2011年9月7日水曜日

少年メリケンサック

~ヤンキーコメディー~
★☆☆☆☆

宮藤官九郎脚本、監督。宮崎あおい主演のバンド映画。
といってもメインのバンドは解散後数十年が経過した初老の集団。解散ライブ映像がネットに出回ったことで、大きな時差を経たブレークとなった。

宮藤官九郎の脚本らしく、登場人物全員がちゃらんぽらんでいい加減。そのくせ自意識とプライドは過剰と、ヤンキー向けの映画だろう。自分には感情移入できる一人もなく、外国のシチュエーションコメディーを真顔で見る気分だ。

この、外国のコメディーというのはなかなか言い得て妙で、日本のコメディーらしからぬ放り投げた感じがそうさせるのだろう。
自分の認識では、洋画、特にアメリカのコメディー映画は回りに迷惑をかけすぎる。主人公が周囲を信じられないような目に合わせて、大変なことになった相手の姿を笑う。
対して日本のコメディーは迷惑が仲間内で収束する。笑いの根本もひどい目にあった人よりも、ひどい目にあった人に逆襲されてさらにひどい目にあう所で笑うパターンが多い。
もちろん完璧に当てはまる決まり事ではないが、結構うなづける点も多いのではないか。洋画コメディーと言わず、トムとジェリーなどの米アニメーションをイメージした方が分かりよいかもしれない。
洋画コメディーの主人公は、回りを気にしない馬鹿で、邦画コメディーの主人公は、回りを気にしすぎる馬鹿だ。

この映画の主人公は明らかに前者である。
傍若無人な振る舞いに悪びれることなく、回りをひっかき回し続ける。迷惑をかけられる方に感情移入してしまう身としては、いらだたずにはいられない。所々に吐く格好いい言葉も上滑りして物語に根を下ろさない。

極力、好き嫌いをのぞいて考えてみても評価は大して変わらないだろう。宮藤官九郎の脚本はフックに富んだ奇抜で興味を引くものだが、監督としてはひらめきを感じない。各シーンで何を描くのかが茫洋としていて、それらをつなげた各シーンもうまくつながらない。ぶつ切れの日記を見ているような、物語を感じられない内容となっている。
脚本と監督は別の才能がいるのだなあという感想。

2011年9月6日火曜日

コクリコ坂から

※リンクは脚本書籍です。

~見ていません~
未鑑賞

見ずに感想を書くのははなはだ卑怯で無意味な行為だと分かっているが、あえて書き付けておきたい。見た上での感想は、いつかまた追記する機会があるだろう。

脚本を宮崎駿が書き、息子の宮崎吾郎が監督をしたスタジオジブリ制作のブランドアニメーション。
ともあれ宮崎駿がかかわり、ジブリアニメであり、ポスターも印象的。恋物語の雰囲気は「耳をすませば」「海が聞こえる」を連想させる。
映画を定期的に鑑賞する層なら、普通、見に行くだろう。自分も悔しいが興味を引かれずにはいられない。

しかし、自分はこの作品を、見てはいけないものだと感じた。

すべての行動は、世界の有様に対して投じる一票なのだと思っている。
選択の自由を持った状態で、多様な特徴を持つ対象の中、どれを選ぶのか。
分かりやすく例を挙げるなら、安くてそこそこの品と、高いが質の高い品。どちらを選択するのかには、その人の生き様、考え方、望む未来の姿が関わる。その品に対するスタンスを知らず決めて示しているのだ。
一人が何を選ぼうが大勢に影響はない、と言うのなら、その人は選挙に意義を感じない人だろう。確かに一人の影響は小さいが、その集積が決定力を持つことも事実なのだ。
この場合、投票されるのは、貨幣だ。
選挙よりも、組織票や自覚がない分、正味の多数決が行われているとさえ思える。一人で何票も入れられるが、毎日毎日選択し、投票する状況で、そのような行為は時間に紛れていく。

僕は、この映画に対価を支払うことを、観客動員数にカウントされることを、拒否する。
この映画に、貨幣という一票を投じない。

なぜなら、宮崎吾郎監督が前作「ゲド戦記」で犯したあまりに大きな失敗と、それを許して再登板させる回りの人間達の判断は、自分が望む世のありようと、あまりにかけ離れているからだ。

なぜ、皆、ジブリに甘いのか。
ゲド戦記を見る前に感じた期待感と、その後の喪失感をそんな簡単に忘れられるのか。
ただ作品を見ただけでも、おもしろくなかったと感じるだろう。宮崎駿作品との決定的な差異を思い知るだろう。
父と子の葛藤、会社組織のいびつさ、経営者と職人の差異。ジブリの内情を知るものは、それがにじみ出た作品に嫌悪を感じてしかるべきだ。

自分は、宮崎吾郎の再登板を許す、許さざるを得ないジブリと、その内情に同情して温かく見守るファンの生ぬるさに、反対の立場をとる。
そうでなくては、輝きを放ちながら時代の波に消えていった幾百の作品達、幾千の関係者に申し訳ないではないか。

宮崎吾郎監督は、完全に親の七光りである。
彼の立場の困難、積み重ねた努力を知ればそんな風にいえなくなる?
否。
本来許されるべき一回のチャンスを、彼は失敗した。

二度目のチャンスがこのような形で許されること自体、七光り以外の何だというのか。