の社長は元映画畑で働いていた(助監督)経緯を持ち、映画関連に造詣が深い。月一で押しも押されぬ名画を解説付きで視聴する「映画鑑賞会」を主催しており様々な話を聞く機会となっている。その中で「映画が脚本以上になる事はない」という言葉が紹介された。他でも聞いたことがあるので割と有名な言葉なのかも知れない。様々な解釈が出来るだろうが、自分は「良く出来た脚本はその後の作業の土台となり、上につくる建物をきっちりと支える。悪い脚本は天井となって上限を覆ってしまい、その後の作業の邪魔となり、いびつな建物作りを強制する」というように理解している。
 ゲーム作りでも良いアイデアはその他の面白い思いつき、関連するアイデアをどんどん引き込んでくれるが、悪いアイデアは一見面白そうに見えてもその後の広がりを得ることが出来ない。
 上記のような意味で、今作の脚本は作品のいらぬ縛りになっているように感じる。
 良いケースパタンになるのかもしれないので、自分向けのメモとして二つほど挙げてみる。
 
―――――――――――――――――――

①導入が重い

 物語冒頭はその作品の入り口となるもので非常に重要である。また、視聴者にとって負担の大きいものだ。
 どういった世界がどのようなルールで展開するのか。
 これが視聴者の中で構築されるまで、情報処理の負荷が非常に高い。枠組みが出来てしまえば新しい情報で見えてきた部分を付け足すだけで済むが、それまでは一生懸命に理解しようとする必要があるのだ。これは新しい人に出会った場合も同じで、見た目やしゃべり方などでひとまずどんな人だと決めてしまう。そうしてから長いやりとりを経てその人物像を更新、最適化していくのだ。
 この負担を減らす方法として「続編」「肩書き」「模倣」などがあるだろう。続編は当然気楽だし、人物において「XX会社の役員」といった肩書きは関わり方を決めるのに大きな助けとなる。模倣は「異世界転生もの」のようにフォーマットを共通化させることで負担を軽減している。(異世界転生ものが素晴らしく流行したのは、導入の気楽さが大きいと考えている)

 反対に、情報が足りなかったり、これまでに出会ったことのないような対象だったりする場合、枠組みの構築が上手く行えない。こういった時は、非常にモヤモヤとして気持ちの悪い状態を継続することになる。
 長くなったが、本作の導入がまさにこれである。
 
 まず10年前、浮遊島で起こった事件が描かれ、その後現在の物語が開始される。こういった二段階に分けた導入は良くある手法で、たとえばクライマックスからはじまり、それが夢でしたと本来の物語が始まる。この場合冒頭クライマックスはフックの役割を果たし、本来重いはずの導入の手助けとなり物語に導いてくれる。
 今作では第一段階が牧歌的な雰囲気からはじまり、それから第一のクライマックスに至るためフックの役割を果たさない。一生懸命構築しようとした作品感をクライマックスがぶちこわすのである。そして10年がたち第二段階である本来の物語が開始されるが、第一段階の情報がまったく役に立たないどころか意外な展開(優しい母が魔女呼ばわりされているなど)に持って行こうとして逆に理解の妨げになっている。つまり「構築①」⇒「破壊」⇒「構築①によって困難になっている構築②」となっている。そのため置いてけぼりになった感じが強く、それが継続する。

 プロが作り上げた作品に対して事情を知らない外部が「こうすれば良いのに」というのは非常に失礼で傲慢な事だと思うのだが、どうしても一言申し上げたい。
 
 10年前の下りは無い方が良い!
 
 実際これを切り落としてもすっきり感が高まるだけで物語への影響がない。その後に何の変更を加えなくても、おそらく大丈夫だ。
 無駄な物を残して物語を分かりにくくしているという点でこの脚本は良くない制限になっている。どんなに演出や作画が気を吐こうと、カバーできる難点ではないのだ。


②状況が解決する前に別の状況をかぶせすぎる

 大雑把に説明すると本作は色々なシチュエーション、組み合わせのバトルをどんどんつなげていくという展開になっている。
 これ自体はロボットバトルを主軸に据えた物語なので妥当だと言えるが、問題は「バトルの決着がつかないまま次のバトルになだれ込む」事が非常に多い点である。AとBの戦闘中にCが乱入し、BとCの戦いがメインになってAとBの戦う原因は放置状態で物語が続き、BとCも特に決着がつかないまま閑話休題を開始――といった具合。句読点のない延々長い文章を読ませられるのと感じがとても似ている。すべてにおいて決着をつけないので、フワフワと気持ちが悪いのだ。

 なぜこういう構成にしたのか、ちょっと理解できない。どんどん状況を切り替えて興味を引こうとしているのだとすると、うまく働いてはいない。被さってくる状況が前の状況より魅力があるというわけでもないので、途中で無理矢理チャンネルを切り替えられた感じになる。


―――――――――――――――――――
 このように脚本が縛りとなってどうにもならない不愉快を確定させている部分が多く、これほど脚本がダメだなあと思うのも希だ。
 全体に思いついた言葉とシチュエーションを無理矢理つなぎ合わせて物語に使用とした、統一感のない出来の悪いパッチワークである。
 
 脚本云々いうのは、他のパートががんばっているなと感じるところが多いため。
 キャラクター、ロボットは3DCGで作画されており、静止画としてのクオリティが高い。特にキャラクターの輪郭描画は一定の太さではなく適度に入り抜きが表現されており、平板さを感じさせない。アニメーションもセルアニメの良さ、キーフレームを自動補完するだけでは出てこない溜め詰めの気持ちよさを再現。レイアウトも3Dとしての正確さではなく、ゆがみによる見栄えを考慮している。
 この辺り、一期と二期ではまるで出来が異なると感じる。
 一期は上記の様な魂の入れ込みが無く、正確だけどつまらない画面が非常に多い。
 列車の荷台で戦闘するシーンがあるのだが、嘘がないため狭い舞台に感じたり、キャラクターの位置関係がまるで絵になっていない。カットによって広さも、位置関係も変えてしまえば良いのに、カメラの位置を苦労して変えることに終始して苦しんでいる。
 二期はこの手の3D慣れしていないシーンが少なく、一期の様々な経験をきちんとフィードバックしているなと感じる点が多い。
 
 今作は、作品としてはがっかりな物になっているが、スタッフの力量を底上げするという意味では大いに価値があったのだと思う。
 
 ところで「ブブキ・ブランキ」と自分が以前酷評した「文豪とアルケミスト~審判ノ歯車~」のスタッフを見ていると、イシイジロウ氏が重なっている。ゲーム開発を主戦場とするクリエイターのようだが、いくつかの記事をあわせて考えるとどうやら自分はこの人の感性が苦手なのではと思われる。好きな作品で共通のスタッフが居るように、がっかりと感じる作品で共通してくるスタッフも居るのだなあ。多分、避けるべきなのだろう。

 

 

2020年10月16日金曜日

ケープ・フィアー

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☆☆☆☆
~ロバート・デ・ニーロ48才の肉体美~


 1991年アメリカ。ロバート・デ・ニーロ主演のマッチョおっさんの嫌がらせ復讐劇。
 1962年の「恐怖の岬」のリメイクということで、オリジナルの役者が何名もカメオ出演。犯罪者が警察官になったり、なかなかしゃれた配役となっておるらしい。
 

 マックス・ケイディは16才の少女に対する暴行障害による14年の服役を終えて出所。刑務所での日々は非常に辛いものであり、それに耐えるために文盲を覆して読書家になり、体を鍛えて筋骨隆々になっていた。
 マックスは当時の担当弁護人サム・ボーデンが弁護業務に手を抜いたために長期服役になったと思い込んでおり、14年の間に復讐の念が凝り固まった危険な人間としてサムの前に現れた。
 犯罪すれすれ、もしくは露見しない犯罪による嫌がらせをくり返して、サムに迫っていく。やがてサムの娘の存在を知ったマックスは演劇授業の講師を偽って娘に近づき、15才の少女の好奇心につけ込んでその心の中にまで忍び寄っていた――。

 ぎっちり張り詰めた全身の筋肉。体中に彫り込んだまがまがしい入れ墨。当時48才のロバート・デ・ニーロが演じるマックスの必要に応じて知性と粗野を切り替える犯罪者の存在感がすごい。こんなのが側に現れたら百戦錬磨の弁護士も狂気に染まっていくだろう。さすがだなと見ほれてしまう演技。
 
 しかし、作品全体としてみると感情移入できる登場人物が誰もいないのが辛い。弁護士サムはマックスに恨まれても仕様がないような状況だし、インテリらしい他力本願の卑怯な手段ばかり使ってとても応援できない。娘はこまっしゃくれた生意気さで、うかうかと危険に入り込んでは無自覚に周囲を危険におとしめていく。えらい目に遭うと嬉しくなるほどのヘイト稼ぎキャラ。他に弁護士仲間や警官、私立探偵まで出てくるが、応援したくなる人物は居ない。彼らに比べれば適役であるマックスの方がまだ応援できる。
 サムの妻リーが娘を想う気持ちからけなげに体を張るシーンがあり、そこだけがまともな人間に感じた。
 誰にも肩入れできない映画という物は、本当に視聴者が孤立して寂しくなる。どんなに名演技をされてもこれでは楽しむことは出来ない。
 
 マーティン・スコセッシ監督による演出もどうもいまひとつ。高速ズームインによるカッティングが多用されているが、まあ、今見るとコメディっぽく感じてしまう。最近インドドラマのズームインをくり返すこてこての演出(「インドドラマ くどい演出」とかで検索すると引っかかるよ)が一部で話題になっているが、その源流はここなのではないかと思うほど多様されている。
 
 知的な犯罪者が弁護士を合法的に追い込んでいく様が見事だったので、暴力路線に切り替えずにそのまま復讐完遂して欲しかった――。
 

 

2020年10月13日火曜日

屋根


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~イタリア・ネオリアリズムでおすすめの1本~
★★★★

  1956年のイタリア映画。イタリア、ネオリアリズムの代表的な監督の一人ヴィットリオ・デ・シーカによる名編。デ・シーカは「靴みがき」「自転車泥棒」が有名だが今作は不思議なほど評価が低い、というか評価がない。知名度がものすごく低いのである。DVDも出ていないためVHSから落とした映像で鑑賞。

 大戦後まもなくのイタリアは復興の道半ば。住宅の建築ラッシュとなっているが、多くの民衆には手の届かない存在である。
 工事現場で働くナターレと住み込み家政婦のルイザはローマで出会い、まだ結婚は早いという周囲の言葉を振り切って結婚式を挙げる。新居の用意もなくナターレの実家で同居を始めるが、すし詰め状態の暮らしはプライバシーもなく、姉の夫が世帯主となっているため肩身が狭い。ナターレと姉夫との言い合いは喧嘩に発展してしまい、二人は荷車一台分の家財を持って家を飛び出る。自分たちの住処を見つけようと躍起になって探し歩くが、この時勢なかなか良い話があるわけも無い……。
 そんな中、空き地に既成事実として家を作って住んでしまえば、簡単には立ち退きさせられず実質的に定住が可能だと知る。家の条件はきちんと壁で囲まれており、屋根がしっかり乗っていること。その場で押し崩せるようなものでは警官に追い払われてしまうため、煉瓦でがっちりと組み上げなければならない――。
 作業時間は警官の夜のパトロールが終わってから翌朝また訪れるまでの、一晩。
 ナターレとルイザは全ての財産をかけて材料を購入。職場の仲間を募って一世一代の計画に飛び込んでいく――。


 
 ネオリアリズムの特徴は可能な限りセット使わず、また役者を使わない事。実際の場所で演技ではない演技を撮影、そこに生まれる実在感を追い求めていく。もちろん物語もリアルを追い求めたものとなり、戦後の苦しい庶民生活を活写したものとなる。様々な困難に心折れながら、それでも人生はそういうものだとどこかカラッとした生きる力を感じさせる悲劇。絶望の中にひとしずく落ちる希望といった印象の物語が多いと思う。
 今作も主演の二人はじめほとんどの出演者が役者ではない市井の人々であり、セットが使われているのは車の中の撮影くらいであろう。お金も住むところもなく、若さから来る思い切りの良さだけを持つ夫婦の姿にはハラハラさせられ、いかにもネオリアリズム的結末を迎えそうであるが、なんと今作は――。

 「道」「自転車泥棒」などでネオリアリズムの洗礼を受けた後に今作を見れば、その特殊性が非常に分かりやすい。悲劇的なネオリアリズム作品も今作も、描いている主題は人間の営みとそこにある様々な形の愛情だと思う。ツンデレのように悲劇でそれを描いたのがネオリアリズムであるが、ただただ直球のこういった作品があっても良いではないか。
 名画だ名作だと肩肘張らず、ただ「いい映画だよ」と万人に勧めることの出来るとても幸せな作品。
 
 ちなみに数少ないが職業役者も出演しているらしく、いかにも嘘っぽい仕草を見せる意地悪隣人がそうではないかというのが師匠(うちの社長)の見解である。素の反応で登場人物になっている素人達の中で、役者が演じる人物は絶妙の嘘くささを醸し出すのだという。確かに他の登場人物から浮いて見えていた。

 

 

2020年10月12日月曜日

TENET

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~映像の圧倒的説得力~
★★★★★


 2020年。クリストファー・ノーラン監督による時間反転SFスパイ映画。
 

 ウクライナのオペラ劇場で「プルトニウム」の争奪を目的としたテロが発生。
 CIAに所属する主人公(名もなき男)は目標物の確保に成功するが、それはプルトニウムではない謎の金属塊であった。
 その後敵勢力に捕らえられ拷問にかけられるも、口を割る前に服毒に成功、自死をもって機密を守った――。 
 目が覚めると一連の経緯はとある活動に従事するためのテストであり、それに合格したと告げられる。
 目的は「世界を第三次大戦による滅亡からすくう」こと。続いて明かされたのは、未来から時間を逆行する物質が現在に送り込まれているという事実。
 複雑に入り組んだ二つの勢力の戦いは規模と混迷を拡大させていく――。

 導入やあらすじからこの映画の魅力を想像するのは非常にむずかしい。物語が複雑で面白さを説明するにはその全てを並べ立てる必要があるのだ。これはノーラン監督の作品全般に言えることで、上映時間中積み上げて積み上げて辿り着く場所(物語の頂上といえるクライマックス)からの絶景が1番の魅力であり、それを伝える有効な方法がないのだ。こういう作品が好きそうな人に、ぜひ見て欲しいと信用買いを薦めるしか手はない。
 なので、このようなブログの文面を読んでくれているあなたに、こう伝えるしかない。
 
 これは見るべき映画だ。
 
 最も伝えたいことは↑なので、ともかく騙されたと思って見て欲しい。おそらくこれ以上何を書いても、この作品を前情報無く最大限楽しむという経験を損ねてしまう。この作品は宝物のような存在で、そうそう出会えない特別な作品である。
 以下に視聴したくなるような要点だけ列記し、詳しい内容は書かずにおきたい。
 ぜひ最低限の情報だけで、この「映像体験」を満喫して欲しい。
 
 ①「時間移動」の新たな定義の新発明とそれに直結した映像表現

見慣れたはずの映像が複数重複することで生まれる、これまで誰も見たことのない異様な映像体験。

 ②作品自体がパラドックスであり、伏線の塊

考えれば考えるほど頭がおかしくなりそうなタイムパラドックスの酩酊感。正解は不明なのに、浮かび上がり、最後に心に残る金の砂粒。

 ③入り組んだ物語を分かった気にさせる様々な映画的技法

嘘の世界を現実と遜色ない体験とする、映画が持つ強い力。「なんでもCGで描ける」を越えた、説明でなく、心に投影される映像。

 いつになるか分からないが、もう一度見る機会を得た後、上記項目について詳しく書きたいと思う。