2020年10月13日火曜日

屋根


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~イタリア・ネオリアリズムでおすすめの1本~
★★★★

  1956年のイタリア映画。イタリア、ネオリアリズムの代表的な監督の一人ヴィットリオ・デ・シーカによる名編。デ・シーカは「靴みがき」「自転車泥棒」が有名だが今作は不思議なほど評価が低い、というか評価がない。知名度がものすごく低いのである。DVDも出ていないためVHSから落とした映像で鑑賞。

 大戦後まもなくのイタリアは復興の道半ば。住宅の建築ラッシュとなっているが、多くの民衆には手の届かない存在である。
 工事現場で働くナターレと住み込み家政婦のルイザはローマで出会い、まだ結婚は早いという周囲の言葉を振り切って結婚式を挙げる。新居の用意もなくナターレの実家で同居を始めるが、すし詰め状態の暮らしはプライバシーもなく、姉の夫が世帯主となっているため肩身が狭い。ナターレと姉夫との言い合いは喧嘩に発展してしまい、二人は荷車一台分の家財を持って家を飛び出る。自分たちの住処を見つけようと躍起になって探し歩くが、この時勢なかなか良い話があるわけも無い……。
 そんな中、空き地に既成事実として家を作って住んでしまえば、簡単には立ち退きさせられず実質的に定住が可能だと知る。家の条件はきちんと壁で囲まれており、屋根がしっかり乗っていること。その場で押し崩せるようなものでは警官に追い払われてしまうため、煉瓦でがっちりと組み上げなければならない――。
 作業時間は警官の夜のパトロールが終わってから翌朝また訪れるまでの、一晩。
 ナターレとルイザは全ての財産をかけて材料を購入。職場の仲間を募って一世一代の計画に飛び込んでいく――。


 
 ネオリアリズムの特徴は可能な限りセット使わず、また役者を使わない事。実際の場所で演技ではない演技を撮影、そこに生まれる実在感を追い求めていく。もちろん物語もリアルを追い求めたものとなり、戦後の苦しい庶民生活を活写したものとなる。様々な困難に心折れながら、それでも人生はそういうものだとどこかカラッとした生きる力を感じさせる悲劇。絶望の中にひとしずく落ちる希望といった印象の物語が多いと思う。
 今作も主演の二人はじめほとんどの出演者が役者ではない市井の人々であり、セットが使われているのは車の中の撮影くらいであろう。お金も住むところもなく、若さから来る思い切りの良さだけを持つ夫婦の姿にはハラハラさせられ、いかにもネオリアリズム的結末を迎えそうであるが、なんと今作は――。

 「道」「自転車泥棒」などでネオリアリズムの洗礼を受けた後に今作を見れば、その特殊性が非常に分かりやすい。悲劇的なネオリアリズム作品も今作も、描いている主題は人間の営みとそこにある様々な形の愛情だと思う。ツンデレのように悲劇でそれを描いたのがネオリアリズムであるが、ただただ直球のこういった作品があっても良いではないか。
 名画だ名作だと肩肘張らず、ただ「いい映画だよ」と万人に勧めることの出来るとても幸せな作品。
 
 ちなみに数少ないが職業役者も出演しているらしく、いかにも嘘っぽい仕草を見せる意地悪隣人がそうではないかというのが師匠(うちの社長)の見解である。素の反応で登場人物になっている素人達の中で、役者が演じる人物は絶妙の嘘くささを醸し出すのだという。確かに他の登場人物から浮いて見えていた。

 

 

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