2010年9月21日火曜日

借りぐらしのアリエッティ

 
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★★☆☆☆
~生きる目的~

あえて言い切る。
生活感が足りない。
小人達の暮らしが、画面の中から現実感を持って立ち上ってこないのだ。この言い切りに疑問を持つ方も多いだろう。
かき込まれた背景。日々の暮らしを営む、片づいていない雑多な空間。細かなところまで気を配られた演技の数々……。
ここまで描かれた世界こそが生活感ではないのか!?
確かに、努力は見て取れる。懸命に考えて、想像して、積み上げた要素の数々が画面に溢れている。しかし、ときめかないのだ。どこか他人事のまま、物語に興味を持てぬまま、上映時間を退屈に過ごすことになる。

まるで、全ての好みがそろっているはずの女性を前に、なぜか心が動かない不可思議さ。惚れる、ということが理屈ではないのと同様、映画の吸引力も計算通りに現れるものではないのだ。それは恋のように理不尽なのだ。

生活感の無さの端緒に、二つの小さな事柄を挙げよう。
一つは「豆電球」。
小人は探検のランタンとしてボタン電池で灯した豆電球を持つ。
鍛冶加工の可能な小人は豆電球に金属の覆いをつけ、取っ手をつけて使用する。なるほど、細かな設定だ。
しかしそれは、嘘くさい頭で考えただけの設定ではないか。
工作をしたことがあるものなら、豆電球の危険な熱さを知っている。
金属で形作った覆いや取っ手はすぐに熱を伝えて、とても素手では持てなくなるに違いないのだ。
また、小人にとって豆電球の光量は目をつぶすほどのまぶしさだろう。
ボタン電池を直結した瞬間画面が真っ白になって、光量を絞る仕草を見せる……といった表現があったなら、架空世界への食いつきが増しただろう。それとも、電圧などの関係でボタン電池だとあの程度の光量が実際なのだろうか。そうだとしたら、本当だけど嘘くさい表現となっている訳で、よろしくないのは変わらない。
貴重だと思える豆電球を、目の届かないリュックの背中にひっかけて移動するのも無頓着すぎる。スケールの関係で、小人にとってのガラスは鉄に等しい強度なのかも知れない。それならその差異を表現しなければ、これも嘘くさい本当、になってしまう。

つぎに、「待ち針」。
アリエッティは人間界の冒険中に待ち針を拾う。彼女にとってそれはサーベルのような大きさで、喜んでそれを服の腰部分に突き通す。
違和感を感じた。
小人達は周囲の様々な事物を丁寧に、価値ある物として扱っているように感じるのに、なぜサーベルを自分の服にそのまま突き刺して持ち運ぶのだろう。そのような巨大な穴を、大切な服に開けるだろうか。余りに無頓着ではないか。

小さいということは、確実に世界が異なる。
誰もが興味深く感じたであろう、水の表面張力の表現。ポットからカップに注ぐ紅茶の、まるで粘性の高い液体のような動き。
このように世界の物理的な感触の差異をきちんと描くのであれば、もっとそういうシーンを増やすべきだった。おそらく小人達はその体長に比して、強力な筋力を持つはずだ。虫が体長に倍する獲物を運ぶように、体が小さくなると、筋肉や骨の容量に対する強力さが目立つはずなのだ。
逆にそうではなく、筋力まで小人なのだとすれば、世界は恐ろしい驚異に満ち満ちた魔界となり、小人達が家族単体で生き抜ける環境ではあり得ない。

「日本昔話」のようなデフォルメで描かれたなら、このような細部は気にもとまらないだろう。だが、今作はジブリのリアル表現で描かれた。ならば、このようなつっこみを受けることも必然だろうと思う。
こういった、現実的なようで配慮が行き届かないどっちつかずな印象が、生活感のなさとして目に映るのだ。

監督は今回初監督となるたたき上げアニメーターの米林宏昌。
映画公開にあわせてテレビで特集された制作ドキュメントを見れば、彼に好意を覚えずにはいられない。朴訥な見た目の印象そのままの、誠実な作業を一つずつ積み上げていく姿。回りを気にしながら、譲らないところも併せ持つ強情さ。
宮崎駿監督の息子、宮崎吾郎の監督作品「ゲド戦記」は絶望的に才能を感じられない物だった。彼は絵は描けるが、映像を描くセンスがない。このまま経験を積んでも、何らかの突然変異がない限り、その直線上に価値ある作品が生まれる可能性はない。
だが、米林氏は違う。確かにアリエッティはちぐはぐな作品で、おもしろくない。だが、誠実な姿勢と今後の可能性を感じさせてくれる。現時点で才気溢れる新たな才能ではないかも知れない。だが、今回の経験を踏み台にどんどん向上していくような期待感を感じることが出来た。なにとぞこの弱々しい種火を消すことなく、宮崎駿のいなくなったジブリを、日本アニメーションを照らす強い篝火へと導いて欲しい。
以降は考え進めることを放棄した思考の残骸であるが、メモ代わりに残しておく。

◆メモその1
この映画、内容を寓話的にとらえて、考えれば考えるほど鬱になる。脚本がどろどろとしすぎだ。
小人達には「生き残る」以外の目的がない。共同体の一員として役目を果たすこともなく、生活の安定やレベル向上を目指すこともない。
借り暮らしなどといっているものの、必要な物資は借りたまま返さない。借りたものを別の形で返す気もない。良く言っても泥棒暮らし、悪く言えばただの害虫だ。
そんなアリエッティの毎日に、夢も希望も感じない。
彼女が何をがんばろうが、何を語ろうが、全て無意味だと感じ、虚無感に引き寄せられてしまう。これだけなら、景気の悪い鬱な物語だと終わっただろうが、考えたくない可能性に気がついてしまった。
この俗世間にまみれた小人のありようは、そのまま人間のことだ。
小人と人間の関係は、人間と神、もしくは人間と世界の関係の寓意ではないか。
どのように時間と手間をかけた暮らしの空間も、神の、世界の気まぐれで一晩に灰燼に帰す。
核家族化する人間社会。孤立していく家族、個人。
自然から資源を借りたまま、図々しく返さない借り暮らし。
本質的に、目的のない人生。
嫌な小人だとないう印象が、そのまま自分に流れ込んでくる。なんと痛烈な批判だろうか。
しかも、物語は希望無く終わる。
美しいラストシーンに思えるが、その実、気持ちは過去に残したままの後ろ向きの別れだ。立ち向かうことを諦めて、世の決まりに従い、それなりに生きていく。
我々の暮らしや、人生のむなしさ、空虚さを描いたのか。すばらしいと思えるものは手に届かない幻だよ、と諭す物語になってはいないか。
脚本がこのような目的を持って書かれたのかどうかは分かりはしないが、少なくとも裏に何らかのネガティブな意図を含ませているのは確信に近く感じる。
この作品を見た誰もが感じているはずだ。
結末の煮えきらなさ。心地悪さ。
その後の明るい未来を想像できない、虚無。
脚本の宮崎氏は問題意識を前向きな意欲に導くことは出来ず、監督の若い力も脚本の虚無を打ち払うことが出来なかったのだろう。

◆メモその2
ヒロインアリエッティは学校に行くわけでもなく、畑仕事をするわけでもない。この年になるまで何をしていたのか。唯一の生産的手段である「借り」には行ってなかったわけだから、いいとこ家事手伝いだろう。
母親は物欲にまみれて既得権益の保護に躍起になり、潔さのない醜悪さをまき散らす。このあたりは笑い所にしたかったのだろうが、見るからに意地悪婆のキャラクターデザインがそれを許してくれない。
寡黙な父親は結局娘にどこまでも甘い親ばかで、実際あまり役に立たない井の中の蛙。
人間側もひどい。
薄幸の美少年は大人の前ではいい顔をしながら、その実己の境遇に疲れ果てて人生を諦めている。ゆがんだ生い立ちによってか、絶対的に有利な力関係での押しつけでしかコミュニケーションをとることが出来ない。
祖母やお手伝いに至っては、ただただ人間的な魅力を感じさせない。本当に良くいそうな人物という点ではリアリティに溢れているが、見たくないたぐいの現実感だ。こちらも笑いにしようとしているところで、醜さが勝り、少しも笑えない。
アリエッティと少年が今現在美男美女だとて、彼らのゆくすえたる大人達がこんなでは、明るい未来を想像することも出来ない。
物語だけでなく、遺伝子からにじみ出る類似性の面からも未来を封殺。どこまで見る者を暗い気持ちにしたいのだろうか。

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