2020年1月30日木曜日

ベイビー・ドライバー

ベイビー・ドライバー [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]
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☆☆☆☆
~一貫して微妙~

 2017年の米映画。カーアクションと無軌道な若者の恋愛を描く。

 ★今回は特にネタバレがひどいですので以降注意願います。★

 
 ベイビーは過去の事故が元で耳鳴りの持病を持ち、それを緩和するために常にヘッドホンステレオでお気に入りの曲を聴いている。
 そのテンポに合わせたハンドリングテクニックで強盗の逃亡幇助をしてお金を稼いでいた。
 本意ではない犯罪への参加に心が痛むが、かつての悪事を盾に半ば強制されている形。それもあと少しで終わるはずだった――。

 描かれるベイビーに好感を持てるかどうかで印象が大きく変わるだろう。
 まず連想するのが「俺たちに明日はない」だが、自分は回りに迷惑をかける陽キャが好きではないので、ボニーもクライドも嫌いだ。二人はしつこいばかりの悲劇的な結末を迎えるので反対に胸がすく部分もあるが、今作は悪さも半端、ラストも半端。
 
 派手なカーアクションも銃撃戦もあり人も死にまくっているのに、不思議と印象としてはコンビニの店員が弁当をちょろまかして怒られて、拗ねて逆ギレで店内で暴れる、ような規模の話である。全体としてまとまっており、視聴後幾ばくかのさわやかさも残る。
 なぜこんな穏やかな印象なのだろうと考えてみる。
 
―――――――――――――――――――
<ベイビーが微妙>
 超絶運転テクニックを持っているという設定だが、その腕前がよく分からん
 カーアクションシーンはきちんとあるが、こういっては何だが映画の世界ではこれくらいの運転、(映画の中では)ただの田舎ポリスでもやってのけるだろう。カメラのアングルや動きで変化をつけているが、やはり地味な印象。
 ベイビーのキャラの位置づけもよく分からない。彼が基本的にイケているのかイケていないのかも分からない。
 鬱屈した人物が特定の技能を発揮するときのみ英雄になる、というのは気持ちが良いものだが、ベイビーはどうやら普段がイケていない設定というわけでもないようだ。行きつけのダイナーで特に何もせずともウェイトレスに惚れられるし、そつなくデートもエスコートしているようで、どちらかというとイケてる方なのだろう。
 善人かどうかも不明。なんか行きがかりで悪いことをしているが、殺人自体はおかさない実はいい人といった風に描かれているが、以前は自主的に車泥棒しているわけで、充分悪辣。直接では無いにせよ、車をとられて人生崩壊し、あるいは命を絶つ人がいたとしても何ら不思議ではない。車泥棒って、結構きついよね。
 そんなキャラクターが多少苦労しても納得だし、とんでもない目にあって、やっと帳消しのようなものだ。

<他キャラクターも微妙>
 台本の役を演じているんだなという雰囲気。
 バッツというともかく人を殺しまくるイカレキャラクターが出てくるが、イカレオーラがない。自己紹介時に「一番いかれてるのは自分だ!」と叫ぶ中肉中背の黒人キャラで、大学デビュー的な見栄張りお笑いキャラだと思うでしょう。明らかにミスキャストだ。
 まんま「ボニー&クライド」のダーリンとバディもごっこ遊びをしている恋人たちにしか見えない。狙ってそうしているのだとするとしてもなぜそうしたのか見終わっても分からなかった。
 ことの元凶である依頼人ドクにしてみても、言動の一貫性がなく生きた人物には感じられない。

<音楽が微妙>
 音楽に乗せたドライビングテクニックは売りのはずなのだが、印象に残らない。
 その道では有名な名曲なのかもしれないが、聞いたことのないさまざまな曲を細切れに聴かされても心は動かない。
 作った本人だけが納得する使い方で、視聴者のことを考えていないと思う。
 
<結末も微妙>
 幸せに暮らしましたとさ……、といった昔話のような終わり。
 さまざまな疑念や納得のいかなさを「幸せになったんだからいいじゃん!」の一言に放り込んだ雑な印象。
―――――――――――――――――――
 
 上記の様な「乗れなさ」から、結局人ごと感が強いままエンディングを迎えるので穏やかな印象なのだろう。
 この作品、結構評判が良いように聞いている。
 
 いわれ無き理由からネガティブ環境に放り込まれた善良な若者が、両思いの恋人とその環境から脱出しようとする。
 それに失敗して罪を問われるが、小さな善行を社会が認めてくれて罪を軽減してくれた。
 恋人が待っていてくれてハッピーエンド。
 
 素直にこう捉えることが出来る人には、当たり障り無い内容の良作といえる。
 気軽に楽しめる映画のラノベという雰囲気なのかな。

 

盾の勇者の成り上がり


 ★★★☆☆
~序盤のおとしめっぷりが凄く良い~


 小説投稿サイトで人気を博した作品を原作としたアニメ。2クール25話で構成されている。
 

 図書館でとある本を手に取った尚文(なおふみ)は異世界に送致される。
 そこでは「盾の勇者」として扱われ、他に同じ境遇の剣、槍、弓の勇者と邂逅する。話してみるとどうやら他の三人にとってこの世界はメジャーなネットゲームの世界そのものであり、異世界ではあるが世界に対する理解度は非常に高い。ところが尚文の世界ではそのようなゲームは存在せず、どうやら異なる世界から召喚されたようである。
 召喚主である国王の態度も尚文、盾の勇者にだけ厳しい。事ある毎に他の勇者と差別され、格下扱い。
 それでも何とか仲間を見つけて救世の冒険出でようと張り切るが、さらなる虐待が尚文を待っていた――。

 異世界に召喚されて~の基本に忠実なカーボン紙作品かと思いきや、序盤の主人公に降りかかる虐待ぶりが他では見られない強烈さ。また、この世界では剣・槍・弓・盾の四人が勇者として召喚され、それぞれが共闘者でありライバルというのも特徴。決して仲良しではなく、むしろ険悪な関係。
 総じて他の異世界転生無双勇者作品と比べて苦戦や苦労が多いので違った気分で見る事ができる。虐められて拗ねまくる主人公は、手段を選ばないダークヒーローとして成り上がっていく。その心を癒す存在と出会い、性格が改善されていくのも見所。
 拗ねる気分というのは、ダークヒーローに繋がるのだなあと発見。悲劇の主役なのだな。
 
 悪辣な罠に落ちて周囲から嫌悪されることとなった尚文が成り上がる過程がおもしろいのだが、その目標は中盤程度で達されてしまう。
 物語の規模が徐々に拡大されるため悪役が相対的に小物になっていき、尚文の力がそれを凌駕してしまうのだ。こうなってしまうと成り上がりの面白さはなくなり、あとは他の救世物語と似たり寄ったりになる。ダークヒーロー感もぬるくなる一方なのだ。
 原作によるものと思われるが、抱えていた血肉の通った「描きたいもの」は「虐められてそれをやっつける」事だったのだろう。それ以降は散らかった登場人物、てこ入れ的な女性投入、その場その場ののりで進むうちわノリが目立つようになり、つまり、良くあるなろう系になる。大雑把に言うと、適当な感じである。
 ダークヒーローっぷりで差別化されていた尚文も、「やれやれしょうがないな」系のよくある主人公になってしまう。
 
 アニメーションは一定のクオリティを維持しているが、文章を映像に変える部分でうまく変換できていない部分が多々。
 文章で楽しめる内容をそのまま映像にするとまるでバカらしいシチュエーションになる事は結構多い。後半の重要な戦い、大きなクレーターの中で敵と対峙するシーンがあるのだが、早くその穴から出れば良いのに、ただただその中で敵と戦う。なんだか敵も味方もバカみたいに見えてしまう。
  これなどは「すぐ出れそう」という印象が強い映像が違和感を演出しているのだろう。同様に、位置関係や切迫感が伝わってこないシーンがとても多い。
 
 25話で構成されているため、物語のテンポ、量は丁度良い塩梅に調整されており、何よりとても区切りの良いところまで描いて終わっている
 原作はまだまだ続いているようで、アニメも続編の制作が決定したとか。
 ただ、25話でさえ中盤以降は蛇足的なので、今後についてはさらに長大な蛇足になってしまうのではないかという危惧は消えない。

2020年1月21日火曜日

氷の微笑

氷の微笑 [Blu-ray]

評価不能
~そのシーンを削るか!!~
 
 1992年の米映画。「ロボコップ」「スターシップトルーパー」でおなじみポール・バーホーベン監督の劣情サスペンス。
 午後のロードショーで見たが、体感出来る範囲でカットによる欠落が多いので評価できないとした。

 
 ナイトクラブ経営者が自宅ベッドで殺害。情事のあとの殺人のようで、真っ先にその恋人だったキャサリン(シャロン・ストーン)に容疑がかかる。
 担当となった刑事ニック(マイケル・ダグラス)は相棒と共に捜査を開始するが、キャサリンの奔放な言動とその美貌にベテランならではの判断力も影響を受けていく――。

 魅力的な悪女に巻き込まれて自分のスタイルさえの見込まれていく恐怖と快感。
 その必然性に圧倒的な説得力を与えたのがシャロン・ストーンの画面からほとばしるエロさ。
 特に有名なのは尋問にかけられ、男たちの前で質問を受けるキャサリンがゆっくりと、見せつけるように足を組み替えるシーン。男どもは鼻薬ならぬピンクのカーテンを目前に貼られてどぎまぎ状態。
 さすがの午後ローはなんとこのシーンをトリミング! 足を組み替える膝辺りしか見えずに全然エロくない。R-15指定なので該当部分が処理されたのだと思われるが、それならこの映画を放送しなければ良いのにと思わずにいられない。
 
 それを差し引いてもこの映画自体、時流の先端に乗った勢いで見るべきものなので、今見るとキャサリンの時代に合わせた風俗的な魅力は薄まっている。その目隠しが効いていない分、設定や展開のぞんざいさが目についてしまい、バーホーベン監督の野暮ったい演出も気になる。
 昔見た当時は誰が犯人なのか考えたりしたが、今見ると適当な演出の結果良い感じで眩惑が生じていたのだなと感じる。
 これは要素のバランス、その駆け引きによって成立した均衡ではなく、どちらかの推論はもう一方の推論を完全に否定できない情報しか出ていないことと、最後に後先考えないイメージシーンが挿入されているから生まれた眩惑だということ。
 このポール・バーホーベン監督、作品の最後に監督なりの見解(どんでん返し)を入れるのが大好きなのだが、脈絡がないのでどうも一般に理解されがたいという特性を持っている。
 「スターシップトルーパー」では、映画全体が戦意昂揚のためのプロパガンダだったという事になっている。
 「トータル・リコール」では、最後のホワイトアウトが夢からの目覚めを示唆し、冒険すべてが夢だったことになっている。
 本作ではそれがベッド下のピックで、ならばこのあとどうするねん、という当然の疑問は無視した雰囲気シーンだと言える。
 
 ついでに書き上げると、午後ローはともかくシーンカットの量と大胆さがすごい。
 この映画でいうと通常版で123分。このうちスタッフロールが5分とみても118分。2時間のうち7回CMがあるとして、1回に2分とすると正味の放送時間は106分。12分はカットされている計算になる。10%程度。少なく見積もってもこれだ。
 このような放送で★をつけられるのは実に製作者としては不本意だろうと思うが、見る人にとってはそこまで意識は回らず判断するだろう。
 地上波の無料放送で見る映画など、基本無料ゲームの無課金プレイヤーと同じで、本来の楽しみの枠外にあるということなのだろうか。
 
 自分は誰かのチョイスによってかってに放送される映画を見るのが好きだ。
 能動的な選択は自分の趣味に偏ってしまう、それをある程度紛らわしてくれるのがテレビ放送だと捉えている。
 かつてテレビで見てきた放送も、カットされて当たり前の状態だったと思うが、ビデオなりでノーカットを見てシーンが増えていた事に喜ぶことの方が多かったと思う。作品の成り立ちに関わるようなシーンのカットは行わず、意味を通しつつ時間は削るという職人芸が行われていたのだろうか。
 
 今、こういった放送は誰が、どのような覚悟でカッティングしているのか、その辺りの事情をぜひ聞いてみたい物である。
 

2020年1月16日木曜日

億男

億男 豪華版(特典Blu-ray付Blu-ray2枚組)

 ☆☆☆☆
~逆ナンの宗教勧誘~

 2018年公開の邦画。映画プロデューサーでもある川村元気のヒット小説(2014年)を原作としている。
 

 迂闊にも兄の借金の保証人となり3000万の借金を背負った一男。図書館司書と工場ラインの仕事を掛け持ちして何とか借金を返そうとしているが、道のりは果てしない。
 妻はまだ離婚はしてはいないものの一人娘と共に出ていった。借金さえ無ければ元の幸せな家族に戻れるのに……と一男は信じているが、妻の心持ちはそう単純では無さそうである。
 そんな苦しい生活の渦中で一男は宝くじに当選。3億円を突然手にするが、どう使えば良いか分からない。
 今は没交渉になったが大学時代の親友で大富豪となった九十九(つくも)のことを思い出し、アドバイスを求めるが、何と九十九は3億円を持って姿を消してしまう。彼と、彼の持つ3億円を追って、一男は九十九と繋がりの深いさまざまな億万長者の証言をたどっていく――。

 登場人物の心情や物語のつじつまよりも作者の啓蒙欲求を主体としており、「お金についての私見を述べるための設定としての物語」だと言える。「ソフィーの世界」「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」のようなやり方といえば分かりやすいかも。これ自体は書籍を読む敷居を下げる効果が大きいのであり得ると思うが、これを原作にして映像化した場合、多くの視聴者は物語体験こそを欲求しているのだがらミスマッチが起こる。
 主たる目的が「お金って何やねん」に対する作者の意見発表なので、展開は非常に寓意的で絵本のよう。導入部分などは倒置的演出を使用してそれなりにドラマチックなのでまともなドラマを期待してしまったがどんどん化けの皮がはがれていく感じ。テーマが鼻につく映画というものは多いと思うが、最終的にテーマしか存在しなくなる映画というものはそうそう無いのではないだろうか。物語要素はほとんど無意味に剥落していくのである。
 砂漠に行くのも、落語をするのも、図書館司書なのも、オークションサイト開発も、すべてそれぞれの小ネタに使われるだけで、全体の繋がりのちぐはぐ感がすごい。食材の味が混ざっていない感じ。
 かわいい女の子に逆ナンされて喜んでついていったら宗教の勧誘だったというのが近い。フックに特化しているのはさすが映画プロデューサー。
 
 それでも序盤は失踪した人物を追い求める展開が魅力的で、またそこで出てくる人物たちのアクがすごい。これは原作によるものなのか、演者によるものなのか、北村一輝の演じる超優秀な元プログラマ。セミナーを開催し、教祖然とさえしている元CEOを演じる藤原竜也。この二人の演技を見るだけで中盤までは充分楽しい。

 映像化の折に物語り部分もきっちりと詰める努力をすべきだったのではないかと強く感じる。

 あと、ともかく3億当たって使い道に迷う前に、借金の三千万円はまず返してから考えると思う。いわゆる「どん判金ドブ」過ぎ。

宇宙戦争

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 ☆☆☆☆
~ただそこにあるだけの映画~

 2005年の米映画。宇宙人襲来に伴う騒動を戦闘では無く市井の人々のパニックを主体に描いている。
 原作はSFの父、H・G・ウェルズによる1889年発表のSF小説。
 映像化の回数も多い古典的な名作をスピルバーグ監督はどう扱ったのか。
 

 港で巨大クレーンを操作する仕事に就くレイ(トム・クルーズ)。元妻は離婚後すでに再婚しており、引き取られた息子と娘が定期的に訪れるが、それも失念したり、扱いが雑で嫌われがち。
 元妻から子供達を預かったその日、とてつもない雷が町に降りそそぎ、電気製品が一斉に使えなくなる。様子を見に家を出たレイの前に、地面を引き裂いて巨大な機械が現れた。機械は光線を放ち、人々を塵に還元していく。
 侵略は世界で同時多発しており、人類に反撃の希望が見えないまま、レイと子供達は町からの脱出を余儀なくされる――。

 2005年当時は輝いていた宇宙兵器の映像も、今見ると見慣れたクオリティに過ぎない。
 見た目のブーストが剥落した状態で鑑賞すると、色々中途半端な駄作と言わざるを得ない。フューリーと同じく「この映画は何なのだろう」である。虚無である。
 
 そもそも主役がトム・クルーズである事が、すでに色々あきらめている。港湾労働者の駄目親父をトムに演じさせてどうするつもりだったのだろうか。彼からにじみ出るスターのオーラは完全に「陽」のもので一挙手一投足が設定を拒否し続けている。
 想像してみて欲しい。もしレイを演じたのが我らがニコラス・ケイジだったとしたらどうだったか? 少なくとも序盤のちぐはぐさは無くなり、駄目親父がそれでも子供のために奮戦する様子が、もっと親身に感じられたのではないだろうか。
 たしかに映画の雰囲気は一気にB級感に沈むので、売れたかといえば――。
 
 他に心に残るのは子役としてダコタ・ファニングが演じるレイの娘のうっとうしさ
 ダコタはさまざまな監督、俳優から絶賛される名子役とのことだが、確かに事ある毎に金切り声を上げる姿は演技と思えない腹立たしさ
 真に迫った演技と言うことなのだろうが、そのうっとうしさが今作で重要かといえばそんなこともなく、不必要な方向に才能を発揮して映画の不快度をさらに上げているだけだ。良くも悪くも、映画の力を強化する力を持っているのだろう。
 
 とまれ全体から「こんなもんでしょう」という空気が漂い、本気で作られていない感が強い。少なくともスピルバーグは手癖で流している
 「急遽空いたトム・クルーズのスケジュールに合わせて突貫で作られた」「スピルバーグが次世代の映画撮影手法の実験として作った」などといわれているが非常に納得できる。
 
 ただ、本気で無くてもこのクオリティの大作をぽんと生み出せるハリウッドの映画制作システムは本当にすごいなと、その懐の深さに感銘を受ける。


 

2020年1月9日木曜日

フューリー

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☆☆☆☆
~ヒーローなんてこんなもの~

 2014年の米映画。二次対戦終盤のドイツ戦に投入されたアメリカ人戦車兵の奮闘を描く。
 

 1945年4月の連合軍ドイツ侵攻に加わるシャーマン戦車「フューリー」の戦車長ウォーダディー(ブラッドピット)とその部下たちは激戦の中副操縦士を失う。補充として送り込まれたのはタイピストとしての訓練しか受けていない新兵ノーマン。
 激戦を生き抜いてきたウォーダディーたちにとってはきれい事ばかりの役立たずにしか見えないが、戦力にしなければ生き残れない。
 強烈な先輩兵士と戦争の実体を目の当たりにしたノーマンは――。

 戦車兵たちの物語なので車内の映像が多い。狭い事は狭いが、多少身動きは取れる生活空間としての車内は目新しいシーンだ。
 ドイツ軍ティーガーVSシャーマンの戦車戦も泥臭い現場の混乱が表現されていてこれまでの戦争映画には無い角度の現実味を持っている。
 撃ち合う砲弾の威力とそれをともかく装甲で弾いて生き延びる鋼鉄の塊といった表現は、斬る、避けると行った侍の立ち会いでは無く、切れ味関係ない巨大な鉄の剣で撲殺しようとする雰囲気。メル・ギブソン主演の「ブレイブハート」の戦闘シーンを連想した。
 
 個別のシーンや演出ではおっと思わせる部分が散見されるが、全体とすると「この映画は何やねん」という不満の方が勝る。
 
 ポスターには「たった五人で、300人のドイツ軍に挑んだ男たち。」といったコピーがおどる。これと戦車のビジュアルを重ねると卓越した作戦で戦車戦を展開するんだろうなと期待する人が多いだろう。まあそういうふうに宣伝を展開していると思う。ところが実際見てみると……。
 地雷を踏んで立ち往生した状態で会敵。しかも相手は数こそ多いが装甲車と歩兵程度。大破した戦車を装って息を殺して待ち伏せ。敵部隊を充分ひきつけたあと大砲と機銃による奇襲を敢行――なのである。
 ええ……、(もちろん的外れな意見だが)ちょっと卑怯すぎない?
 ドイツ兵たちは猛烈な弾幕の中決死の覚悟で前進し、戦車の背後に回って対戦車弾を撃ち込んだりするが、固定砲台と化したフューリーは苛烈な射撃でそれを防ごうとする。それでも特攻するドイツ兵たち。それを戦車の中から撃ちまくり殺しまくりの米兵。
 何というか、ドイツ兵を主役にした方が盛り上がりそうだ。
 
 とはいえ史実にもとづいた脚本なのだろうから、他のノンフィクション映画と同様、盛り上がりきらないのは仕方あるまい……、と思ったらこの映画なんと純粋にフィクションだった。
 ええ……、ちょっと話が微妙すぎない?
 狂気に巻き込まれる新兵の話としても、実動戦車を使った戦車戦ものとしても、戦場の仲間との友情としても、護国の英雄ものとしても、すべて中途半端。一体この作品は何のために作られたのだろうと困惑しながら見終わることになる。
 
 こうなると監督の手腕の無さが最も疑われるが、どんな角度から見ても中途半端で整っていないのが現実だよ、という事を示したかったのだとすれば、ある程度成功なのかもしれない。英雄なんていないよ、ということか――。にしても、お金と時間かけてやることではない関わった人たちの時間がもったいないよ。終端として、それを見た人の時間もね。