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2021年8月30日月曜日

夜明け告げるルーのうた

「夜明け告げるルーのうた」 Blu-ray 初回生産限定版

★★★☆☆
~動きの魅力の功罪~


 2017年の日本アニメーション映画。監督は『マインド・ゲーム』『ピンポン THE ANIMATION』の湯浅政明。中学生男子と人魚の女の子の交流を描く。
 

 東京出身の中学三年生である足元カイは、日無町の父の実家で、父・祖父と三人で暮らしていた。日無は人魚の伝承のあるひなびた漁港だった。カイは感情を表に出さず、学校の進路調査には何も書かずに提出した。
 夏休みが近づいた頃、カイは自作の打ち込みを動画投稿サイトにアップする。それがきっかけで、同じクラスでバンド「セイレーン」を組んでいる遊歩と国夫からメンバーに誘われる。<Wikipediaより
 
 思いついたシチュエーション、レイアウト、画面的な喜びにあまりに引きずられ、物語全体としてのまとまりは後回しにされている印象。骨子は押さえられているので破綻した印象は少ないが、もっと丁寧に扱ったほしかったエピソードは多い。その意味でつじつまが合っていない(道理がよく分からない)部分は多く残る。だいたいは綺麗に袋に収まったが、ごつごつといびつな形が残ってしまったな、という感想。

 切れの良い動き、胸が空く映像。アニメーションの気持ちよさを堪能できる。小学校二年生の息子も最初から最後まで飽きることなく見終えることが出来た。107分というのは結構な長さであり、全体的なテンポの良さと適切な間隔で現れる見所がなせる技だろう。ちょっと怖いシーンもあるが、大丈夫だったみたいである。

 一曲の歌を中心に据えてまとめたアニメ作品としては新海誠監督の『秒速5センチメートル』が有名で、これなどはクライマックスの映像とあまりに合致するため山崎まさよしの曲「One more time, One more chance 」のプロモだとか言われたりもしている。今作で取り上げられている斉藤和義の「歌うたいのバラッド」は映画全編でまんべんなく使用されており、映画のテーマにもよく合致しているため劇伴(映画の音楽)としてきちんと機能している。実際に出てきたりはしないが、作品世界の中にも「斉藤和義」が存在していて、その曲を主人公がコピーするという立て付けになっている。

 監督の湯浅政明の、観客を引き寄せる握力が非常に強いことを、良くも悪くも再確認させられる。
 動く気持ちよさとは半ば暴力的な引力で視線を引き寄せる。だから観てしまうし、一定の満足を得られるのだが、やはり監督は根本がアニメーターなのだろう。動く気持ちよさに自身も逆らえず、シナリオよりも重視してしまう。ことシナリオとして考えた場合、オリジナル作品に首肯できる作品が少ないのだ。決しておもしろくないわけでもなく、駄作でもないが、まとまりきらないのだ。
 むしろ原作物に対して、元からある基盤に魅力をどんどんふっかけていくことで名作傑作を生み出しており、こちら路線の作品を期待する。

 <原作あり>
  『マインド・ゲーム』『四畳半神話大系』『ピンポン THE ANIMATION』

 <オリジナル>
  『ケモノヅメ』『カイバ』

 ともあれ非常に精力的に数多くの作品に関わり、実際に排出している湯浅監督は本当にすばらしいアニメーション監督だと思う。 

 3DCGではなく、線画をCG補完して滑らかに動かす技術を生かした作画を推し進めているようで、今作でも使用されている。CGというと湯浅監督のテイストとは一見相容れないように感じるが、今作の用法は動画の作成部分についてのCG。アニメーションはキーとなる原画を動画でつないで構成しているのだが、動画作成の部分をCGで行っているため、原画が押さえたアニメーションの肝を活用しつつ、非常に滑らかな動画を生成。結果、質と密度の高いシーンを量産している。

 物語としては自分の殻を破って羽ばたいていこうとする少年の姿を描いており、普遍の共感を多くの人に(うっすら)感じさせるだろう。



2020年12月7日月曜日

劇場版 幼女戦記

劇場版 幼女戦記 通常版( イベントチケット優先販売申込券 ) [Blu-ray]
★★★☆☆
~幼女として転生する理由~


 カルロ・ゼン(ペンネーム)による小説を原作としたテレビシリーズアニメーションの続編として制作されたアニメ映画。2019年公開。

 異世界転生物と言えば、現世では落ちこぼれだった主人公が転生時に与えられた能力により新世界で無双するというのが定番だが、今作はその流れに逆らおうとしている。もともと超利己的なエリートサラリーマンがリストラした相手の復讐によって命を落とし、死後の至高存在とのやり取りに於いても不遜な態度を改めなかったため、異世界でえらい目にあって信心改めろ! という次第。
 転生したのは女児ターニャ。一才から自我をもって前世の記憶も保持という事だが、これでまともに育つはずもない。

 放り込まれた世界は世界大戦直前の世界。一次と二次が混ざったような兵器レベルだが、大きく異なるのが魔力が動力の一つとして確立しているという点。魔力を使用した飛行能力と魔力強化による超威力の銃撃(もはや爆雷)が戦力として重要な地位を占めている。ターニャは自己保身の最適解として早熟の魔導師となり、所属する帝国軍内で栄達を遂げて安全な内地で勤務することを夢見るが、開始された大戦において合理的判断と大胆な決断により一躍英雄として扱われることとなる。ターニャの思惑とは逆の方向へ事態は進展していくのだ。

 ここまで来ると誰もが思う。異世界転生という導入は必要ないのではないか?
 
 いや、実はこの作品こそこの設定が上手く使われていると言える。
 ターニャは少女の姿でとんでもない毒舌を披露して部下を焚き付けていくのだが、中身がおっさんだからこそこの行動に説得力が出てくる。中身も少女だった場合、なぜそのような言葉を操るに至ったのかの説明をするのに、彼女のそれまでの尋常ならざる人生を描く必要が出てくる。少女でなかった場合、大人の女(もしくは男)ということになりなり、少女の半生を描くよりは期間が長いので多少楽だろうが、それでも異世界における成長過程を描く必要が出てくる。
 それを「殺されるほどいけ好かないエリートサラリーマン」の一言でかっちりイメージを固め、異世界選定という設定で戦場につなげてしまっている。
 
 少女でなくとも良かったのではないか?
 
 いやいやこれも少女でなければならなかった。
 エキセントリックな狂人じみたオルグ(昂揚そそのかし演説)はそのまま聞くとまさにいかれている。主人公として許容するにはぶっ飛びすぎているのだが、ここに少女というイメージをぶつけることで、戦場まっただ中の幼女上司という異常を先に打ち立ててしまっている。それが許容されるなら、あのような弁舌もあり得ることとしてするりと受け入れてしまうのだ。
 ただただあざといと感じられた幼女と戦場の組み合わせは、考えを進めるほど理にかなっている。物語がいかに凄惨なものだとしても、彼女の存在一つでフィクションの香りが陰鬱になるのを妨げてくれるのだ。(もちろん作り話なのだが)現実ではないものとして、適度な距離感で物語に対することが出来る。異世界ものにありがちな異性からモテモテのハーレム状態に移行しない(出来ない)のも幼女効果だろう。女児に懸想するのは一般的ではないし、しかも中身がおっさんだ。視聴者(読者)もその展開を期待しない
 ※小説『皇国の守護者』は同じように性格破綻した有能指揮官の戦記物であり、主人公は男で青年、転生はしていない。対照として面白い作品だ。
 
 かくして頭のおかしい狂人英雄が主人公として立つことが可能となっているのだ。

 映像作品としてみてみると一定水準を超えた演出と画面クオリティを保持した良作だ。扇動演説の表情描写も強烈なアクのある作画で、それに答える声の演技も耳をつくような金切り声が実に合っている。戦闘描写も迫力と見やすさ、映画的なレイアウトがバランス良く構成されていて特に難をつけるところがない。むやみに残酷な描写が挟まれることはないが、老若男女に分け隔て無く不幸が襲いかかるため、ターニャや女性兵士もえらい目にあう。今作では特に肉弾戦が多いため殴り合って顔がボコボコになっていくのだが、女性キャラが過度に守られることが多い創作物の中、どこか胸が空く部分がある。

 原作小説は未読だが、時系列を行き来する章構成になっているらしく、アニメ化に当たって分かりやすく並び替えたり省いたりしているとのこと。勢力毎の軍服や兵器のデザインも差別化されており、数々の留意の甲斐あって全体の進行、特に戦況の変転も混乱することなく理解できる。だがそれでも様々な国、勢力が入り乱れる「世界大戦」であるため、定期的な勢力状況の解説などがあればさらに分かりやすかっただろうか。現実の大戦を模している要素が多いため、そちらの知識が厚い人には理解もしやすく、元ネタと感応する楽しみ方が増えるだろう。

 問題は全編に感じる悪趣味だろう。かわいい顔をした幼女が毒舌を振るい、敵を屠って狂喜の大笑いをする姿は露悪趣味と言わざるを得ない。負けることが確定している(歴史として冒頭に語られる)大戦においての様々な戦いというのもやるせない。沈むことが分かっている『タイタニック』は待ち構える悲劇が特別な感触を全編に投げかけているが、今作の場合思いがけない悲劇ではないため、崖に向かって邁進していく人類の姿を夢も希望もなく見ることになる。それによって生まれる無力感や諦観は心に残るものではあるが、自分には少し重すぎるなというのが正直な感想だ。
 
 

2020年10月13日火曜日

屋根


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~イタリア・ネオリアリズムでおすすめの1本~
★★★★

  1956年のイタリア映画。イタリア、ネオリアリズムの代表的な監督の一人ヴィットリオ・デ・シーカによる名編。デ・シーカは「靴みがき」「自転車泥棒」が有名だが今作は不思議なほど評価が低い、というか評価がない。知名度がものすごく低いのである。DVDも出ていないためVHSから落とした映像で鑑賞。

 大戦後まもなくのイタリアは復興の道半ば。住宅の建築ラッシュとなっているが、多くの民衆には手の届かない存在である。
 工事現場で働くナターレと住み込み家政婦のルイザはローマで出会い、まだ結婚は早いという周囲の言葉を振り切って結婚式を挙げる。新居の用意もなくナターレの実家で同居を始めるが、すし詰め状態の暮らしはプライバシーもなく、姉の夫が世帯主となっているため肩身が狭い。ナターレと姉夫との言い合いは喧嘩に発展してしまい、二人は荷車一台分の家財を持って家を飛び出る。自分たちの住処を見つけようと躍起になって探し歩くが、この時勢なかなか良い話があるわけも無い……。
 そんな中、空き地に既成事実として家を作って住んでしまえば、簡単には立ち退きさせられず実質的に定住が可能だと知る。家の条件はきちんと壁で囲まれており、屋根がしっかり乗っていること。その場で押し崩せるようなものでは警官に追い払われてしまうため、煉瓦でがっちりと組み上げなければならない――。
 作業時間は警官の夜のパトロールが終わってから翌朝また訪れるまでの、一晩。
 ナターレとルイザは全ての財産をかけて材料を購入。職場の仲間を募って一世一代の計画に飛び込んでいく――。


 
 ネオリアリズムの特徴は可能な限りセット使わず、また役者を使わない事。実際の場所で演技ではない演技を撮影、そこに生まれる実在感を追い求めていく。もちろん物語もリアルを追い求めたものとなり、戦後の苦しい庶民生活を活写したものとなる。様々な困難に心折れながら、それでも人生はそういうものだとどこかカラッとした生きる力を感じさせる悲劇。絶望の中にひとしずく落ちる希望といった印象の物語が多いと思う。
 今作も主演の二人はじめほとんどの出演者が役者ではない市井の人々であり、セットが使われているのは車の中の撮影くらいであろう。お金も住むところもなく、若さから来る思い切りの良さだけを持つ夫婦の姿にはハラハラさせられ、いかにもネオリアリズム的結末を迎えそうであるが、なんと今作は――。

 「道」「自転車泥棒」などでネオリアリズムの洗礼を受けた後に今作を見れば、その特殊性が非常に分かりやすい。悲劇的なネオリアリズム作品も今作も、描いている主題は人間の営みとそこにある様々な形の愛情だと思う。ツンデレのように悲劇でそれを描いたのがネオリアリズムであるが、ただただ直球のこういった作品があっても良いではないか。
 名画だ名作だと肩肘張らず、ただ「いい映画だよ」と万人に勧めることの出来るとても幸せな作品。
 
 ちなみに数少ないが職業役者も出演しているらしく、いかにも嘘っぽい仕草を見せる意地悪隣人がそうではないかというのが師匠(うちの社長)の見解である。素の反応で登場人物になっている素人達の中で、役者が演じる人物は絶妙の嘘くささを醸し出すのだという。確かに他の登場人物から浮いて見えていた。

 

 

2020年6月17日水曜日

山の郵便配達

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  ★★★☆☆
~その景色はもはやファンタジー~

 1999年の中国映画。日本公開はずれ込んで2001年。
 

 二泊三日の徒歩で車も通らない山奥をめぐり、郵便の集荷配送を行う山の郵便配達。
 三日目に家に帰った翌日にはまた出発する過酷な業務を数十年続けた父は、膝を悪くしてしまい引退を余儀なくされる。
 後を継ぐことになった息子は体躯十分だがどうも仕事を甘く見ているようで心許ない。お供であり道案内の飼い犬「次男坊」も初めての旅行きに不安そうである。見かねた父は道筋と村や町での紹介もかねて同行することにした。
 いつも家にいなかった父に遠慮がちの息子。
 なかなかあえないことを引け目に思いながら、いつも息子を思っていた父。
 たった一度、一緒に行う郵便配達が二人に様々な変化をもたらす――。

 あらすじ以上の大きな事件があるわけでも無いが、美しい山々とそこに生きる人々を垣間見ていく旅路は充分に見応えがある。
 映画が作られた時点で本当にあった暮らしなのか、すでに過去となった後なのか分からないが、美しい水田、朽ち果てた建物、そこで質素に生きる人々の姿はもはやファンタジーの世界である。指輪物語の中つ国くらいの浮き世離れした景色がそこにある。
 明治や昭和初期の地方を舞台にした映画を異世界のように感じるのと同じである。見たことないけど懐かしいと感じるのも同じだろう。
 
 全体の流れも美しい。
 
 父にとっては最後の旅。息子にとっては初めての旅。二人一緒は最初で最後。
 父は山巡りの知識を息子に教え、息子は村での暮らし(村長には逆らうななど)を教える。
 旅を続けながら、父は長年の出来事を回想し、その中に妻(母)との出会いや息子の誕生と成長も含まれる。
 息子は父の仕事の過酷さと寂しさ、大切さを思い知る。
 そして二人一緒に、母の元に返り、次の日息子の旅立ちを父が見送る。次男坊も今度は息子について行く。
 繰り返し続いていく営みの中の、つなぎ目を丁寧に描いており、何とも後味も良い。
  
 父は厳しい仕事の果てに出世することもなく仕事を辞めさせられて形だが、やれ薬をくれただの、希望通り息子を跡継ぎにしてくれただの、やたら上司の対応をありがたがり、お上には逆らってはならないと連呼する。その上司は一度仕事を変わってその厳しさに驚いたとか、家まで気にかけてきてくれたとか台詞でのエピソードだけは良く出てくるが、どうにもうさんくさい。
 古く凝り固まった父の考え方という点で無理矢理感はないが、中国のむちゃくちゃな統制っぷりを見聞きすると国家を賛美しなければならない姿勢が滲み出ているようにも感じてしまう。

 今、山の郵便配達はどうなっているのだろう。

 インフラをつなぐのには電波の方が手っ取り早い。文面だけならメールでもSMSでも良いだろう。山の配達も不要となるだろうか。
 この状況は日本でも同じだろう。過疎の村を支えるインフラとして郵便など配達業務は重要だが、コストの面では負担がかかりすぎるため、様々な方法で軽減が試みられている。

 結局コロナで判明したのは、物流は非常に大切だということ。物資が行き渡ることもそうだし、便利なネット注文をあれこれ駆使しても、結局家まで届けてくれる人が居なければどうにもならない。人間には情報だけでは生きていけない。実際の「物」がどうしても必要なのだ。情報で代替できる物なのか、そうではない物なのか、きちんと判別されるべきだし、そんない綺麗に切り分けられる物でも無いのだろうというのが自分の認識だ。
 手紙なんていらなくて、メールで十分?
 多くの場合、気軽に連絡が取れるメールは非常に良いものだ。だけど、いつもと違う意味合いを持たせたい時に手紙は格別な手段となるだろう。
 本は電子で十分で、実際の本はかさばるだけ?
 場所を取らないこと、検索性が高いことなど電子本の利便性は素晴らしい。だけど、見開きの迫力、それを見越してつくられた漫画のコマ割り、指でなぞって読み聞かせる絵本。実際の本でなければと感じる場面もたくさんある。
 
 自分が見えている範囲だけで完全にどちらかが優れていると断言し、片方に寄っていく姿勢は幼いと思う。
 文化の持つ様々な側面を理解できるように心がけ、己の趣味とは違うとしてもそれは認める姿勢を持つべきだ。
 白黒つく事柄はそんなになく、大体灰色。
 それは悲しいことではなく、豊かなことだ。
 
 だから、手紙は滅ばない。
 滅びるなら、それは文化的後退だろう。

2010年6月6日日曜日

夢のチョコレート工場

~これが一作目~
★★☆☆☆

深夜にひっそりと放送されていたのは、ジョニー・デップ主演、ティム・バートン監督の「チャーリーとチョコレート工場」ではなく、1971年に制作されたメル・スチュワート監督の「夢のチョコレート工場」。
どちらも原作は児童小説「チョコレート工場の秘密」なので、ティム・バートン監督の作品はリメークと言える。ティム版がテレビ放映されるのにあわせて一作目が深夜放送されたらしい。

ティム版が猛然と世の話題をさらったときも、一作目があったと聞いた覚えはない。ただの古びれたしようもない映画なのだろうと思いつつ眺めていたが、予想に反してなかなかに楽しい。
特にチョコレート工場にたどり着くまでのくだりが、名作劇場的な地に足のついた絵づくりで好感を持った。ティム版も古びた建物の並ぶ町並みを再現していたが、現代的な要素も持ち込んでおり、どうもすわりが悪い。前作はそのまま1970年代の雰囲気(なのかな? とにかくいい具合に古くさい)。チョコレートに夢中になり、夢馳せる子供達の姿は昔の風景の方がしっくりくるだろう。
工場主はジョニー・デップのように外見上の奇抜さや華やかさはないが、テンションの高いエネルギッシュな人物像という点で一致している。さらに工場を巡りながら見聞きするものの感触は両者とも大差がない。

ただ、特撮部分が厳しいのは確かだ。
チョコレート工場のイマジネーション溢れる部屋の数々。描こうとしているイメージは伝わってくるのだが、魔法の域に達したCGと特殊効果の生む昨今の映像と比べれば、どうしてもあらが見える。それがにじみ出している懐かしい空気も悪くないが、これは本来の楽しみ方ではない気もするし……。
時代を差し引いてみることが出来るとすれば、錯覚の利用、奇抜でどぎつい色彩が生むめまいのような感触など、大胆な映像手法もちいて一定の効果をあげているのは評価すべきだろう。

映像化の筋道を立てたのが今作で、それを時代に合わせてしっかり積み上げたのがティム版ということなのだろう。

2009年8月11日火曜日

妖怪大戦争

測定不能(これは吉本新喜劇)
~北極点到達~

寒いギャグ、寒いシナリオ、寒い映像の三つのCoolそろい踏み。
これを気にせず公開する様は、まさにCoolなBusinessStyle。割り切り良すぎて反吐が出る。

ハリウッドに比べ、残念ながら日本映画のCG要素はつたない。
かつて威容を誇った特撮技術も、技術の世代間伝授に失敗したため、すでに滅んだ。
妖怪が大暴れするという性質上、どうしてもCG、特撮が不可欠な今作。予算も低そうだし、映像クオリティに文句をつけても大人げない。むしろ、この程度のクオリティにはすでに慣れているので、悲しいかな特別に腹が立つわけではない。

見ていて厳しいのは、頭にくるのは、吉本の芸人総出演の安っぽさ。
TV番組のコントなら失笑で済ませることのできるシーケンスを最初から最後まで並び立てる。
これが新喜劇ならば、客は皆大前提として笑いに来ているのだから、相当空気が悪くない限り笑ってくれるだろう。

この映画はそれと知らずに入ったお笑い会場だ。
世界に入れない限り、常に忍耐をしいられる一種の修行に取り組むことになる。

たとえば……、
興味もないのに、女性に誘われてほいほいついて行ったアイドル映画とか、
演劇を見慣れてないのに突然見たライオンキングとか、
ちょっと企画説明して、と行ってみたら重役そろいぶみのマジ企画会議だったとか。

そんなの聞いてないよ~という絶叫が響くばかり。
その絶叫はある意味悲壮で、恐怖で、ああ、この映画自体が妖怪だったよ、と思えば納得できる。

ともかくこれは吉本新喜劇であって、映画の範疇で判断するのは難しい。測定不能とさせてください。

2009年2月9日月曜日

容疑者Xの献身

容疑者Xの献身 ブルーレイディスク [Blu-ray] 

 ★★★★
~劇画ガリレオ~


◆テレビ版を越えて
テレビドラマ「ガリレオ」の劇場版。
完全新作の最新エピソードは、しっかり「映画」だった。
この手のドラマ映画化にありがちな安っぽさはない。かといって映画全体の中でクオリティが突出しているかと言えばそうでもない。ただ、劇場版であると胸を張って言える安定したクオリティの作品だった。
思い返してみると、物語としてはかなり地味である。
荒唐無稽なトリックが売り物であるドラマ版の雰囲気はなりを潜め、静かだが重みのある人間ドラマが主体となっている。
刺激的な映像が続くわけではないのに観客の興味を維持できているのは、意図ある絵づくり、演出のたまものだろう。
今作には感じ入るところが多々あったので、特にネタバレ前提で分析的にみていきたい。
まず映画冒頭で描かれる派手な爆破シーン。
金をかけただけのはったりともとれるが、そうだとしても非常に有効なはったりだ。
ドラマ版でも実験によるトリックの実証はミステリーにあるまじき「見栄え」のともなった見所である。映画冒頭の証明実験はそのスマートさ、規模、迫力においてドラマ版と一線を画している。観客はここで、心に抱えていた、
「映画化といってもTVスペシャル程度のしょぼさなのではないか」
という不安を早々に払拭される。TVドラマの映画化によく見られる、なんちゃって映画ではないのだと納得するのである。
さらに、このシーンは導入であるが、同時に終了でもある。
・事件の発生
・トリックへの手がかり
・実験による証明
という定番の流れを一気に消化して、TVドラマのいつもの展開に終止符を打っている。
実際、このシーンまでで「いつものガリレオ」は終了していると言っていい。

◆湯川の孤独
これ以降物語や演出からはドラマ版にあったようなバタ臭さ、勢いに任せた展開がなくなる。代わって現れるのは、山田洋次の時代劇のような、古くさいかも知れないが真っ当な演出。重みのある、スケールだけではない、質として深化した「ガリレオ」である。
キャラクターの立ち位置さえも、コメディ色の強かったドラマ版と乖離し、深刻すぎない範囲で現実色を増している。
例えば、女性刑事内海は、ドラマにおいて明らかにご都合主義の単独捜査に従事しているが、映画では警察組織の中でお茶汲みOLのような扱いを執拗に受けている。
お笑い担当の万年助手、栗林も出てくるだけでコメディ色が強くなるためか、映画ではほとんど出てこない。
そして、湯川の孤独。
頭脳優秀運動抜群容姿端麗……。しかも湯川は学究に傾倒するあまり、非人間的、非常識な言動を繰り返す人物である。現実に湯川のような人間がいた場合、周囲がその存在を正当に受け止めるのは難しいだろう。
ドラマではそういったエキセントリックな性格もキャラ付けに過ぎず、コミカルな印象になって問題とならない。見ている方もそんなものだろうと受け入れている。
だが劇場版での彼は、とても孤独だ。
その孤独を描くことが、この映画の一つのテーマになっているとさえ感じる。
湯川の孤独を描くために、彼には(そして観客には)二つの謎が提示される。

一つは、殺人のトリック。
これはいつものガリレオと同様。理性の問題だ。

もう一つは、動機。
なぜ犯罪を犯したのかという、感性の問題
湯川は殺人のトリックを軽やかに暴く。いつものように。
しかし、動機はどうだ。
いつもの湯川なら、犯罪の動機など、そもそも眼中にない。興味の枠外だ。 だが、この事件は違う。
湯川が天才を認め、知的レベルの拮抗した対等の友人(湯川はそう思っていた)、石神が犯した犯罪なのだ。
湯川は初めて人の心を理解したいと望み(もしくは、理解できる物であることを願い)、石神の心、その深淵をのぞき込んでしまった。理性ではなく感性が構築するその不可思議に対峙してしまったのだ。
実はこの謎は、観客にとっては何でもないものだ。
上映時間の多くは、石神の視点、石神の行動を描くことに費やされており、特に序盤は執拗に石神の日常を追う。そこにはトリックにまつわる描写も含まれるが、石神のさえない毎日を描くことに重きを置いている。
雑然とした部屋。
決まりきった繰り返しの日々。
毎夜続ける数学の研究も、評価された様子はなく、今後評価される予感もない。
そういった日々の中で、唯一世界の広がりをかいま見せてくれる隣の部屋の母子家庭。その女性。
石神の生活を追うからこそ、彼にとってその女、花岡靖子がどれだけ貴重で大切なのかが伝わってくる。
従って、我々にしてみれば、映画全編それ自体が動機の証明なのだ。

◆劇画ガリレオ
 湯川は懸命に石神を理解しようとする。そして理性に基づいて説得もしようとする。だが、その姿は悲しく、もはや滑稽だ。
感性の領域に湯川の才能は皆無で。
直感も想像も働かず、無神経にかき回すだけ。
理解しようともがき苦しむが、
花が美しいということを、湯川は感じることが出来ないのだ。
誰とも感性を共有できない。そんな孤独があるだろうか。
いや、本来なら学究の分野で、湯川にとって石神がそういう存在であったはずだ。この世に生きてくれているだけで、心強く思える、そういう友人だと思っていたはずだ。
だからこそ湯川はその謎を証明し、石神の動機が無意味なものだと説諭して彼を取り戻したかったのだ

これはいびつな三角関係の物語である。
よくある恋の三角関係ではない。
生き様の、三角関係。
しかも多くの三角形が、異なる要素で並立している。

理性←→感性
男性←→女性
光←→影
憧れ←→妬み
大人←→子供

たくさんの向き合う言葉が複雑に入り組んでいる。
この問題はだから、理屈では整理しきれない。割り切れない。
ただ、感じ取って腹に落とすしかない。
だから、湯川には解けない。
映画の最後でも、湯川は言葉の上でしか、石神の動機を解くことが出来ないのだ
この映画は宣伝で連呼されていたような、天才同士がその知性で対決するものではない。
石神の行動を理解しようとした、孤独な湯川の軌跡。
そして、完全な敗北
ドラマ版の要素を引き継ぎながら、異なる解釈を引き出し、新たな魅力を引き出した。
それはまるで、大人になった登場人物を劇画タッチで描いた異色作「劇画オバキュー」のガリレオ版。
切なくも悲しくも、生きることを語る、「劇画ガリレオ」である。

◆以下余談
~~~~~~~~~~~~~~~~
上記のように書き連ねたが、気になる点も少なくない。
雪山のシーンはいかにも唐突すぎるし、事件のトリックは(わざとなのかもしれないが)大した物のように感じられない描かれ方となっている。
湯川も内海もわき役に過ぎず、ドラマの延長を望んだファンには消化不良となるかもしれない。

終わり方も、すべての人が本質的にわかりあえるはずはないという前提の元、一途さがわずかに気持ちを伝えてくれるかもしれない、とした悲観の強いものだ。(これは自分の好みではあるが……)

最後に、ヒロインは誰だろう、と考える。
自分は、花岡靖子の娘、美里だろうと思う。
彼女だけが、石神の献身を、感じ取っていたと思うから。
ちょうど、「オネアミスの翼」のヒロインがリイクニではなく、マナだったように。
彼女の存在が、物語の中でもっとも純粋な輝きである。

2009年2月4日水曜日

ユリシーズの瞳

 

★★★★★ ~究極のカッティング~

トロイの木馬を考案した「オディッセイア」の別読みがユリシーズとなる。
故郷を追われ、各地を放浪したというユリシーズの伝記に合わせた内容を、20世紀のギリシャで展開する。

ギリシャ最古の未現像フィルムを求めてヨーロッパ各地を彷徨う映画監督。
主人公名が明かされず、クレジットでも「A」としか描かれていないように、個人の放浪を描きながら、その実描こうとしているのは人類の歴史
目撃者であり、根源を探求する「A」は、映画という文化そのもの、「映画の神様」といった存在だろう。

ともかく、映像の完成度が底抜けに高い。
その長回しは、もう、絶望的に、完成されている
この映画を見た映画監督の多くは、自分の限界と理想の達成された世界を見て、メガホンを置いてしまうのではないか。
そもそも映画は進歩の課程で「カッティング」という発明を得た。切ったり貼ったりの編集である。
それは映像のベクトルをそろえ、リズムを作り、心を動かす技術だが、言い換えれば、とてつもなく不自然なことである。
突然視界が切り替わり、別の視点へ吹き飛ぶのであるから。
臨場感や没入感のために、これまで多くの監督が長いカット、つまり「長回し」に挑戦している。だが、それらは明らかな失敗であったり、映画の一部分の一要素として使用される場合がほとんどである。
しかし、この映画ではほとんどのカットが長まわしであり、なおかつ全てが成功している。
長回しで有名な巨匠溝口監督の長回しでさえ、今作と比べればつたない。
 ※これは時代の技術的な制約のためだろうと考えるが。

長回しは、究極のカッティングである。
ただ長いカットを撮ればいいという物ではない。
要素、画面構成、演技、その変遷。全てを把握してなめらかにつながなければならない、非常に困難な作業である。
普通に撮ると、ただのホームビデオになる。常に緊張感と品位を保ったまま、抜きのない瞬間を連続させるのは、これはもう、想像を絶する努力と才能である。
おそらくこの映画を見終わった人には、全編が長回しだったと意識する人は少ないと思う。
長いシーン中の映像全てが、映画的に質の高い画面となっているため、カッティングによるのと同じような、演出された映像として知覚されているからである。
作品の内容との兼ね合いもあるだろうが、この作品を見てしまうと、カッティングの羅列となった映像など、ただの見苦しいつぎはぎのように感じられる。
映画の一つの到達点、正解が、この作品だと、不思議な喪失感とともに断言する。