2009年2月16日月曜日

TROY

★★★★☆
~飛ぶアキレス~

ブラッドピット主演。古代エーゲ海を舞台にした古代戦闘絵巻。
注意すべきは、神話の物語を、史実としてあり得る形で描いているという点。
つじつまの合わない神話を、人間世界の物語にまとめている。

古い物語は、さまざまな口伝によって付け足し、削除が行われる。別の物語の要素が付け加えられたり、エンターテイメントとして成り立つように演出が付け加えられたり。
したがって、そのような物語を忠実に再現することは、無謀であるし決して面白い物にならないだろう。つじつま合わず破綻するからだ。
三国志もそうであろうし、平家物語もそうであろう。
すべての神話も同じく。
この映画はそんな神話をうまく物語としており、語り部によって改編されるという意味で、正しい神話への関わりかただろうと思う。

不死身の戦士アキレスをブラッドピットが演じているが、その強さの説得力がおもしろい。
アキレスは体躯や膂力を誇る他の戦士達と、全く違う方向性の戦い方を行っている。
足を止めることなく動き続け、どこから剣撃が来るのか予測できないトリッキーな動きで相手を翻弄。とどめは小さなジャンプから首元に突き出す一撃。
常識的な戦闘方と異なるセオリーで戦う姿は、勇者の映像化として小気味よい物だった。

さらに特筆すべきは、古代の戦争の空気感。
事実に基づいているのかは不明だが、独特の様式が垣間見られて興味深い。
大軍同士がにらみ合った上、両軍の頭目が話し合って、折り合いがつかなかったら戦闘開始。
代表戦をしてみたり、折り合いつけて今日はここまで、ということにしたり。
完全に命がけの一大事というより、日常に戦闘が組み込まれていて、それをシステマチックに行うような印象もある。
古代中国、三国志の時代、戦闘の趨勢は勇猛な武将の「威」が決定したという。曰く、多くの兵隊は農民が徴兵されたもので、そこそこに剣を交えてチョボチョボ戦い、負けムードが漂ったら、すぐに壊走と相成ったらしい。だからこそ、個人の強さが全体の勝敗を決することになったのだという。
そんな、微妙に牧歌的な空気が、望んでか望まずか滲んでいる。

大軍同士のぶつかり合いも映像的な魅力にあふれ、作品としてのお得感は高い。が、そういった快感以外に得る物があるかといえば……。
基本ラインがお涙ちょうだいの恋愛物であるので、そこまで望むのは酷かもしれない。

2009年2月14日土曜日

ヘドウィグ アンド アングリーインチ

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

★★★★★
~二つの魂と二つの肉体~


すげえ。
心を揺り動かされた。
★四つまでは各要素の積み上げで判断できるが、五つは違う。
人に説明できなくてもいい。共感してもらいにくくても良い。
とにかく好きで、何度も見返してしまうような作品が、自分にとっての★五つだ。

ゲイのロックミュージシャンの人生遍歴を、ライブツアーに重ねて描く。
もとは舞台ミュージカルで、主演脚本監督をかねるジョン・キャメロン・ミッチェルが、そのまま映画化した作品。
通常ミュージカルといえば、まず一点、唐突に歌い出すことを許せるか否かにかかっていると思う。が、今作はロックミュージシャンのツアーが設定なのだから、全く自然。バンド以外のバックコーラスや、その場にいる観客含めたダンスなど、ミュージカルならではの装飾過多もなく、元が舞台だったのだとは思いもよらなかった。
全編の半分以上はミュージッククリップのような演奏部分が占め、それを連結することで物語になっている。このこと自体が希有な構成でまさに唯一無二。

魂のふれあい、人間同士の隔絶。

相反するテーマが、物語設定にも、物語にも、歌詞にも深く織り込めれており、それらが複雑な味わいを醸し出す。
頭で、理屈で理解しようとすると、一貫性をとらえにくく、難解に感じるかもしれない。説明し過ぎない演出だからだ。
しかし、感情を開いて鑑賞すれば、直観で理解できる。伝わってくる。 見終わった時、自分が何か重要な物を目撃したのだと、そう感じた。

その後、何度も見返して自分なりの理解を手に入れた。
「愛の起源」では、呪われたように寂しい心、求める心を、愛の生まれた起源を説明して歌い上げる。それはよくできた絵本のように、単純で、深く、普遍的な物語。
「真夜中のラジオ」では、生きていくことの「ロックンロール」を歌い上げる。すべてが悲しくても、それでも生きていくという決意を、これまでの先達に誓う。
「Wicked Little Town」は物語中で二つのバージョンが歌われる。
それぞれが誰に、なんのために歌われるのかに注目することで、ラストの意味が分かる重要な曲だ。

どの歌も、切なく、それでいて力強く。
生きること自体が、ロックだと。
負けずに、立ち上がることが、どのような人生においてもロックなのだと。
ポジティブな魂のあり方が、ロックンロールなのだと。
自分が見終わった後、残ったのは、人間という存在への強い共感だった。
生きていくんだという、悲しくも素晴らしい、覚悟だった。

波のひいた砂浜に、そっと書かれた言葉のように。

弱々しいような、
力強いような、
祈りのような、
いろんな感情が渾然一体になった、優しい優しい物語だった。


時をかける少女 (アニメ映画版)

★★★ ☆☆
~少女漫画と少年漫画~

尾道三部作に数えられrる、大林監督の「時をかける少女」がノスタルジイを主体に少女漫画の世界を映像化した作品だとすれば、今作は未来への希望を主体に少年漫画の世界を映像化した作品だろうと思う。
主人公は少女であるが、その心根はどちらかというと少年的で、繊細とはほど遠い。
良い悪いではなく、全く別の作品であるということ。
だから実写と比べてどうこう言うことは、あまり意味がない。同じネタを違う時代、違う人物に適応した物語だ。

その上で判断すると、
すべて、問題なく、破綻無く、まとまっている。
笑いもあるし、緊張もあるし、そこそこ情感もある。
きっとこの作品を大好きな人も、たくさんいると思うし、それに同意もできる。
でも、全編にわたり、なぜかどこか冷めている。
画面は生活感にあふれ、背景の人物も生活を営んでいる雰囲気を持っているのに、主人公など、主要人物だけが、浮いている。
ステレオタイプな人物像。その枠を越えない、男二人、女一人の人間関係の機微。
勢いが少し足りず、それぞれのシーンで少しずつ不満がたまっていく感じ。

もうちょっと、くさくて、よかったんじゃないか?
無理してきれいにまとめる必要はなかったのではないか?

そういう欲求不満を抱えて、まずまずおもしろかったね、と映画館を出た。
他に気になるのは、声優のつたなさ。致命的ではないが、やはり不安定で、なぜわざわざ新人起用するのかが分かりません。
素晴らしい新人が抜擢によって出現することもありますが、多くの場合政治力を感じるだけの、マイナス要素です。
今作でも、やはりどこか不穏な空気を感じてしまいます。

ところで――。

これは実写版の「その後」の物語のようです。
かつての主人公の「姪」が今作の主人公で、かつての主人公も重要な役柄として物語に関わっています。
アニメを見て気に入った人は、ぜひ実写版も見て、もう一つの恋物語も味わってみてください。

2009年2月9日月曜日

容疑者Xの献身

容疑者Xの献身 ブルーレイディスク [Blu-ray] 

 ★★★★
~劇画ガリレオ~


◆テレビ版を越えて
テレビドラマ「ガリレオ」の劇場版。
完全新作の最新エピソードは、しっかり「映画」だった。
この手のドラマ映画化にありがちな安っぽさはない。かといって映画全体の中でクオリティが突出しているかと言えばそうでもない。ただ、劇場版であると胸を張って言える安定したクオリティの作品だった。
思い返してみると、物語としてはかなり地味である。
荒唐無稽なトリックが売り物であるドラマ版の雰囲気はなりを潜め、静かだが重みのある人間ドラマが主体となっている。
刺激的な映像が続くわけではないのに観客の興味を維持できているのは、意図ある絵づくり、演出のたまものだろう。
今作には感じ入るところが多々あったので、特にネタバレ前提で分析的にみていきたい。
まず映画冒頭で描かれる派手な爆破シーン。
金をかけただけのはったりともとれるが、そうだとしても非常に有効なはったりだ。
ドラマ版でも実験によるトリックの実証はミステリーにあるまじき「見栄え」のともなった見所である。映画冒頭の証明実験はそのスマートさ、規模、迫力においてドラマ版と一線を画している。観客はここで、心に抱えていた、
「映画化といってもTVスペシャル程度のしょぼさなのではないか」
という不安を早々に払拭される。TVドラマの映画化によく見られる、なんちゃって映画ではないのだと納得するのである。
さらに、このシーンは導入であるが、同時に終了でもある。
・事件の発生
・トリックへの手がかり
・実験による証明
という定番の流れを一気に消化して、TVドラマのいつもの展開に終止符を打っている。
実際、このシーンまでで「いつものガリレオ」は終了していると言っていい。

◆湯川の孤独
これ以降物語や演出からはドラマ版にあったようなバタ臭さ、勢いに任せた展開がなくなる。代わって現れるのは、山田洋次の時代劇のような、古くさいかも知れないが真っ当な演出。重みのある、スケールだけではない、質として深化した「ガリレオ」である。
キャラクターの立ち位置さえも、コメディ色の強かったドラマ版と乖離し、深刻すぎない範囲で現実色を増している。
例えば、女性刑事内海は、ドラマにおいて明らかにご都合主義の単独捜査に従事しているが、映画では警察組織の中でお茶汲みOLのような扱いを執拗に受けている。
お笑い担当の万年助手、栗林も出てくるだけでコメディ色が強くなるためか、映画ではほとんど出てこない。
そして、湯川の孤独。
頭脳優秀運動抜群容姿端麗……。しかも湯川は学究に傾倒するあまり、非人間的、非常識な言動を繰り返す人物である。現実に湯川のような人間がいた場合、周囲がその存在を正当に受け止めるのは難しいだろう。
ドラマではそういったエキセントリックな性格もキャラ付けに過ぎず、コミカルな印象になって問題とならない。見ている方もそんなものだろうと受け入れている。
だが劇場版での彼は、とても孤独だ。
その孤独を描くことが、この映画の一つのテーマになっているとさえ感じる。
湯川の孤独を描くために、彼には(そして観客には)二つの謎が提示される。

一つは、殺人のトリック。
これはいつものガリレオと同様。理性の問題だ。

もう一つは、動機。
なぜ犯罪を犯したのかという、感性の問題
湯川は殺人のトリックを軽やかに暴く。いつものように。
しかし、動機はどうだ。
いつもの湯川なら、犯罪の動機など、そもそも眼中にない。興味の枠外だ。 だが、この事件は違う。
湯川が天才を認め、知的レベルの拮抗した対等の友人(湯川はそう思っていた)、石神が犯した犯罪なのだ。
湯川は初めて人の心を理解したいと望み(もしくは、理解できる物であることを願い)、石神の心、その深淵をのぞき込んでしまった。理性ではなく感性が構築するその不可思議に対峙してしまったのだ。
実はこの謎は、観客にとっては何でもないものだ。
上映時間の多くは、石神の視点、石神の行動を描くことに費やされており、特に序盤は執拗に石神の日常を追う。そこにはトリックにまつわる描写も含まれるが、石神のさえない毎日を描くことに重きを置いている。
雑然とした部屋。
決まりきった繰り返しの日々。
毎夜続ける数学の研究も、評価された様子はなく、今後評価される予感もない。
そういった日々の中で、唯一世界の広がりをかいま見せてくれる隣の部屋の母子家庭。その女性。
石神の生活を追うからこそ、彼にとってその女、花岡靖子がどれだけ貴重で大切なのかが伝わってくる。
従って、我々にしてみれば、映画全編それ自体が動機の証明なのだ。

◆劇画ガリレオ
 湯川は懸命に石神を理解しようとする。そして理性に基づいて説得もしようとする。だが、その姿は悲しく、もはや滑稽だ。
感性の領域に湯川の才能は皆無で。
直感も想像も働かず、無神経にかき回すだけ。
理解しようともがき苦しむが、
花が美しいということを、湯川は感じることが出来ないのだ。
誰とも感性を共有できない。そんな孤独があるだろうか。
いや、本来なら学究の分野で、湯川にとって石神がそういう存在であったはずだ。この世に生きてくれているだけで、心強く思える、そういう友人だと思っていたはずだ。
だからこそ湯川はその謎を証明し、石神の動機が無意味なものだと説諭して彼を取り戻したかったのだ

これはいびつな三角関係の物語である。
よくある恋の三角関係ではない。
生き様の、三角関係。
しかも多くの三角形が、異なる要素で並立している。

理性←→感性
男性←→女性
光←→影
憧れ←→妬み
大人←→子供

たくさんの向き合う言葉が複雑に入り組んでいる。
この問題はだから、理屈では整理しきれない。割り切れない。
ただ、感じ取って腹に落とすしかない。
だから、湯川には解けない。
映画の最後でも、湯川は言葉の上でしか、石神の動機を解くことが出来ないのだ
この映画は宣伝で連呼されていたような、天才同士がその知性で対決するものではない。
石神の行動を理解しようとした、孤独な湯川の軌跡。
そして、完全な敗北
ドラマ版の要素を引き継ぎながら、異なる解釈を引き出し、新たな魅力を引き出した。
それはまるで、大人になった登場人物を劇画タッチで描いた異色作「劇画オバキュー」のガリレオ版。
切なくも悲しくも、生きることを語る、「劇画ガリレオ」である。

◆以下余談
~~~~~~~~~~~~~~~~
上記のように書き連ねたが、気になる点も少なくない。
雪山のシーンはいかにも唐突すぎるし、事件のトリックは(わざとなのかもしれないが)大した物のように感じられない描かれ方となっている。
湯川も内海もわき役に過ぎず、ドラマの延長を望んだファンには消化不良となるかもしれない。

終わり方も、すべての人が本質的にわかりあえるはずはないという前提の元、一途さがわずかに気持ちを伝えてくれるかもしれない、とした悲観の強いものだ。(これは自分の好みではあるが……)

最後に、ヒロインは誰だろう、と考える。
自分は、花岡靖子の娘、美里だろうと思う。
彼女だけが、石神の献身を、感じ取っていたと思うから。
ちょうど、「オネアミスの翼」のヒロインがリイクニではなく、マナだったように。
彼女の存在が、物語の中でもっとも純粋な輝きである。

2009年2月4日水曜日

サイレントヒル

★★★☆☆
~裏返る世界~

コナミ発のホラーゲームを原作とした映画。
原作ゲームをしたことがあるかどうかで、感想もずいぶん違ってくると思う。
基本的にゲーム一作目のシナリオに忠実。だが、主人公を父親から母親に変えるなど、親子の愛情というテーマをストレートに伝えるための工夫には事欠かない。
感じるのは、制作者のゲームに対する愛情と敬意。従ってゲームプレイ経験者で、このシリーズが好きな者にとっては非常に楽しめる部分が多い。つまり、自分もそうだ。

それを差し引いても、ゲームに+αしたイマジネーションの広がりは特筆の価値あり。
表の世界と裏の世界を渡り歩くのがこのゲームのシステムだが、ゲームで描かれることのなかった、「世界の裏返る瞬間」を見事に描いている。
地獄とはこういうものか、という妙な納得感。

母と子(血はつながっていないのだが)のつながりに比して、夫と妻のつながりが非常に不安定なものとして描かれる。
常に首からぶら下げている携帯電話がその象徴で、ずっとそばにいるのに、間違った言葉しか伝えてくれない。伝わったと安心して、まるで伝わっていない。
これはラストシーンでも象徴的。

もし裏のテーマがあるとしたら、それは男女の求め合い、届かない関係性といえるだろうか。

デスノート(前編)

★☆☆☆☆
~映画で見る意味がない~

まず、最初の一分でこれはだめなんじゃないかと気づく。

ライトの字が下手なのだ。

本人の映像が出てくる前に、文字だけで萎えてしまう。

リュークのCGクオリティが、ハリウッド慣れしてる目には厳しいものであるとか、
路上撮影のためか、ライティングがしっかりされていないところが目立つとか、
役者が下手とか、

そういった点は、色々な都合で致し方なかったのかと思える。
しかし、汚い字をそのまま採用した無神経(原作を一度でも読んでいれば、ライトの字は完全無欠なものであろうと考えるだろう)は、作品への気配り一つで対処できたはずで、制作者の怠惰、もしくはノーセンスを感じる。
それは全編に等質で、「まあいいか」という投げやりなOKがそこかしこに見える。
ちょっとろれつ回らなくても、そのまま流しているし、同録音声でどこもかしこも回しているし。(台詞の時のホワイトノイズが気になって仕方ない)

なんかね、この映画は、映画畑の人ではなく、TVドラマのスタッフが、そのままの意識で作ったような気がしてなりません。
うまい下手以前に、どこまでがんばるかの線引きが違う。
従って、TVドラマに1000円(映画の日でした)払ったと、それだけでがっくりくる。

同時に確信されたのは、「漫画」は、イマジネーション伝達という点において、映画に一歩も譲らない、完成されたメディアなのだということ。
原作と同じことが説明されているのに、まるで説得力が違う。原作漫画は、漫画という表現の利点欠点を把握し、その上でイマジネーションを展開させていたのだと、改めて気づく。
そのまま映像にするとこんなにも極寒なものか――。

原作の良さを再確認できる点だけが、この映画の意味なのだろうと思う。

後編は見ていません。

煙突の見える場所

 

★★★★★
~人生はお化け煙突~


同じ物事も、視点が違えば、全く違った物に見える。
このテーマを様々な被写体に託し、全編に塗り込めた、漆塗りのような映画。
けっして雄弁にテーマを語るわけではないのに、見終わった後には素直にテーマが心に残っている。

「一見関係のない物を連続して映すことで、それぞれの印象の連結を操作、新たな意味を持つシーンとする」

これをモンタージュ手法とすれば、この映画はまさにモンタージュ手法の積層だが、小難しい言葉で理解するより、「良くできた隠喩の集まり」などとした方がふさわしい気がする。
話の展開としては結構悲惨で、物語のどの段階からでも単なる悲劇につなげることが出来そうだが、見ていて笑いがあふれ、ほっとする瞬間が多いのは、小津監督のサイレント「生まれてきては見たけれど」に近い感触。
男と女の人生での役割、という視点で見ても、一貫性があり興味深い考察が得られる。
曰く、男は理屈で人生を整理しようとして身動きが取れなくなり、女は感情で回りを散らかしながら、それでも前進していく。
二つの性が、ぴったりと重なるものではなくとも、お互いに掛け替えのない物として機能している姿が、ラストシーン。
 
一本の煙突なのだろうと、納得した。

緋牡丹博徒 花札勝負

 

★★★★★ ~躍動する静止画~

ローアングル。
フィックスショットのみ。
パンフォーカスではない縦構図。
長回し。
中心を外した画面構成。
フェードイン、アウトを使用しない編集。

ざっと書き出してもこれだけの強い特徴がある、あくの強い映画。
それぞれの効果が組み合わさって、格調の高さと圧迫感を保ちながら、小気味よいテンポの良さを実現している。
この相反する要素を同居させて成り立っていることが、すでに、希有。
フィックスショットのみなのに、画面の狭さや、不自然な印象が無い。ワイド画面を活かした、もはや絵画的なレベルの画面構成。それを動的につなげてみせる各種技巧の積み重ね。
強引なつなぎを堂々と行うことで、そのショックを映画的な効果につなげている。カットの不自然さがその場の臨場感を打ち出している。
緻密と大胆が、見事なバランスで画面に定着された、絵画のような美しい映画。
以下分析メモ。

○画面の品位と美しさのために
・低いカメラ視点
 自然あおりが多いことになり、画面に圧迫感、安定感が生じる。
・フィックスショットのみ
 パンや移動カメラがない。
・絵としての縦構図
 手前、奥にぼけた事物を配置することで画面の広がりを出す。
・ぼけたままの演技
 ぼけたままで事物に演技や意味を持たせる。
 意識の集中点は維持したまま、回りの状況をまろやかに説明する。
・画面左右への要素ずらし
 画面中央に主要素を配置せず、意図的に左右に大きく崩して配置。
 絵としての美しさが際だつ。

○フィックスショットの静的な印象の中でテンポ、緩急をつけるために
・アクションカットの多用
・マルチカメラ
・正面アングルの多用
・イマジナリーラインの無視多用

○独特のテンポを生み出すために
・全てカットつなぎ
 フェードイン、フェードアウトが存在しない。
・唐突なつなぎ
 本来フェードイン、フェードアウトを使う部分を逆に突然の会話でつなげる。
 これでもつながるから不思議。
・相手場所時間で即飛び
 情況が整えば一気に場面を飛ばす。
・時に情緒的
 他の部分をばさばさ端折っているので、丁寧に描く部分が際だつ。
 細切れにならず情緒的な部分がバランス良く入り交じる。

裁かるるジャンヌ

★★★★☆
~彼女は、全うした~

フランス・イギリス100年戦争の聖処女、「Jeanne D'Arc」の最後を描いた白黒の無声映画。
ジャンヌは神の啓示を受け、フランスの新王擁立を目指した少女で、勇ましい甲冑姿に最前線で旗を振り、フランス軍の意気鼓舞に多大な力を発揮した。
しかしその末期は悲惨なもので、イギリス軍に捉えられ、異端審問にかけられた上で生きたまま火あぶりにされる。

この映画は一年半にもわたった異端審問を一日の出来事としてまとめており、現代的な短いカットつなぎ、絵画のように構成されたレイアウトで緊迫感と一種荘厳な雰囲気を放射している。
異様なまでにアップを多用し、演者の毛穴、しわの一本一本まで映し出しており、圧迫感を伴う現実感がにじみ出す。アップ多用なのに画面が平凡にならないことが特記すべき特徴で、あおりや俯瞰主体の画面構成、役者の絶妙な演技が画面を常に引き締まったものにしている。

無声映画のため言葉としての情報量は極端に少ない(無声映画にしては字幕が多い方かも知れないが)。
それなのにジャンヌはじめそれを取り巻く人々の心の動き、それらが織りなす人間の営みの切なさ。単純な善悪対立かと思われた冒頭から、複雑でばかばかしく、しかし愛しい人間達という範囲まで映画の規模が広がっていく。

悲劇なのだが、後味はむしろ暖かく、そしてそれを際だたせる切なさこそが、この映画の肝ではないか。

真偽はともかく、一つの信念を抱き、それをぎりぎり(ここが重要)全うした一人の少女。
彼女を裁いた教会の面々が、火刑のさなかどのような表情を浮かべるかに、良く注意して欲しい。

それは、後悔や自責でなく、羨望、憧れではないか。

東京オリンピック



★★★★★
~夢のあとさき~


1964年の東京オリンピックの記録映画。
巨匠、市川崑がカメラ技法の粋を駆使してくみ上げた、前衛的記録映画。
ただの記録映画ではない、というか、これこそ記録映画だ、というべきか。
オリンピックという祭典の哲学、意義さえも包含した上で、普遍的な映像表現となっている。あの日あの時の記録性という部分は幾分薄れるが、その分時代を越える。

現在のオリンピックに比すれば記録も、規模も、動くお金も小さいであろう40年も前のオリンピック。
なのに、今以上に輝いて見える。
全ての人が祝福しているように見える。
選手と観客が近く、国の垣根を越えた瞬間がたくさんあるように思える。
これら感想も、そのように演出された映像が生み出す幻想なのかもしれない。
それでも、オリンピックの目指すところはここにあるのだと、あるべきだと、封じ込められた声が聞こえる。
「人類は四年に一度夢を見る」
語られるこの台詞が、幸せで、切なくて。
まごうこと無い、名編です。

冒頭、施設建設のため、破壊され、ならされていく町並み。
走る新幹線が富士山の前を走る。
ここでもう、泣ける。

劇場公開版とディレクターズカットですが、公開版の方が長々としているものの、大作感は強いので、自分の好みはそちらの方です。
あまり大きな違いはないように感じました。

ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン

FINAL FANTASY VII ADVENT CHILDREN COMPLETE [Blu-ray]

測定不能(★評価不可能)
~実は映像が一番ひどい~


 PS黎明期に登場し、ゲーム業界の勢力図を変えたFFⅦ。その後日談をCGムービーという枠で作成した作品。
F FⅦの物語を既知していることが必須であるため、パッケージにあらすじが含められており、懐かしいPSレベルのグラフィックを久しぶりに見ることが出来る。
 その後本編を見ると、暗闇から日差しの下に出た時のよう。あまりのクオリティの違いが眩しく、目眩すら覚える。特に同一カット、同一イメージを現在の技術でレンダリングした映像は、隔世の感を覚えずにはいられない。

 そうして数分見てそのクオリティに慣れてくると、それらが映像として何の意味も持っていないということに気付き始める。
 一枚絵としての、ワンカットとしての映像としては、リアル系のCGとして一つの到達点に達していると思われるが、それは本来手段であって目的ではない。
 カットが組み合わさって、物語や登場人物の感情が描き出されるのが映画という物だが、この作品はその部分をまるで気にも留めていない。
 そもそも、いったいどういう状況なのかを説明するという、最低限の責務さえ放棄しており、画面の中で何が起こっているのかを理解しづらい事この上ない。

 本当に、なぜこのような作品が出来たのだろうか。

 当然だがカメラアングルや、カメラの動き、人物や事物のレイアウトは、物語の中で意味を持っている。たとえばあるキャラクターの顔を撮る場合、上から見下ろして撮る場合と、見上げて撮る場合、正面から撮る場合、横から撮る場合、すべて観客の感じる意味が違う。複雑に絡み合う要素を画面の中で物語にのっとって構築し、連続させていくのが映画である。
 この作品は、潔いほどこの観点が抜け落ちている。
 その場その場で一番格好の良いカメラを置こうという努力は感じる。
 同じようなカメラをさけ、不意をつくような、トリッキーなアングルを探している。また、カメラの動きもあれこれ凝った動きをさせているが、ただ節操がないだけで、「かっこいい雰囲気にしたい」という幼稚な欲求を露骨に感じさせる。
 実はこのようなニュアンスの映像には、非常に親近感を持っている。PS以降のゲーム内映像、黎明期のそれらが、至ってこういった節操ないものだったからだ。
 それまでの2Dの世界から3D空間の演出へと業務の拡大を余儀なくされたゲーム会社。特にその中のグラフィック部門は、与えられた「自由」におぼれて、際限無くカメラを自由に動かした。

 意図のないまま、意味無く、動かしてしまった。

 よかれと思った努力は芯を持たない装飾的な物に過ぎず、何を物語るでもないカメラしか我々にはつけることが出来なかった。
 いまや3Dが当たり前に浸透し、ゲーム会社の各ソフトの映像演出も、随分と意味を持った物になってきている。それが事もあろうにこの作品は、数年前のつたなさを温存し、それをそのまま最高峰の映像に適用してしまったのである。
 つまり、この作品を作った、個々のアーティストの才能を疑う余地はないが、映像をとりまとめ、方針を授けるディレクターが、幼稚な素人だったということだ。
 それを止めることの出来る立場にあった者も、同様に、映画に対してあまりに素人だったのだろう。

 すごい同人作品。

 それがこの作品の本質であり、
 これを最高だと褒め称えるマスメディアは恥を知るべきだし、
 これをシナリオ以外は凄いと言うにわか評論家も同様に恥を知るべきだ。

 これは映画ではない。

 そこに至ることも出来ない、金で出来たがらくただ。
 何よりこれを世に出し、一気に売りさばいたスクウェアエニックスは、非常に優秀な商売人であることと同時に、己の厚顔無恥を証明した。
 そして、一般人の映像に対する無知、鈍感さを浮き彫りにした。

 もはや罪だ。

 このソフトが数十万本売れたというニュースは、
 日本人はろくに映像評価できない豚の集まりだという、
 そういうアドワードを発信しているのだ。

 もはや恥部以外の何物でもない。
 破綻した映像という反面教師として視聴する以外の目的なら、積極的に視聴を避けた方がよい。
 買わないことが、見ないことが、この作品への正当な関わり方だ。

ファイナルファンタジーVIIアドベントチルドレンコンプリート[Blu-ray]

世界の中心で、愛をさけぶ

★☆☆☆☆
~本当に泣ける映画~

名前はとにかく有名でしたがこれまで縁無く、原作も、ドラマも見ず、この映画で初めて内容を知ることになりました。

TVのスペシャルドラマといったクオリティです。
予算や、期間や、クライアントの要望や、そういう制限が全編ににじみ出ていて、それを逆手にとってプラスに変える手腕が、制作者になかった。
そういう、良くある凡百の映画なのだと思います。
手を抜いているわけでないのは感じますが、その分、スタッフの力量のなさだけが目について、みていて寂しくなってきました。

台詞回しや語彙に一瞬惹かれるものを感じたので、原作の方が楽しめるのかも知れません。が、今更読もうと思う意欲も、この映画を見ただけでは特に湧いてきません。

ノスタルジックな雰囲気はよいと思いますが、だからこそ、細部の乱暴さが目について、素直に楽しむことが出来ませんでした。

具体的にいくつかあげるなら。
なぜ二人が恋に落ちたのかが描かれていない。
「なぜ忘れてしまうんだろう……」なんて言っていた主人公が、ぬけぬけと「忘れることが出来ない」とほざく。←ここで殺意を覚えるとともに、大笑いしました。
大切なテープを、まだ人が沢山通るであろう学校の玄関に座り込んで聞く。←自分だけの集中できる場所で聞くでしょ。時間が惜しいなら、せめて立ったままにしてよ。
想い出の場所、体育館に、土足で上がり込んで雨で水浸しにする。←元バスケ部としては激昂もの。誰かこいつを捕まえろ。
致命的なのは、恋人の名前の漢字を、知らない。←これだけは片恋マニアとして許すことが出来ません。よほどのモテ人間でなければ、相手の名前の漢字位、好意のかけ始めに調査必須ですよ!!

こういった、人となりがにじみ出る所に留意せず、補填するように台詞ばかり重ねて。
しかも台詞は、文章で読むのには良いのかも知れないが、語って聞かされるとどうにも陳腐。

二人のやりとりはその時その時のシチュエーションだけを楽しむ、現代的な恋のゲームに過ぎないと感じてしまう。そんな二人に、感情移入は出来ません。

セックスやキス抜きなら純愛?
ひたむきな、継続的な想いが、純愛でしょ?
結局ポケーッとなんもかんも忘れて、別の女と婚約。会社の同僚にも好意を受けているらしい。
ついには今の女連れで旅行。目的地かどうかも分からん、車がエンコして止まった場所で、遺灰をまいてさあ片づけ終わり。←遺灰持ってるのも、納得させるためにはもうちょっと伏線が必要でしょう。

そんな場当たり的な彼は、ただの気持ちの悪いハッピーマニアです。
電車の中で所かまわずべたつくカップルと同じで、はっきりと殺意を覚えます。
空港でわめく彼は、台風の接近を知っていながら、飛行機の欠航を予測することも出来ない、きちがいです。
彼女のことだけ考えていたから頭が回らなかった?
それは、ただ自分が、好意に逃げ込んでいただけの、怠惰だよ。そうやって気持ちよくなってるだけのナルシスト。しかも回りに八つ当たり。それもきっとポーズに過ぎない
あんなん見かけても、誰が助けようって思うもんか。さっさと後を追って死ね、ぼけ。

かように、荒涼と心の荒れる映画鑑賞となってしまいました。
これまで「Armageddon」で泣いた人間は敵だと思ってきましたが、原作を読んで、感情移入が出来ている状態で観たのならともかく、この映画だけで涙を流すような人間も、はっきりと敵視する必要があります。

そして、そういう人が大量にいるのだろうと。
その意味で、本当に泣きたくなる映画でした。

ユリシーズの瞳

 

★★★★★ ~究極のカッティング~

トロイの木馬を考案した「オディッセイア」の別読みがユリシーズとなる。
故郷を追われ、各地を放浪したというユリシーズの伝記に合わせた内容を、20世紀のギリシャで展開する。

ギリシャ最古の未現像フィルムを求めてヨーロッパ各地を彷徨う映画監督。
主人公名が明かされず、クレジットでも「A」としか描かれていないように、個人の放浪を描きながら、その実描こうとしているのは人類の歴史
目撃者であり、根源を探求する「A」は、映画という文化そのもの、「映画の神様」といった存在だろう。

ともかく、映像の完成度が底抜けに高い。
その長回しは、もう、絶望的に、完成されている
この映画を見た映画監督の多くは、自分の限界と理想の達成された世界を見て、メガホンを置いてしまうのではないか。
そもそも映画は進歩の課程で「カッティング」という発明を得た。切ったり貼ったりの編集である。
それは映像のベクトルをそろえ、リズムを作り、心を動かす技術だが、言い換えれば、とてつもなく不自然なことである。
突然視界が切り替わり、別の視点へ吹き飛ぶのであるから。
臨場感や没入感のために、これまで多くの監督が長いカット、つまり「長回し」に挑戦している。だが、それらは明らかな失敗であったり、映画の一部分の一要素として使用される場合がほとんどである。
しかし、この映画ではほとんどのカットが長まわしであり、なおかつ全てが成功している。
長回しで有名な巨匠溝口監督の長回しでさえ、今作と比べればつたない。
 ※これは時代の技術的な制約のためだろうと考えるが。

長回しは、究極のカッティングである。
ただ長いカットを撮ればいいという物ではない。
要素、画面構成、演技、その変遷。全てを把握してなめらかにつながなければならない、非常に困難な作業である。
普通に撮ると、ただのホームビデオになる。常に緊張感と品位を保ったまま、抜きのない瞬間を連続させるのは、これはもう、想像を絶する努力と才能である。
おそらくこの映画を見終わった人には、全編が長回しだったと意識する人は少ないと思う。
長いシーン中の映像全てが、映画的に質の高い画面となっているため、カッティングによるのと同じような、演出された映像として知覚されているからである。
作品の内容との兼ね合いもあるだろうが、この作品を見てしまうと、カッティングの羅列となった映像など、ただの見苦しいつぎはぎのように感じられる。
映画の一つの到達点、正解が、この作品だと、不思議な喪失感とともに断言する。



ハウルの動く城

★★★☆☆
~どこまでも空回り~

鈴木プロディーサーの暗躍なのでしょうか。
「二人が暮らした」
というコピー。
「主人公声優が木村拓哉、倍賞千恵子」
という宣伝文句。
「おばあちゃんの本当の姿は?」
という謎があるかのようなCM、トレーラー。

そういったやり方をしないと、売れなかったのでしょうか?
作品に自信がなかったのでしょうか?

「二人が、くらした」というコピーに関しては、二人は城でほとんど一緒に暮らしていません。
声優に関しては、心配に反して素敵なハウル木村さんでしたが、木村拓哉に惹かれる人がたくさん居る反面、自分のように不安と話題作りに嫌悪を感じる人も居ます。
また、同様に話題のための抜擢と感じられてしまう倍賞さんに関しては、明らかに配役ミスでしょう。
18歳の声は、どうあっても無理があります。そこまでして観客の、ソフィーに対するときめきを抑制したかったのだろうかと考え込んでしまった。
おばあちゃんの正体は、そもそも謎でも何でもない。初っぱなから堂々と登場しています。
裏の裏をかきたかったのか? 三流映画のようなそんなトリッキーな宣伝をして欲しくなかったのです。

この売り方が、とても嫌いだ。

敬愛する職人が丹誠込めて仕上げた工芸品が、テレビショッピングでたたき売りされている感触。
確かに、一言で表すことの出来ない、特にテーマのない内容を喧伝するのには、フックが必要だっただろうと思うけれど、宮崎駿の、ジブリの、待望の新作なのにと思うと、悔しいのです。

作品の内容は、正直プラスマイナスゼロという感触。
原作がそうなのかは未知ですが、話が飛びまくる。
きちんと物語を受け止めることは必要とされていないような表現、はしょり方がいくつも目につきました。
その「とんだ」部分を想像するのは楽しかったですが、うーん……。
反面、物語進行とは大きく関わらない細かなエピソードはてんこ盛りです。そういった生活感を描けるのは、もうジブリしかないと思わせる味わいは、数多く楽しむことが出来ました。
が、それも物語と結びつかない楽しみです。
登場人物の感情が、ちっとも分かりません。
ソフィーもハウルもシーンシーンでまるで性格が違い、一貫性をもって理解することが出来ません。
その場その場で都合の良い彼、彼女に切り替えているだけのように見えます。
千と千尋から頻出するアニメ的な「水玉涙」も、気持ちが伴わないので、寒いほどでした。

やはり、物語の内容、描く事項に比して、時間が足りなかった気がします。
これがTVシリーズであったなら、二人は確かに暮らしたのであろうし、はしょられることのない感情の遷移を感じられたのではないかと夢想するのです。

とはいっても、決まった時間に合わせて表現するのは必要なことでしょう。その視点から考えると、宮崎監督は、描くことの比重をはかり損なったのではないかと思うのです。前作千と千尋でも、千尋の苦労話エピソードが少なすぎたため、「毎日イベント続きの楽しいアトラクションでした」という感触を覚えました。

宮崎監督には、ぜひ今だからこそ、簡便な技術や画質でよいので、テレビシリーズを作って欲しいと思います。内容をきちんと作り上げたTVアニメこそ、今の閉塞したアニメにまつわる諸環境を打ち崩しえるのではないかと強く強く思います。
ジブリなら、宮崎さんなら、きっとそういう形態でも、ペイできると信じたいのです。

細部まで思いの込められた映像。
作り手の皆様には、心から敬意、尊敬の念を覚えます。

しかし、映像は、物語る手段であるべきで、気持ちの良い城の動きも、今作では物語の上っ面を滑り落ちるだけで。
やはりいまだ、監督の最高傑作は「未来少年コナン」だとの認識を変えることは出来ませんでした。

劇場版 とっとこハム太郎 ハムハムグランプリン オーロラ谷の奇跡 リボンちゃん危機一髪!

 ※Amazonの商品リンクです。

★★★★★
~すべての出崎ファンに捧ぐ~

※2012/04/11修正。エイハブ船長とフック船長を間違っていました……。
エイハムはエイハブ船長が直結イメージなのでしょうが、自分にはやはりフック船長の系譜であり、そちらの印象の方が強いです。
まさかこんなところで泣かされるなんて。
まさかハムハム言ってるハムスターに、心臓を握られるなんて。
両足を肩幅に開き、腰を落とし、正拳を一発。

そういう作品でした。
出崎統監督の代表作といっても良いのではないか。
そう感じるほど、温度、密度、完成度、すべてが高い作品です。
53分と短いアニメーションですが、見応えは十分あり、観賞後の満足度は非常に高い。
そう感じるのは場面の「飛ばし」が見事なほど決まっているからで、見せたい場面、意味のある場面だけを数珠繋ぎにしたような印象。
ただ何も考えずそうすると、プロモビデオのような、断片の羅列になるだけです。
それをテンポの良い気持ちの良いつなぎとして的確にやってのけたスタッフの努力と力量。

にじみ出る、子供に伝えようとする楽しさと善意、強い心。
技術と意志が、奇跡のように調和されています。
底抜けに明るいムードの中で、みんながみんな楽しそうに、でもばかばかしい訳じゃない。
一生懸命な子供を優しく見守るような、それでいて、瞬間瞬間に教え諭されるような。
理屈ではない、感覚や感触でつながれたシーンの数々。
いったいどのようにして、あの一瞬を予期し、設計し、作り上げたのか!

夕日に飛び出すシーンに、やられました。
そんなに意味深いシーンではない。
複線もなく、ただ、眼前に唐突に展開されたシーン。
それなのに、魂がふるえた。

人生の謎の一片が、言葉ではなく解けた気がした。
なによりあの一瞬、ハム太郎と一身になりました。

ハムクックは、言わずもがな白鯨伝説のエイハブ船長、宝島のフック船長を連想させ。
魂として、これは「ガンバVS宝島」だと思うのです。
我が人生のマスターピースに出会えたことを感謝します。
制作に関わった皆さん、本当にありがとうございます。

2009年2月3日火曜日

マクロスゼロ

★★★☆☆
~空気感を楽しむ作品~

初代マクロス直前の事件を描いたOVA作品。
マクロスをマクロスたる三種の要素、
「三角関係」
「アイドル(歌)」
「可変戦闘機」
を織り込めながら、宇宙空間に出ることなく全編地上で繰り広げられる物語。

特筆すべきは3Dモデルのレンダリングとして描画される可変戦闘機達のアクロバティックな空中戦。
3DCGになったとたん重みを失い、ぬるぬると軽い動きになってしまうアニメ作品が多い中、マクロスゼロのそれは不思議なほどセルアニメの印象を保っていた。
CG導入により書き込みが精細になったプラス要素だけが強く感じられる。封入のブックレットを見てその理由の一端をうかがうことができた。

通常CGのアニメーション設定では、動きの特徴的な転換点(キーフレーム)だけを設定し、その間の動きは一定の規則に従って自動的に設定される。マクロスゼロではキーフレームだけでなく、すべてのフレームに動きを手でつけて作成したのだという。
アニメ用語でいえば、つまりCGアニメは原画を描けば動画は自動生成なのだが、CGでも動画を設定した、ということになる。

自動で設定される動画は、数学的には正しくとも、感覚的に正しいわけではない。今作のスタッフはCGの定例的な作り方にこだわらず、「気持ちよく見えること」が重要なのだという原則を見失わなかった。それはツールに振り回されず、ツールを御したということだ。

気になる点としては、「3DCG」「セルアニメ」「背景画」の三つの要素がうまく組み合わず、妙な感触になった違和感あるシーンがちょくちょく現れること。特定話数(3話が気になった)のセルアニメクオリティが非常に低かったことが挙げられる。
幾つもの経路を持つ素材を破綻なく発注、管理し、組み合わせて価値ある絵に仕上げるのは、非常に大変なことなのだろう。

さて、物語としてみた時、マクロスゼロは結構めちゃくちゃである。強引で、ご都合主義で、定型的で……。しかし、見終わった後の気持ちよさ、切なくもすがすがしい感触を味わってみれば、不思議と些事に思えてくる。

おそらく、マクロスは理性でなく、感性で綴られる物語なのだ。

細かな点に突っ込むよりも、話に振り回されていつの間にかエンディング。
そうした勢いと、作品の感触を楽しむのが気持ちよい見方だと思う。

どの話数にもきちんと設けられた見せ場。
次話への引き。

OVA作品として、一定の作品価値を保ち続けたバランスの良い作品だ。