2020年5月29日金曜日

エクスマキナ

エクスマキナ -APPLESEED SAGA- [Blu-ray]

 ★★☆☆☆
~もう少し情念を見たい~

※2008年以前の感想に追記したものです。

 全ての画面要素をCGで描いた2007年の。CGアニメ。原作はマニアックな注釈欄外や何より「攻殻機動隊」で有名な漫画家、士郎正宗。
 前作CG映画「アップルシード」で確立した、漫画キャラに近いテイストのCGキャラクターをそのままに、モブシーンや話の規模、舞台をパワーアップ。――が、不思議な事に映画のスケール感はダウン
  
  前作は一つの都市が壊滅して行くさまを描き、今作は全世界の壊滅までスケールを広げているが、残念ながら舞台の拡張が個別の描写密度を薄めてしまっている。また、前作は実際に都市が破壊されて行く中の作戦が描かれていたが、今作は言うなれば世界を破壊する爆弾の解除を目指す物語。切迫感に欠けてしまうのも仕方がない。

 物語自体は丁寧に作られており、キャラクターの心情も分かりやすい。画面演出にばかり注力した、話が成り立たない凡百の作品と比べれば遥かに良心的。人物配置が秀逸で、脳以外機械化された男。その男の遺伝子から生み出された生身の男。そしてヒロインの三角関係。女一人に男二人の黄金律。機械化された男とヒロインは男がからだを失う前からの恋人同士。このプロットだけで様々な展開を想像できる。

 精神的な記憶と、肉体的な記憶。
 精神的な愛と、肉体的な愛。

 本来不可分であるはずの肉体と精神を別のパッケージにして選択させようとする。人間存在や自己認識の崩壊にまで連なる深遠な問題定義だろう。

 おしむらくはヒロインの葛藤が浅薄な範囲に終わってしまったこと。少し揺らぐが、結局は過ちをおかすことも無く「正解」を選ぶ。もっとエロティックな展開を期待してしまうのは、下劣だろうか。

 満たされない性欲に身もだえ崩れ落ちて行くヒロイン。
 どろどろになった情念を、このCGアニメーション、このSF世界で見てみたかったと思うのだ。

2020年5月28日木曜日

逆襲のシャア

 

 ★★★★
~望んでいた物語~
※2008年の感想の調整版です。

 機動戦士ガンダムのライバルキャラクター、アムロとシャアの決着を描いた劇場版。

 短い尺の中にぎっしり要素を詰め込んだ、月餅のような物語。
 シリーズ第一作「機動戦士ガンダム」に歓喜したファンは続編シリーズ「機動戦士Zガンダム」に少なからぬ失望を覚えた。ヒーローであったアムロとシャアが、社会の常識に押し潰され、窒息しそうになっていたからである。

 今になって考えてみれば、あれほどの事を成し遂げた人物が、その後も自由に生活できるはずはないだろうと想像できる。世の中から無責任な関心を寄せられ、また、自分の言動の影響の大きさを認識した人物が、どうにも煮え切らない生活を送っているのはありえることだ。そういったしがらみに捕まった「大人」を尻目に新たな主人公が情熱で駆け抜けて行く、という構成なのだろう。だが、かつてのヒーローの情けない姿を見るのはファンにとってうれしいはずもなく、見たかった続編はあのような物ではなかったのだ。

 そこに、この逆襲のシャアである。

 Zの流れを引き継ぎつつ、葛藤を乗り越えて再び自分に立ち戻った二人のライバルが、卑怯や弱さを包含した大人として、対峙しなおしている。
 シャアの野望を食い止めようと立ちはだかるアムロ。それぞれに正義があり、悪がある。これぞ大人の戦いだ。

 この物語にも、当然この時代の若者が登場する。が、それは二人のヒーローを揺るがすことは出来ない。事情を理解しきれぬまま、決めつけの狭小な自意識でヒーローにちょっかいをだす、邪魔な存在として描かれている。(少なくともそう感じてしまう)
 大人は大人の立場で、子供の小賢しさを無視するのだ。Zとは異なるこの態度が、とても頼もしい。

 そのような二人の戦いは、まさにこれが見たかったと体震えるものだ。今だに共通の女性に心捕われている姿は、情けなくもあり、切なくもあり。だが、そういう二人が、僕は(おそらく僕ら、は)好きなのだ。

 ラストをファンタジー気味に強引にまとめるのは賛否あるだろうが、世紀のヒーローの結末としては、華やかでいいのかもしれない。

 見直してやはり思うのは、

 ・シャアのロリコンが、全ての元凶
 ・チェーンかわいい

 そして、平民代表ブライトさんがシャアに言わせた言葉、
「やるな。ブライト」
が心に残る。

2020年5月25日月曜日

風立ちぬ

風立ちぬ [Blu-ray]

 ★★★☆☆
~創作という呪われた性(さが)~

 2013年公開のアニメーション映画。監督は宮崎駿。
 

 子供の頃から飛行機を作ることを夢見る堀越二郎は第二次世界大戦に向けて緊張の高まる中、飛行機の設計者として才能を開花させていく――。 

 まず、ここまで宮崎駿がパンツを脱ぎ去って自身をさらけ出した作品は、「未来少年コナン」以来初めてではないかと思う。
 コナンの時(宮崎氏37才。既婚)は、それまで自由に創作できず鬱屈、堆積したオタク願望を脅威の熱量と圧力でダイヤモンドに変質させた。その鮮やかさ、さわやかさに目を奪われるが、やりたいシチュエーションを出し切り、行きすぎて変態的な領域に突っ込んでいる箇所も多い。もちろんそれが良い!
 未来少年コナンは「原作あり」だが、初の宮崎駿が好き勝手につくったオリジナルアニメーションだと思っている。
 
 その後彼はたくさんの作品を生んでくれたが、確実におもしろい作品でありながら、「ナウシカ」や「もののけ姫」でさえどこかきれい事と感じていた。最大の理由は自分が年を取ったことだろうと思うが、何らかの窮屈さが宮崎氏にもあったのでは無いだろうか。
 何のために、誰に向けて作品を作るのか。
 彼は常にそれを大前提に物を作っているのではないかと思う。作品は自分の思いをただ叫ぶものではなく、社会に接続され時代の中で立ち位置を獲得するものだという意識。これは盟友、高畑勲監督から薫陶されたものかも知れないが、そういう作家なのだと思う。
 どんなに気楽に作ろうとしても、彼の作る作品はただのエンターテイメントではいられないのだ。良くも悪くも。
 
 そんな彼が、久々にとうとう好き勝手につくったのが、この「風立ちぬ」なのではないか。
 これまで積もりに積もったたくさんの思いを、コナン同様周囲に斟酌せずに一息に吐き出そうとした作品に思える。
 
 「風立ちぬ」は、物作りに取り付かれた男の、どうしようもない性(さが)を描く物語で、宮崎監督の私小説のようなものだ。
 失敗したり、恋に揺れたりしながら、それでも結局物作りにしか魂を捧げることができない。
 物作りのために、たくさんの人をないがしろにして、それでも価値があるのだと信じたり自分を丸め込んだり。
 結果たくさんの後悔と、先達たちとの共感、すがすがしさに救われたり、絶望したり。
 作った物の価値は時代に呑まれて転倒していき、それを目の当たりにしながらも、のめり込んでいく。
 
 飛行機づくり以外について、二郎は結構場当たり的だ。
 分かりやすいのが恋。
 宮崎駿の演出は登場人物の感情に伴って具体的に容姿を変化させる。ナウシカやラピュタでお馴染みなのが、髪が逆立つ演出。まさに怒髪天を突く。
 今作で注意すると興味深いのが、瞳の輝き。人物の心がときめいたときに、目がウルウルと輝いている。
 二郎が奈穂子と出会うシーンで、奈穂子は一目で二郎に憧れている。反して二郎が奈穂子にきちんと恋するシーンはどこなのか。それが、二郎の証言と合致しているのかどうか――。
 終盤、二郎の元を去った奈穂子を二郎は追わない。飛行機についてはあんなにも必死に食らいついた二郎が、奈穂子には冷静なものだ。
 
 だから奈穂子は、そういう男と知りながら惚れてしまった女は、一心に愛し尽くしても自分のものにならなかった男の魂に、呪いをかけるのだ。
 最後の彼女の台詞「生きて」は、絵コンテの段階では「来て」だったのだという。このシーン、二郎の心象風景であるのだから、結局彼自身の言葉といっていい。
 好きなことをやりきった男に女が優しく「来て」なんて、なんて甘ったるい結末だろう。完成した映画は「生きて」となり、続く二郎の「ありがとう」は「甘やかさないでくれてありがとう」なのだろう。
 自分は「来て」の方が好きだ。こちらの方が宮崎監督の全裸だと思うから。
  
 ふと目をあげれば廃墟であり、夢の跡形であり、愛していた(と思っていた)人の残像――。
 
 物作りに関わり、狂ったように専心した経験を持つ者にとって、この映画は大筋として理解しやすい内容ではないか。
 熱中するときの幸福感。世界と歯車ががっちりかみ合ったと感じる自身の拡張感――。
 そして、そのために二の次になっていった愛する人や物。それに対する反省を含まない悔恨の思い――。
 理屈で理解というより、心当たりがあるのだ。
 
 劇中最初から最後まで登場するカプローニとの異世界対話についても、心当たりがある。
 創作活動を続けていると、他の作品に強い共感を感じる事があるのだ。
 なぜそういう形になっているのか。なぜその選択をしたのか。
 そういうことが分かる作品がある。まさしく作品を通じた創作者との対話だ。
 作中の描かれ方では、二郎はカプローニと終生共感を保持しているが、これは幸せなことだろう。
 二郎の思いはずっと同じ方向を向いており、一途だったということだ。
 
 カプローニは、夢の中で語る。
 
 「飛行機は美しい夢だ。設計家は夢に形を与えるのだ」
 
 この言葉は創作全てに当てはまるだろう。
 映画も、小説も、音楽も、ゲームも――。
 素晴らしい輝きを感じる方向に、手を伸ばし、具体化して手元に引き寄せようとする行為だから。
 
 この映画も、無論。
 
 美しい夢だ。

2020年5月1日金曜日

サマータイムマシンブルース

 サマータイムマシン・ブルース [Blu-ray]

 ★★★☆☆
~最小で最笑のタイムマシン物語~

 2005年公開の邦画。タイムマシンを題材にしたSF青春物語。
 

 夏。大学の人気のない運動場で五人の男と一匹の犬が野球っぽい競技に躍起になっている。
 それを一眼レフで撮影している女性は、絵にならない被写体の何を撮っているのか。
 彼らはまったくSFを研究しない「SF研究会」の面々であり、一緒の部室を共有しているカメラ部員である。
 野球の後、銭湯に行って汗を流し、またいつものように部室のクーラーのスイッチを入れる。
 何の変哲も無い不毛な夏の日々に、わずかな違和感が積み重なっていく。
 そして、タイムマシンが現れた――。

 人生の夏休みの、さらに夏休みを過ごすバカな男たちとそれを眺める女たち。
 何か普遍的な構成を感じるが、ともかく男たちがバカである。
 バカなのだが、きちんと方向性の異なる個性的なバカが、自分の役どころを持って集会している状態なので強烈なお約束とノリでドンドコ会話が繋がっていく。まるで吉本新喜劇。
 このノリがダメな人にとってはもう耐えられない映画だろうが、楽しめる人にはバカだなあと笑っていられるし、それなりに人情話がおり混ざってきて最後は何となく丸く収まる。感動的でもある。
 
 タイムマシン物の宿命として、この作品にも「下手すると世界や宇宙がやばい!」という展開はあるが、冒険規模はこれまで見た中で最小規模であり、もちろんそれを狙っての作りである。焦点となるのがなんとクーラーのリモコン。これを軸に100年以上にわたる因縁を解きほぐしていくのだからすごい。

 話がややこしくなるのは仕方がないが、なんとか飲みこむことができる。起承転結の「起」にたっぷり時間をかけて準備したからこそだと思うが、それでも全然物語が進まない「起」は長すぎるだろう。タイムマシン物を宣言しているから前準備として許容されるのかな。沈むと分かってるタイタニックのように。

 舞台が限られており、これは演劇に向いているかもと思ったが、実際は2001年の舞台を原作として映画化されたものなのでそりゃそうだった。このややこしい話を舞台で説明するのはまた異なる技術、トリックが必要だろう。一度こちらも見てみたいものだ。

 
 

パッセンジャー

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★★☆☆☆~SFの「眠れる森の美女」~

 2016年公開(日本公開は2017年)の米SF映画。
 

 星間航行とコールドスリープが現実となり、他惑星への植民に邁進する時代――。
 機械技術者のジムは「部品ユニットの交換」しか仕事のない地球に辟易し、自分の修理技術が役に立つ不便な植民星の暮らしに憧れて5000人の冬眠した移民者をのせたアヴァロン号に乗り込んだ。移民惑星に到着する直前に目覚めるはずが、なぜかジムだけが全行程120年のうちまだ90年も残した時点で起こされる。再びコールドスリープに入る事はできない。
 完全自動化した豪華宇宙船の中の何不自由ない暮らし。だが、とてつもない孤独の中、ジムは一人の美しい 乗客に心を奪われる。眠りにつく彼女を眺めるジムの中で一つの考えが形を持ち始めた――。


 分かりやすく考えると、これは眠れる森の美女のイフストーリーである。
 国中が眠りについた王城に王子は現れず、代わりに下働きの青年がただ一人目を覚ましたら……。
 青年は王女だけを起こし、二人だけの国で恋をはぐくもうとするが、嘘はいずればれる。
 
 これは、おとぎ話なのだ。
 
 そう考えれば、宇宙船の設定もざるのようなSF設定や展開も許せるのではないだろうか。
 夢のように美しい世界がSFの世界観で構築されている。
 巨大宇宙船は螺旋状のアームを美しく延ばし、回転を続けて重力を生み出している。船内は広大な空間を擁し、巨大ショッピングモールや高級ホテルがそのまま収まったような豪奢。機械ではあるが召使いがあらゆる要望を見たし、宇宙を見ながらの水泳も、宇宙遊泳だって可能だ。
 そこに、本来なら言葉も交わさなかっただろう二人。
 
 これがちょっと古めの手書きディズニーアニメで描かれていたなら、誰も疑問を挟まなかっただろう。
 ただ、この作品、見た目はとてもリアルなのだ。そつないクオリティで実写的である。
 なので、視聴者は現実感の線引きを「リアル」よりに理解してしまい、従ってばかばかしい内容だと切り捨てられてしまいがちだろう。
 作品内の「嘘」と「リアル」の線引き。
 これが見た目のリアルさに引っ張られるのだとしたら、昨今は見た目のリアルさに応じた現実的な、細かな設定の物語しか作れないことになる。これはこれで非常に窮屈だ。
 リアルな見た目で、どう「おとぎ話」を宣言すれば良いのか?
 
 答えなど持たないが、一つ心当たりとしては、「リアルな質感」で「リアルではない(見たことのない)」物をえがく手段があるのではないか。例えば今作では人間に見まごうアンドロイドとまるで2000年以前に夢想した分かりやすいロボットが登場するが、それぞれは明らかに人間とロボットである。ここに「マスク」のようにグニャグニャと表情が大袈裟に変わる人間のようなロボットがでてくればどうだろう。アナ雪のオラフみたいな感じの。こいつがおちゃらけ役でも真面目な役でも変わらない。そうすれば、そういう物が許容される作品なのだと理解し、それ前提に物語を楽しむことが出来る。
 ※星間宇宙船も見たことはないのだが、「リアルな見た目のリアルな景色」なので現実感を固めるようにしか働かない。
 
 ――まあ、ほぼ確実に「やつは要らなかった」といわれそうだが、物語に対する突っ込みは薄れ、結果作品を素直に楽しめる人は増えるのではないだろうか。
 
 自分がこれだけは言っておきたいという点、ヒロインが不細工である。
 お姫様はジェニファー・ローレンスで「ハンガー・ゲーム」と「Xメン」で有名であるが、Xメンは全身紫のミュータント「ミスティーク」なので言われればそうかも、といったくらいか。
 ともかくおとぎ話ならお姫様は確実に公倍数である正当美女にして欲しかった。彼女は気の強いイライラした女上司といった雰囲気を抱えており、とうとう最後まで美しいと思う瞬間がなかった。最大値はコールドスリープしていた時だったが、動き出すと残念というのは物語的に失策だろう。
   
 日本でのコピーは「乗客5000人 目的地まで120年 90年も早く 2人だけが目覚めた 理由は1つ――。」となっているが、見てから振り返ると「そうじゃないだろう」である。二人でもなく一つでもない。気を引く文章としてこの形になるのは分かるが、すっきりせずマイナスの印象を与えている。