2016年9月29日木曜日

ベルセルク(2016 テレビアニメ)


★★★☆☆
~PS1ゲームのデモムービー~

作者存命中の完結が危ぶまれるマンガの筆頭である三浦建太郎のダークファンタジーをアニメ化。
アニメ化はテレビアニメでは二度目。映画は三部作が存在。一度目のテレビアニメと映画では映像化の範囲が被っているが、今回は未映像化の部分なのでまずそれが嬉しい。

範囲は「蝕」という決定的なターニングポイント、ある意味物語にリセットがかかった所から、最も大きな物語のパーツが登場するまで。
「断罪編 生誕祭の章」が中心となっている。
半端といえば半端だが、起承転結の効いた区切りの良い部分なので上手い切り取り方だと思う。

映像の方針がとても特徴的。
セルシェーダー(アニメ塗り効果)+ハッチング(カケアミのような処理)の3DCGを中心に据え、CGでは出せない表情や3Dモデルを作っていられないような部分を既存の手書きアニメで作成、こちらにもハッチング処理を乗せることで両者の絵柄を合わせている。
この3DCGにするのか手書きにするのかの判断が非常に上手く、なおかつ手描きアニメのクオリティが高いので、3DCGによる緻密さ(細かな鎧や多数の人間の動き)と情感ある手書きの魅力の良いとこ取りとなっている。
問題と感じるのは3DCGの質が手書き部分に対してあまりに劣っていること。静止画ならある程度均衡していそうなのだが、動きが厳しい。これはもうPS1時代(ゲームに本格的に3DCGが導入されたタイミング)のモーションクオリティである。人間の各部の動きが連動しておらず、人形がぎこちなく動いているというレベル。

ゲーム業界に関わっているものとしては、3DCGの質の向上を間近で追ってきたわけで、2016年にこのモーションは厳しい。
申し訳ないが、3DCGを勉強し始めた学生レベルである。例えば腕を動かすと、その反動によって体の軸が動き、バランスを取るために足や頭も動かさないとならない。これら動作は同時に、連携して発生するのだが、今作のモーションは純粋に腕を動かすだけ。プラモの肩関節を回すだけのような無機的な動きが多発している。3DCGにおける「動画崩壊」といって良いだろう。
それに加え、これこそが致命的だと思うのだが、カメラが無意味に動きすぎている
被写体を中心にグルグル動き続け、画面の変化としては派手で目を引くが、何かを表現するために動かすという観点が抜け落ち、ただ間を埋めるための手段として動かしている。
この、「3Dになったことで(わりと)自由にカメラを動かす事ができるようになった」という手段の拡張におぼれて、分かりにくく、ダサい表現を多発したのもPS1時代の黒歴史……。
監督である「板垣伸」氏は自身のコラムで以下のようにその意図を綴っている。

『乱暴で大雑把なガッツをダイナミックなカメラで追っかけようと思ったんです。フレームにキレイに収める事ばかりじゃなく、むしろハミ出すガッツを描くつもりで。まあ実は「映画と言えばFIX(カメラ動かない)が基本!」などの90年代的映像インテリ概念がかなり眉唾だと思ってるんです自分は。もちろんFIXだって重要ですよ! でも「何をおいてもまず最初にカメラを動かすもんではない!」と決めてかかり、遂には「カメラが動くからダメ!」とインテリぶるのが眉唾なんですよ。』http://animestyle.jp/2016/09/01/10420/

決めつけは良くないし、実践してその結果を次作につなげていけば良いのだと思うが、これだけは言っておきたい。
すでにその方針はPS1時代(1994~)からゲームでも映画でも試み続けられ、その結果「意味なく動かしても良いことは無い」と分かっているのだ。
自分の経験値の低さをして、分かりきっていることを前衛のように世に問うのはあまりに恥ずかしくないか。もうみんなその方向はあかんと実践済なのだ。
板垣氏の弁では迫力のアクションシーンのみカメラを動かしているかのようだが、実際の作品内では、ただモブがしゃべるだけのシーンで視点、注視点共に動き回り、節操がない
カメラをぶん回すのはありだが、押さえるところは押さえて、とりあえず動かす姿勢はやめろ、ということ。
どんな表現にも緩急が必要で、その差異こそがリズムやテンポを産み、作品に求心力を与えていく。
今作はずっとフルスロットルで動き回っている印象。緩急なくただうるさいだけ。これではカメラが激しく動いていることが魅力になるだろう、アクションシーンが埋没するだけだ。
※最近の映画やドラマは、これまでならフィックス(静止)していただろうカットもわずか~にズームさせるなどして画面を動かし続けている。
これは動いている事を知覚させない範囲で、画面に対する興味を保たせるための技法で、位置づけとしてはフィックスに近い。


――冷静に考えて、この情報量の画面を動かし、毎週放送のアニメを12本作るということは、それだけで賞賛に値するとも思う。
原作の重苦しい雰囲気を再現できているし、モーション以外は興醒めするような部分が少ない。
様々な問題を乗り越え、とても良くがんばったのだろうと想像に難くない。
おそらく3DCGの質が低いのを何とかするために、カメラを動かし続けるしかなかったが、それを理論武装して、さらに発信してしまったのがまずいだろう。
黙っていれば突っ込む隙も無く拍手と同情をただ受け取れていただろうに――。

テレビアニメでも3DCGの導入はどんどん加速しており、あふれた作業量は質の低い3DCGとなって現れる。
これは手描きアニメがたどった同じ轍であり、だとすると作業は海外スタジオに流れ、国内は人材のドーナツ化に見舞われる事になる。
絶望的かと言えば、会社に所属しない形のクリエーターが個人で発表する作品の質は確実に向上しており、それが商業化して覇権さえ獲得した「新海誠」氏のような例もある。
徒弟制、体育会系のような制作現場が、今の世に合った見通しの良い、意欲を活かして形にできるような形に進歩するには、どのような手段があり、また、それがきちんと再生産されていくサイクル(適切にお金になる)仕組みは、日本のアニメ界崩壊に間に合うのだろうか。ゲーム業界も同じなので人ごとではない胸騒ぎが止まらない。

2016年9月27日火曜日

クオリディア・コード


☆☆☆☆
~嫌われない駄作~


2016年7月から放送されたワンクール(12話)のテレビアニメ。
突如世界侵略を開始した『アンノウン』。人類は子供達を守るためにコールドスリープへ。
目覚めた子供達は各々特殊な能力『世界』を発現させており、いまだ続くアンノウンとの戦闘にかり出されていく。
最前線には学生だけで構成された(「世界」を持っているため)防衛拠点があり、アンノウンとの戦闘結果をランキング化して互いに競い合っている。

アニメ以前に小説が刊行されており、アンノウンの侵攻やアニメーション以前の学生達のやり取りが描かれている模様。アニメはその後の話であり、重複は無い。
物語としてはアニメーション単体だけでも十分と感じる。伏線の回収など含めると、むしろアニメだけで良いのではないか。

冒頭から、いわゆる主人公格のキャラクターが複数登場。これは小説それぞれの主人公達がここに集結した最終章がアニメだからである。
結果、アニメから見た者(自分も)には、こてこてで胸焼けのする程の強烈な中二濃度。痛いキャラクターのオンパレードだが、それだけでは終わらないだろう大仕掛けを予感させる「部品」が点在。余分なエピソードもなく、サクサクと進む物語に興味を引かれて、スルスル視聴してしまう。
開始時こそキャラクターが多すぎて面食らうが、意外に適切な分量で各人のエピソードが描かれており、またむやみにキャラが増えていくこともない。物語としては過不足ない分量をきれいに12話に整えた構成の妙を感じる。

物語の大仕掛けについては題名や、OPの印象から推測が十分に可能であるが、答え合わせと共に、そのような設定をいかにまとめていくのだろうという興味が勝つ。
その期待については、ガバガバの設定、ご都合主義というのも恥ずかしい展開に裏切られるが、不思議と腹が立ったりすることはない。

アニメの出来自体がとんでもなく低いクオリティなので、お話しについてもこんなもんだろう、いや、むしろ良くまとまった方じゃないかと思い違いさせてくれるのだ。
物語は出来事の組み合わせで構成されているとして、それを描く映像がどれだけのクオリティまで到達したのかは以下のような線引きが可能だろう。

<レベル外>
・何が描かれているのか分からない
どういう出来事が起きているのか分からない。
<レベル1>
・何が起こっているのかが分かる
どういう出来事が起こっているのかが分かる。
<レベル2>
・映像が安定している
絵柄、動きが整っており、鑑賞するのに気にならない。
・構図がとれている
構図が整っており、出来事が分かりやすく描かれている。
<レベル3>
・映像が魅力的
絵柄、動きが魅力的。
・構図がすぐれている
構図が緩急効いており、魅力的。
<レベル4>
・映像が物語と相乗効果を生んでいる
魅力的な映像が、言葉では表現できない情報を描き出し、物語を奥行きあるものとしている。
・構図が物語と相乗効果を生んでいる
構図が物語の意味を強調、補佐し、情感を加えている。

今作は「レベル外」と「レベル1」の境目である。

映像が安定しておらず、クオリティの低いいわゆる「作画崩壊」が頻発。動きについても不自然な動画が多発しており、気がそがれる瞬間が多い。
また、アクションシーンにおいては無茶なカット割りが多く、どういう状況を描いているのか、非常に理解しがたい。
ただ、アニメ定番の動きからは外れていない(オリジナリティがない)のでアニメに慣れている者には何とか理解可能のレベルである。

氾濫するアニメを網羅しているわけでは無論ないが、自分の認識する及第点を大幅に下回っており、昨今まれに見るひどさといって良い。
このような「映像」であるから、例えば戦艦が半分に割れてそこから巨大な砲塔が出現したり、何の裏付けもなくくっちゃべるだけのお子様司令官が人間軍を率いていたり、よく分からない能力がその時の都合で機能を変えていたりしても、突っ込むのも野暮と感じられてしまう。音声についても酷いもので、声優の演技以前に音量レベルがおかしい。近くのキャラクターは大きな声、遠くのキャラクターは小さな声としている、その差異が大きすぎて遠くのキャラクターの声が(聞かせるべき内容なのに)聞こえないのだ。まるで素人レベルで驚いてしまう。
つまり、物語においても映像においても音声についても、すべて低いクオリティでまとまり、安定しているため、作品全体としては破綻が無いのだ。
その中で、きちんと整えられた「物語構成」(けして物語ではなく、その構成のみ)だけが、描くべき内容を抱きしめるように保持しているため「クオリティは低いけど、話は分かる」形に着地成功している。視聴したことに腹が立ったり、投じた時間の不毛に脱力感に襲われたりしない「何となく許せる作品」になっているのだ

かといって見るべき作品であるはずが無く、以上の文面を読んで検証してみたくなった人だけが見れば良いと思う、嫌われない駄作だ。

2016年9月26日月曜日

ハドソン川の奇跡

★★☆☆☆
~奇跡的なノンフィクション~

日本人にはとんとなじみがないが、2009年にニューヨークで発生した飛行機不時着水事故を題材としたノンフィクション。また、だからこそ結末知らずの楽しさを味わえるのかも知れない。
離陸直後にバードストライク(鳥が飛行機にぶつかる事故)にあい、全てのエンジンが停止。幾つもの選択肢からハドソン川への着水を選択し、全員が無事助かったことから「ハドソン川の奇跡」と呼ばれる。
この映画では事件そのものではなく事件後に機長、副機長の判断の妥当性が追求されていく検証と後片付けをメインに据えている。

監督は今や巨匠のクリント・イーストウッド。
映画のために本物の飛行機を購入して再現に努めた映像はきっとリアルなのだろうが、摩天楼をバックに巨大な飛行機が飛ぶ様は、同時多発テロで見た映像のようにどうにも違和感が強い。理不尽な話だが、リアルすぎて嘘っぽく見えてしまっている。この事件に対する距離感がアメリカ人とは決定的に異なる事もその理由だろうか。
バードストライクから着水まで200秒程度に込められた様々な覚悟と判断。機長の回想、乗客や添乗員の回想、外側からの目撃――様々な視点からくり返し事件が語られ、最後にはボイスレコーダーによる主観と客観を統合した「答え合わせ」で終劇。
なかなか凝った構成だと思うが、視点が少しずつ拡大していくので事件をまるで知らない者(自分含め)でも理解しやすい。機長をただの完璧な英雄として描かず、副業のトラブルや定年までのキャリア設計の危機など、ちくりと現実的な情報を織り交ぜて予定調和へのゆらぎを見せるのも上手い。ただ、作品の基本姿勢自体が事故に対して周囲が起こした行動への賛美に凝り固まっている(前提としている)のもひしひしと感じるので、安心してみられる。

飽きることなく楽しむことが出来る作品だが、現実は想像を超えず、まあそうなるだろうという所に着地。金かけて補強した王道野球チームが順当に優勝しました、みたいな。しかし、現実でここまでの劇的な内容とは、まさにハドソン川の奇跡。

作品内では特に主張されないが、この事故が突きつける現実が空恐ろしい。
曰く、AIが完全な判断を下せるなら、人間よりも遙かに事故が減り、その規模も縮小するのではないか――。

2016年9月23日金曜日

伊賀忍法帳

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 ★★★☆☆
~魔界転生に負けない炎上シーン~

エログロと奇想天外な発想の忍術が炸裂する「忍法帳」シリーズで一世を風靡した山田風太郎の小説を原作とした作品。
1982年のいわゆる角川映画。公募により選出された渡辺典子が初主演をつとめている。彼女はその後「角川三人娘」として人気を博す。
前年には同じく山田風太郎原作の「魔界転生」が映画化されており、千葉真一、真田宏之など主要俳優の重複も濃い。

戦国時代、主君の細君である右京太夫に横恋慕した松永弾正の元に謎の幻術師、果心居士が現れ惚れ薬を持って右京太夫の心を奪えとそそのかす。
そのためには彼女の双子の妹である篝火の強奪と陵辱が必要であり、5人の超人的能力を持つ忍法僧が貸し与えられた。
篝火は伊賀忍者である笛吹城太郎と恋仲であり、彼女を奪われた城太郎は強大な敵に単身立ち向かう。

そもそも純潔の娘を強姦して流れた涙(原作では愛液)が惚れ薬の材料になるなど、エロに傾く設定。
惚れ薬の実験にされた女中の痴態など、おっぱいシーンも多い。
首をすげ替えて姿と心をもすげ替えたり、手の甲や眼球から仕込み針を発射したりと奇想天外な忍法の数々。
そして芯を貫くのは男女の愛。
まさにエンターテイメント。

原作と比べると忍法僧の数(原作は7名)が減っていたり、惚れ薬の材料や物語の基本設定にも改変があるが、二時間枠に収め、 万人向けとするためには適切な判断だったと感じる。
特に篝火と右京太夫の関係については話を整理して終盤の展開を納得感あるものにするのにとても有効に働いている。
ただ、ピンチに陥る度に謎の勢力に助けられる……という展開がくり返し発生し、緊迫した状況に対する肩すかし感がすごい。

映像についてまず特筆すべきは奈良の大仏殿炎上シーン。魔界転生のクライマックスでも江戸城炎上をとんでもないスケールで映像化し、 これは現代では許可がおりないのではないかという成果をものにしているが、今作でも同等の凄まじい炎を堪能できる。
実物大セットや大型ミニチュアに火を放ったという事だが、CGとは隔絶した迫力を生み出している。肌がちりちりするような熱さを感じるのだ。
CGの炎と実際の炎、何が違うのだろうと考えるが、おそらくCGの場合、きちんと整って絵になりすぎるのではないかと思われる。
実写の炎は絵にならない、どこか不細工な形が含まれている。整いすぎた人間の顔を嘘っぽく感じるように、情景にもいびつさが必要なのだろう。

他にもエキストラを大量に投入した群衆シーンは昨今の日本映画には無い魅力。CGで数増やしするのではない愚直な力業は、やはり画面に力を与える。
全編にわたるわけではないが、町の賑わいや僧兵突入のシーンなど、ワラワラと動き回る画面は今でも見劣りしないどころか輝いている。

反して厳しいのが、本来主軸の見所となりうる忍法対決。
魔界転生のような、技術的には厳しいけど描こうとしているイメージが伝わってくる凄みもなく、ただただショボい印象。
剣と体術のプロレス。良くある時代劇のチャンバラ程度となっている。
怪力忍法僧との戦いはただの相撲のようになっており失笑。
そんな中唸らされたのが池に落下した敵味方が水中で死闘を繰り広げるシーン。
実際に水中の様子を描くことはなく、カメラは水面を捕らえるのみだが、

「落水→黄色い毒液が浮かび上がる→敵のあえぐ姿が一瞬水面に→また沈んで泡や波紋がこちらに近づいてくる
→水面が赤く染まり敵が浮かぶ→急速な航跡が走り、主人公が無事浮上」

この1分以上ありそうな戦闘の進捗がワンカットで繰り広げられる。無論役者はその間潜りっぱなしで、血や波を出すギミックも大変な準備だったろう。
シーンとして凄みのあるものにはなっているのだが、血の出る箇所と死体が浮かぶ場所が大きくずれていたり、各種タイミングがいまいちかみ合っていなかったり。
撮り直しの出来なかったシーンという事なのか――。

役者の中で特に気に入ったのが成田三樹夫演じる果心居士。不気味な存在感と奥深い人間性を少ない登場シーンで十二分に感じさせてくれる。

シナリオ、映像共に魅力はあるが、決め手に欠ける印象の佳作。魔界転生に比べて知名度が低すぎる気はする。

2016年9月14日水曜日

剱岳 点の記

★★★☆☆
~実写の圧倒的実在感~

2009年公開。新田次郎の小説を原作とした作品。
監督の木村大作は世界に名だたる黒澤明、宮川一夫の信任が厚いカメラマンであり、今作がその監督第一作となる。
黒澤明作品には撮影助手として参加しており、特に望遠のピント合わせについて高い評価を得ていたとのこと。

1906年。陸軍の威信をかけて未踏の剱岳測量を下命された柴崎(浅野忠信)が、幾多の困難を乗り越えて測量点設置を目指す物語。
剱岳は日本国内でも屈指の危険な山であり、立山修験と呼ばれる山岳信仰の中でも針山地獄とされている程の峻岳。
柴崎は山案内人の宇治(香川照之)の協力を得て着々と調査と準備を整えていくが、装備の近代化で勝る日本山岳会の小嶋(仲村トオル)の隊との初登頂競争の様相を呈していく。
測量を一義とする柴崎と、個人趣味の延長としての登山を旨とする小嶋。山に対する角度は異なるものの、同じく自然に対する者として底の部分でわかり合っていく。

淡々とした山岳シーンが長く続くが、それで十分に間が持つほど山の風景が素晴らしい。
CGでは出ないだろう想像を超えた空気感。巨大な自然とちっぽけな人間の対比。
画面を見るだけで敬虔な気持ちになれるというのはなかなかない。
その場に行って、いい画(え)を撮る。カメラマン出自の木村監督なればこその境地だろう。

出演者各員もかなりの労苦を共にしたようで、実際にかなりの行程を歩いてロケに挑んだとのこと。
柴崎の部下、生田を演じた松田龍平は実際に雪に埋もれて酸欠になりながらも撮影を続行したというから腹が据わっている。
浅野忠信も抑制の効いた演技をつとめ、香川照之はまったく生まれつきかのように蓑や笠を着こなして現地案内人になりきっている。

初登頂と思われたが……という落ちも含蓄深く興味深い。
ノンフィクションならではの抑揚にかける盛り上がり所の少ない印象ではあるが、心を洗われる風景だけで十分見応えがある。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

★★★★★

~日本人専用。だからこそ世界に通じる~

2016年公開。ゴジラシリーズ29作目にして、(日本制作としての)前作FINALWARS(2004年)から12年ぶりの復活作品。
監督は「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明。

アニメ監督として絶大な知名度と人気を持つ庵野氏は、元々ウルトラマンなどの特撮作品のマニア。アニメ作品にも特撮映画から持ち込んだ演出が多用されている。
実際に何本かの実写映画も監督しているが、アニメ作品のような高い評価は得られていない状況。
したがってこのゴジラ監督については期待と不安が入り乱れる前評判となっていたが、不安を吹き飛ばし、期待を軽く越える出色の出来であった。

もとよりゴジラ1作目は戦後の空気を引きずるまま、核実験の恐怖が蔓延する1954年に公開。核実験によって誕生したゴジラが日本を恐怖に陥れるという内容。
おそらく当時の観客達はゴジラという存在の圧迫感を現実の圧迫感と結びつけて、とんでもなくリアルに感じた事だろう。
今作においては戦争を大震災、核実験を原子力発電所と置き換え、3・11で日本が経験した絶望感を再現するがごとく構成されている。
この全体構成を着想したことがすでに素晴らしい。ゴジラの歴史と存在意義を突き詰めたからこそ手に入れた発想だろう。



※以降感想を続けるが、今作は前情報の無い方が確実に楽しむことが出来る内容なので、未見の方は読まない方が良い。



話自体は非常にシンプル。
東京湾に出現した謎の怪獣に対して必死に対応する日本政府とその実体である政治家と高級官僚。
圧倒的な破壊力を誇るゴジラに対してあまりに無力な日本政府。だが決してあきらめることなく、着実に対応を進めていく。
ついにはゴジラ無力化の方法を導き出し――。

映画は大きく2つのパートに分かれている。
その分岐点はゴジラが圧倒的な破壊を東京中心部で成し遂げる部分。
それまでもゴジラは移動するというだけで大規模な破壊をもたらしているが、しかしその規模はどこかまだ「範疇」内で有り、政府の対応が可能だという安心感があった。
そのような状況で決行されたゴジラに対する日米共同の反攻作戦。ようやくゴジラに痛手を与え、この調子だと思った瞬間、桁外れの反撃が開始される。
この絶望感がすごい。
苦しむゴジラはうつむき、津波のような赤い炎を吐いて一面を炎の海とする。ここでぎくっと驚く。
こんな火の海にされたら、もう東京は駄目なんじゃないか――。
軽く絶望したところで炎は細く収束し、徐々に青色に近づいていく。まるでレーザーのような張り詰めた凶器と化し……。
振り回される光線はビルを切り倒し、遙か遠方まで火の海に飲みこんでいく。爆撃機も撃墜され、総理大臣含む政府高官の乗り込んだヘリまでもが四散。
その有り様に、思わずため息のような、うめくような声を漏らしていた。
こりゃもう駄目だ。
取り返しがつかない。
もう日本は終わりだ……。
この感覚こそ、3・11で原発が水蒸気爆発(メルトダウン)を起こした時と同じであった
このシーンが作品の分岐点であると思う。

そこまでが既視感の伴う3・11の再現であり、以降は絶望を希望に変えるためのおとぎ話である。
これは言い換えると前半が「現実」であり、後半が「虚構」とも言える。

今作の宣伝コピーの1つ「現実(日本)vs虚構(ゴジラ)」。
これは様々に解釈できるコピーだが、映画を見る前から非常な違和感を感じていた。
せっかく幾多の努力を尽くしてリアルに描いたゴジラを、そもそも一文の元、「虚構」つまりは「偽物」と言い切ってどうするのだ、と。
冷や水をぶっかけるようなコピーに不安感が増したが、作品を見て、異なる解釈が見えてきた。

「現実(絶望)vs虚構(希望)」

現実の絶望を打ち返す虚構の希望。
3・11以降、我々はなんだかんだと平穏を取り戻してきたが、それは時間をかけて絶望を薄めていったような印象だ。
映画にあるような、一気呵成に事態を収束するような物では無かった。
しかし、振り返って考えるに、3・11から現状までに起こった変化は、ゴジラを何とか無力化したのと同様の大きなものではないか。
少しずつの変化であるため気がつきにくいが、日本国が成し遂げた復興は素晴らしい規模と速度だ。
これを濃縮し、短時間に描いたのが、後半の虚構部分ではないだろうか。
あまりにご都合主義で一気に嘘くさく感じる後半部分の展開。しかし胸の空くような反撃。
虚構に感じられるこのようなことは、しかし実際にはすでに成し遂げられた現実なのだ。

そうしてみると、ゴジラ自体は街中にあるままで、問題は決着しておらず、目を反らすことも出来ないというエンディング。
これは我々の現況にまったく符合するのではないだろうか。
複数の意味が混在となった「現実vs虚構」という言葉は、確かにこの映画を表するのにぴったりなのかも知れない。

第一作のゴジラは海外でも大ヒットとなった。
しかし、海外バージョンは核やアメリカに対する不信感を感じさせる部分はすっぱりとカットされているらしい。
「派手でリアルな怪獣もの」としてヒットしたに過ぎない。本来のゴジラを鑑賞することが出来るのは、あの時代の日本を知った者だけなのである。
今作はどうだろう。3・11の体験が前提条件となっており、それを知らない者には分かるはずがない。
核に対する長年の不信と許容。段取りを踏まなければ動けない日本のシステム。これらに対する理解も前提条件だろう。

あまりに日本向けすぎる内容なのだ。

このまま公開しても、海外でヒットは望めないだろう。
ただし、このあまりに特化した前提の多い映画は、特定の観客にとんでもないトゲを突き立てるのでは無いか。
世界の誰が見ても楽しめる映画は、無国籍ののっぺらぼうだ。
反してシン・ゴジラは閉塞的村社会に代々伝わった起源も定かではない不気味な行事、それが生み出した神像のようなものだ。
そういうものを内包している文化は根が深く、強い。呪いのような情念が良くも悪くも地盤を固めている。
いまや世界を席巻している、日本のポップカルチャー、マンガ、アニメ、アイドルも、本来同じような存在ではなかったか。
それらはかつて異質で薄気味悪いものであったろうに、いつの間にか世界に理解者を増やしている。
少数の人間には、必要なはずの前提条件を越えて、刺さったのだ。
刺さったあと、前提条件を乗り越えるような者たちに届いたのだ。
シン・ゴジラも同様の存在になり得るのではないか。
不評渦巻く世界公開の中、心臓を鷲づかみにされる者が居て、そこから根が広がっていくのだ
そんな夢想が浮かぶほど、このコンテンツは、あまりにエスニックで独特で、他に類の無い物なのだ。

最後に特筆したいのは、この作品に出てくる人物の全てが、前向きで善人であるということ。
長い会議や縦割り組織、責任を回避しようとする動きが前面に出ているためそれと感じにくいが、全員が全員、自分の立場で前向きに努力している。
笑いの対象になっている総理大臣さえもが、システムの一要素になって選択の余地なく責任を負わされる存在として描かれ、このような切り口で総理大臣を描いた作品は見たことがない。

日本人が、日本人の経験の上でのみ味わうことのできる、皆で一生懸命がんばる話。
こんな優しい物語、そうそう出会えないよ。
庵野氏の振り絞った人間賛歌に、乾杯。

2016年4月5日火曜日

荒野の用心棒

★★★★
~マカロニ・ウエスタンの起爆剤~

1964年公開(日本公開は1965)のイタリア産西部劇。
イタリアを中心とするヨーロッパ製の西部劇「マカロニ・ウエスタン(スパゲッティ・ウエスタン)」が大量生産されるようになったのはこの映画の大ヒットがきっかけ。
西部劇はもちろんアメリカの西部開拓時代を舞台とした映画なので、ハリウッドの時代劇、的な奇妙さがつきまとうが、我々日本人にはどちらも異邦なのであまりに気ならないだろう。
イタリア映画なのでイタリア語が原本で、それを英語吹き替えしたものを視聴する機会が多い模様。
※セルソフトを見ても英語収録が基本でイタリア語収録は少ない。
主演のクリント・イーストウッドはじめ、全編台詞のアフレコ感が強いのはこの経緯からだろう。

この作品は余談というか、作品外のエピソードに面白いものが多い
・低予算映画なのでトップスターでないクリント・イーストウッドが主演することになった。
・主人公の衣装はイーストウッドの持ち込みが多い。
・黒澤明「用心棒」のまるっきりコピーであるが許可を取っていなかったのでその後問題になった。
・用心棒は時代劇で西部劇を、という意図があったらしいので、脚本的にぴったりくる。
・登場人物にアメリカ人が少ないことの理由付けとして、「メキシコとの国境付近」を舞台としている。
etc.

国境付近の町サン・ミゲルは無法者一家と保安官の二大勢力に分断され、町民のまともな生活は望むべくもない荒廃した有り様となっていた。
そこに流れ着いたジョーは両勢力に自身の腕前を見せつけ、甘言を弄し、両者のバランスを崩していく……。

保安官側勢力は正当なのかというと無法者に対抗するために無法者を雇っており、そもそも対立はどちらが密輸利権を握るかが原因となっており、両者悪という事になる。では主人公が正義かというとそうでも無い。正々堂々とはかけ離れた卑怯な手段を使い、彼の行為によって大量の死人が出る。
それなのに後味がすっきりなのは、彼の目的が「ちょっと見かけたいい女」を元の男と子供のところに戻すことであり、また途中でえらいボコボコの目にあっていながらもくじけないからだろう。

冒頭のエキセントリックな影絵に音楽が被さるオープニング。
最後の決闘の場にジョーが現れるシーン。奇跡的な美しさの土煙。

ワクワクせずにはいられないシーンが多く傑作に数えられるのにも納得。

スター・ウォーズ/フォースの覚醒

★★☆☆☆
~均衡のなれの果て~

J・J・エイブラムス監督。2015年公開のアメリカ映画。

言わずと知れたスターウォーズのナンバリングタイトル。
4⇒5⇒6⇒1⇒2⇒3の順で製作、公開された三つ目の三部作の1作目。
ちなみに4/1/2/3はジョージ・ルーカス監督だが5/6は異なるので、初の別監督エピソードというわけでもない。

4/5/6でアナログ特撮の伝説となり、1/2/3でCG技術の地平を切り開いたスター・ウォーズ。
小説やアニメなどで映画以外にも広がり、厚みを増した世界観。飽和したファンにより新シリーズにかかる期待はとんでもない重さ。

ここでJ・J・エイブラムス監督。
好き嫌いはともかく、「期待水準に達する作品をコンスタントに生み出す」監督として無双の安定感を誇ることは認めざるを得ない。
何かとライバル扱いされるもうひとつの伝説的SF作品「スター・トレック」の映画監督もつとめたのだから、なんちゅう強心臓なんや!
こんなん普通の精神では耐えられない重圧だろうに!

出来上がった作品を観て思ったことには、やはりこの監督の安定感はすごい。
なんだかんだで値段分の映像であるし、過去作へのオマージュもたっぷり。
スター・ウォーズらしい映像と話がすらすらと展開されていく――。

けれど、見終わった後に心に残るのは新しいドロイドBB-8の立ち居振る舞い程度。
基本的にはルーク三部作(1/2/3)をなぞる展開で、各要素を極限まで大げさにした感じ。
「デススターを惑星規模に」
「ダース・ベイダーよりも宿命度の高い敵役を立ち上げる」
「ルーク三部作の要素をこの一作に凝縮」
これらがおもしろ差に結び付かずに上滑りして腑に落ちないまま終劇。
なんといっても主人公が誰か分からず、おもしろ黒人枠がヒーロー役を務めているというのが腑に落ちない。

・スター・ウォーズは結局設定ガバガバの雰囲気SFだよね!
・話しも強引でむちゃくちゃだよね!
・そんな雰囲気もきっちり再現したよ!

こんな開き直りが透けて見える。(そうだよなあと思ってしまえるのがこれまた悔しい)
前シリーズが何やかんや言われながらも挑戦して切り開いた映像表現。そういった闘魂がまるで感じられない作品だった。
お偉方(ヘビーなファン)の意見をすべて汲み取って上手くパッケージングしただけ。最小公倍数を求めただけのように感じる。

これまでの文面でにじみ出ていると思うが、自分はこの監督が好きではない
監督ファンの方には申し訳ないが、監督と視聴者としてどうにも根本的に相容れない要素がある気がする。
どの作品も「秀才のとる及第点」の雰囲気で、その薄っぺらさがはがれる前に次の話題作を手がけることで自分の地位を保っているように見える。
上手いが、誰かの心の一本になる作品は作れない監督なのではないだろうか。
自分の手できっちり作るというより、時代の空気をきちんと理解し、商品価値を組み立て挙げて市場に投下するプロデューサーのように感じる。
美術界で言う「村上隆」みたいなイメージだ。

それはそれで希有な才能であり、果たすべき役割があると思うが、いびつにゆがんだ思い込みの激しい情念がスター・ウォーズには似合うと思ってしまう。
ともかく新三部作の立ち上げにあたって、この「7」でこれまでの総括が終わった訳なので、次からの新展開に期待である。(監督も違うしね!)
……と言いたいところだが、結構お話しがまとまってしまったので、もう十分かなという気分も。R2D2が動かないままならきっと次も見に行ったと思うけど、彼もきっちり復活してしまったから……。

スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐

★★★☆☆
~伝説の収束~

ジョージ・ルーカス監督。2005年公開のアメリカ映画。
ルーク三部作(4/5/6)のあとに制作されたアナキン三部作(1/2/3)の最後を飾り、スター・ウォーズの実質的1作目であるエピソード4につながる重要な作品。
アナキン三部作の最大の使命である「ダース・ベイダーがいかに誕生したか」を画竜点睛する。

エピソード1~6のストーリーを端的に説明すると以下のようになる。

◆「1~3」…自己中近視眼の行動で宇宙全体に迷惑をかけるバカップルの話。
◆「4~6」…その迷惑を収集するためにバカップルの子供が奮闘する話。


エピソード3は1/2でじっくりと積み上げてきたバカップルそれぞれの駄目さ具合が一気に花開き実を結ぶ章となっており、物語的にも映像的にも見所が多い。
冒頭から惑星上空での激しい空戦。敵将の討伐任務。残酷な敵黒幕の正体と陥穽にはまる主人公――そして最後は活火山惑星での宿命の師弟対決。
映画作品として金字塔である「エピソード4」へつながる物語要素の収束は非常に気持ちが良い。
ついに生まれた「ダース・ベイダー」のバックに流れるあの聞き慣れたライトモチーフ(キャラクター旋律)。
ブロックがぴしゃりと組み合った余韻のまま終劇。

ゴールデンラズベリー賞を受賞したり、酷評も多い本作だが、思い入れたっぷりに描かれる愛憎劇は28年の重みと共に心に残る。
きっちりと描ききった、作りきったことは紛れもない偉業であり、続く三部作が蛇足にならない事を願うばかり。

2016年3月18日金曜日

白銀の意思 アルジェヴォルン

★★☆☆☆
~イージーリスニングアニメ~

2014年に放送された24話(2クール)のオリジナルアニメ。
二足歩行の巨大ロボット兵器が主力として活躍する世界。「アランダス連合王国」と「インゲルミア諸国統合体」は長い戦争状態にあったが、ついに均衡がくずれアランダス軍は撤退戦へと追い込まれる。
主人公はアランダス側のロボット操縦士であるススム上等兵。撤退のさなか新型機体「アルジェヴォルン」を運搬する民間会社を助けたことからそのパイロットとして登録されてしまう。担当技師(といっても新人で知識はほぼない)ジェイミーも従軍することとなり、二人でアルジェヴォルンに搭載されたユーリンクシステムの謎を追うことになる。

二人の所属する独立第八部隊の面々や両軍の策謀も描かれるため、主人公が引っ張る物語というより群像劇の印象が強い。
特に後半は主人公の比重が下がって部隊隊長のほうが表に出てくるくらい。
見終わった後思い返すと、自分はなぜこの作品を最後まで見たのだろうと不思議に感じるほど印象が薄い。普通このような感想を持つ場合、時間を損した! といった恨み言が湧いてくるのだが、なぜかそれさえもない。ロボットの位置づけはあやふやだし、格好良いシーンもあまりない。デザインも好みではない。感情移入できる登場人物はおらず、戦争なのに緊迫感は薄く、特に悲惨なことが起こるわけでもない。(起こっているはずなのだがたんたんと描かれるのでむしろ笑いが漏れそうになる)
ないないづくしなこの作品なのにちっとも腹が立たない。

思うに、この作品は存在が「ゼロ」に近いのだと思う。
良いところも悪いところも起伏が少ないフラットな作品。
一話を見ると良くも悪くもないので次も見てみる。それも良くも悪くもなく……という具合に最後まで至ったのだ。
なにも与えてくれないが、邪魔にもならない。ぽかーんと見る事ができるのでリラックスタイムとしての時間の方が勝ってしまい、時間を無駄にしたという風にも感じない。魚のかからない釣りだ。
存在感のない隣人というか、言い方を変えればとても自然な存在なのだ。
テレビで放送終了直前に流れる風景映像やイージーリスニングのような……。

こういった感想を書くのは製作者にとても申し訳ないのかも知れないが、むしろそういう存在を目指したということは無いだろうか。
なぜなら、この作品はすべての事柄が中途半端に、成し遂げられずに終わっている。

主人公は最終決戦に挑まぬまま、なんと機体の電源が落ちて終了。
ライバルは主人公と再戦できず、おなじく電源が落ちて終了。
ヒロインは端からなんの目的もなく状況に流されるだけなので成し遂げることもない。
部隊長の想いも、副隊長の想いも、成し遂げられることなく終了
戦線さえもが開戦前に立ち戻って終了。

物語は「行きて戻れる形」があるべき姿だと聞くが、それは螺旋階段のように成長を含めたものだろう。
今作は、誰も特に成長したと思えないまま、まるで落ちた石を拾い上げただけといった感触だ。
ここまで徹底するのは強い意志、それこそ白銀の意志が必要なのではないか。

現実は物語のように行かないし、意味の無いことの方が多い。

こんな事柄を描いたのかも知れない。
しかしまあ、こんな解脱者みたいな作品に合ったのは初めてだ。

2016年3月15日火曜日

失われた未来を求めて

★★★★
~たそがれの一途な想い~

今回は中学の頃から温存されている自分のオタク心が共鳴した作品だったので、全般に気持ち悪い感想になっているかも知れません。

  TRUMPLEから発売された18才以上向けのいわゆるエロゲームを原作としたTVアニメ。全13話。2013年に放送。
  ゲーム自体は2010年にWINDOWS版として発売されている。

  マルチエンディングのゲームを原作としたアニメはいずれかの「ルート」を採用せざるを得ない。
  多くの場合メインルート、トゥルーエンドが採用され、その他のエンディングに至るエピソードは省かれる。言ってしまえばメインヒロインとは違う女性を選んだ場合のエピソードは描かれない。が、反対に言えば、ゲームをプレイすればそういった物語を選択して楽しむことができるのだ。これはかなり魅力的な宣伝である。
※しかもプラットフォームがWindowsであるならば、H要素も完備状態となり付加価値は極大となる。
なので、このタイミングで関連商品(別プラットフォームへの移植や続編)を発売するのが定石だろう。

ところが本作はアニメ放送のタイミングでも何らリリースが為されない。定番であるマルチメディア展開としてのうまみを無視している。これが果たして狙ったことなのか、何らかの不都合(ゲームの開発会社自体今作をもって活動休止となっている)で単独投入となったのかは分からないが、一つの可能性として製作者が「この話に魅力を感じたから」ということもありえるだろう。ゲーム自体様々な突っ込みを受けつつもしっかりファンのついている作品のようであり、自分もアニメ視聴ではストーリーに魅力を感じた。

物語は海辺に立つ高等学校「内浜学園」の天文学会というサークルに所属する男女が、校内校外の不思議な事件を追っていくという内容。主人公(男)はサークルメンバーの一人(もちろん女性)の家に同居していたり、謎の記憶喪失少女が登場しても、身元不明なまま何ら社会的な問題なく同級生として収まっているなど、各種お約束に満ちている。自分などは懐かしい空気さえ感じた。「うる星やつら」とか「らんま1/2」みたいなスラップスティック(ドタバタ喜劇)として楽しめそうな雰囲気。

しかし見ていくほどに不可思議なエピソードがちりばめられ、大仕掛けが動き始めると、喜劇は一転切ない物語に姿を変える。「どうにもならないことを、どうにかしようとあがく」のは自分の好きなモチーフなのだが、趣味が合致したという形で最後まで一息に楽しむことが出来た。

演出は一般に言って間延びしていると感じるし、作画も波があるが、物語を伝えようという気持ちが表に出ている作品だと思う。
放課後活動が中心であるのでたそがれの画面が多いこと、海辺の風景が多いことも懐古感を刺激する。

合う合わないが大きい作品だと思われるので強くすすめることはできないが、「一途な思い」「それを見守る第三者」が嫌いでないなら見てみて欲しい。

ところで最初数話分のOPアニメーションがえらくカクカクである。原画部分だけ存在して動画が存在していない感じでこれはこれで貴重な……。OPだけは頑張る作品も多いので大丈夫かいなと心配になったが、途中から非常に細かい中割が入り滑らかなアニメーションに差し替わった。
制作が間に合わなかっただけなのだろうが、徐々に登場人物の魅力が見えてきた頃、つまり自分の中でキャラクターが動き出したタイミングで差し替わったので非常に心情にマッチした。これが演出なら凄いなあ。

クリード チャンプを継ぐ男


★★★☆☆
~ロッキーシリーズ第七作目!~

題名や宣伝を見てもほとんど分からないが、この作品はシルベスター・スタローンの「ロッキー」シリーズのスピンオフ(といっているが、七作目の続編といって良かろう)である。なぜこの点を強く喧伝しないのが不思議だが、前作(シリーズ六作目)評価が低いと言われていることが原因なのだろうか。

ロッキーシリーズで「クリード」という題名なら、ファンならピンとくるかも知れない。一作目から四作目まで登場し、ある時はライバル、ある時は盟友としてロッキーと深く関わった偉大なチャンピオンがアポロ・クリード。そして彼は四作目でリング上での死を迎えている。――ということは……。

クリードの主人公はアポロの愛人の子供であり、唯一の血族アドニス。出会うこともなかった父の背中を追ってボクシングの世界に入ろうとする彼は近しい者たちからそれを拒絶される。アドニスが最後にたどり着いたのがロッキー・バルモア。
はじめは師事を断るが、その熱意に負け、またボクシングに関わる喜びを思いだしていくロッキー。
アドニスと同じアパートで音楽の夢を追うビアンカとの出会い。ロッキーが立ち向かうリングの外側での戦い。
二人の「いわくつき」師弟のボクシングに世間は好奇の目を向け、やがてとんでもない大きな話が転がり込んでくる――。

物語は一作目をなぞるように進むが、ただ繰り返しているのでもなければ、無理矢理独自性を打ち立てようとしているのでもない。一作目の物語を今もう一度描くとしたらこうなるという答えが示されている感じ。そもそも、それさえ流れればロッキーというあの「ロッキーのテーマ」が流れないのだ。それなのに同じような昂揚を感じる事ができる。
主人公であるアドニスの短絡的な素直さは魅力的で、自然と応援したくなる。ロッキーの後継者としてするっと収まってくれるのも気持ちが良い。ロッキーも年老いながらチャレンジスピリッツを失わず、変わらず戦い続けているのが嬉しい。エイドリアンに対する愛情もそのままなのがまたロッキーらしい。

ロッキー一作目を楽しめた人は、つまり多くの人は、この作品を楽しむことができる。
四作目まで復習してから見るとなおさら楽しめるだろう。
三作目のラストで静止した、あのアポロとの第三戦についても言及があり、さらっと語られるだけだがそれがまた良い。
ただその言及が本当なのかどうかについては、自分は多少の揺らぎを感じる。

キルラキル

★★★☆☆
~絵が動く気持ちよさ~

「天元突破グレンラガン」の今石洋之監督作品。2クールのテレビアニメ。
特別な「糸」で縫製された極制服(ごくせいふく)。それは着る者に強大な力をもたらす。
中でも特別な「意志」を持つ服を身に纏う女子高生、纏流子(まといりゅうこ)は父親の敵を求めて本能字学園へ転校、入学。
学園は生徒会長、鬼龍院皐月(きりゅういんさつき)を頂点とした身分制度で統治されており、極制服を着こなす力こそが全てだった。様々な部活動や彼女を守る四天王との戦いを繰り返し、流子は父の敵、極制服の謎へと近づいていく――。

物語と設定には大きな展開や仕掛けが用意されており最後まで視聴者を牽引する。が、なんといっても今作の魅力は戦闘におけるキャラクターの動く気持ちよさ。タメとツメのきいたメリハリある動きがリミテッドアニメーション――動画枚数の限られたアニメーションのこと。テレビアニメの苦しい台所事情の中で発達した――の健在を宣言する。
このこだわりは演出にも現れており、止め絵やハーモニー処理を多用した、いわゆる出崎演出。文字のみで構成された画面。話数単位での動画メリハリ(戦闘シーンの少ない回と戦闘主体の回)など、TVシリーズで高いクオリティの手書きアニメを作るための努力にあふれている。
これら方針、感触はグレンラガンでも同様だったが、今作はCGをうまく活用することでさらに画面密度を高めている。
特に主人公達の変身シーンはCGと手書きを組み合わせ、どちらか一方では作り上げることが出来ないだろう領域に達している。変身の最後にポーズを決めるシーンでは最後に腰がキュッと入り、欲情してしまいそうになるほど人物が魅力的に見える。

このように割り切った作りのとんがった作品なので、あきらめた部分が目につくのは確か
戦闘以外のシーン、とくにギャグに偏った部分は動画枚数が極端に抑えられている。というより、動画がない。ポーズを切り替えてみせるだけの紙芝居の風体になっており、タイミング取りが決まっているため小気味良いのだが、なんだか古いフラッシュアニメーションを見ている気分になる。「キッチン戦隊くっくるん」みたいな感じでせわしない。

また、これは監督の持ち味でもあるのだろうが、下品の度が過ぎるとも感じる。
アニメの魅力は動きとエロ! つまり女体を動かすことだ! 的な意気込みが伝わってくる。
これ自体はその通りだと思うが、変身シーン――変身後は非常に露出度の高い、ほぼ丸見えの格好になる――がすでに限界ギリギリ。エロ以外の意味があるとは思えないアングルのカットがサービス過多のように感じられた。
それ以外の下品さも自分にはきつすぎる。下町に住む一家にずいぶん助けられるのだが、彼らの生活様式、発する言葉などを含めたモラルが下品すぎる。物語を進めていくのに気の抜きどころは必要だと思うが、嫌悪感に気を緩めることが出来ない。

どんどん3DCGの範囲が広まってきているアニメーション業界だが、こういった作品を見ると、やはり良く作られた手書きアニメーションには圧倒的な魅力がある。3DCG技術が高まっていけばやがてそういった分野も置き換えられていくだろう、というイメージを何となく持っていたが、手書きの魅力はその先にはないのではないかと感じた。

<漫画>月光条例

★★★★
~描ききったことに敬服~

※漫画作品についても、完結したものに限って感想を書いていきます。

単行本29巻からなる漫画作品。週刊サンデー連載。
うしおととら、からくりサーカスなど熱い物語を描かせたら天下一品の藤田和日郎、三本目の大長編。
狂った月の光を受けたおとぎ話のキャラクターが現世に立ち現れて暴れ回る「ムーントラック(月打)」を鎮める役割を負った主人公の戦いを描く。

赤ずきん、シンデレラ、長靴を履いた猫、桃太郎……。
洋の東西を問わぬ数多くのおとぎ話とそのキャラクター達との対峙。
シンデレラは本当に城の中で安穏と暮らしたかったのか?
浦島太郎は最後の仕打ちに何を思ったのか?
なぜ、悲しい結末の物語が存在するのか?
物語のIFの展開や、読み手の感じる理不尽をたたきつけながら異常事態はどんどんと進行していく。
主人公の出自、ヒロインの正体など、徐々に浮かび上がり、解き明かされていく謎。
架空の世界と現実の世界。それを包むまた大きな別の世界。
スケールは拡大の一途をたどり、果たして納得の行く結末たり得るのかと読者の方が心配になってくる。

とうとう最終巻。
正直、決して最高の物語体験ではなかった。
中盤以降些細な部分や些末な戦闘を延々と描き、進展が遅くなっておもしろみを感じにくくなってくる。
説教臭い上、説明的に過ぎるセリフ。
※藤田氏は読者サービスに過ぎるきらいがあり、キャラクターの細かな心情をなんとか示そうとして台詞が増える印象。
前話の終盤を次話冒頭でなぞる、「ダブり」部分の増加。(これが単行本派には特に辛い)
勿体ぶったわりに大したことのない(納得の行かない)謎解き。

気になる点を挙げればきりがない。
実際、評判も余りよいとは言えないようで、連載時の掲載順も最後尾すれすれとなり、カラーや表紙などの掲載誌による推し具合も明らかに控えめになっていた。
最後の風呂敷たたみも、努力は買うものの首をかしげる切れの悪さ。
だがそれでも、自分は胸を張って言える。

「この作品を読んで良かった」
「この作品が好きだ」

最終巻の三つの点だけで、もうこの評価は確定した。

◆一つ目
主人公の、ヒロインに対する言葉と、それに対する返答。
この上なく意地っ張りで、全ての問題を自分だけで抱えようとする二人が、お互いに寄り掛かり合ったこの問答。
これまでの全てのやりとりで、ずっとずっと越えることの出来なかった壁。
観ているこちらにとっては歯がゆく、無駄に感じ、なぜそんなに頑ななのかと腹が立つくらいだった殻をパリンと割った瞬間。
二人が昂揚に包まれ疾駆していく姿は快哉を叫ばずにはいられない胸のすくものだった。
作家にとっても読者にとっても、むろん登場人物にとっても、この時のために、どれだけの時間が積み上げられてきたのか。29巻にわたる物語は十分すぎる長さと分量で、感激の度合いを大きくしてくれた。

◆二つ目
表紙のギミック。
実は1巻の表紙と29巻の表紙は同じ構図、同じキャラクターを描いている。
わずかな違いが、この物語の結末と相まって目の回るような酩酊感を与えてくれた。
描かれているのは、月光、エンゲキブ、一寸法師、鉢かぶり姫の四人と背景の月。以下のような差異がある。

<一寸法師>
1巻:ふくれっ面
29巻:楽しそうに笑っている
<鉢かぶり姫>
1巻:顔が見えない
29巻:笑顔が覗いている
<月光>
1巻:ニヒルな笑み
29巻:ニヒルな笑み
<エンゲキブ>
1巻:笑顔
29巻:うれし泣き
<月>
1巻:三日月
29巻:満月

大きな事を為し物語を終了させたのだから、皆笑顔なのは妥当だろう。
エンゲキブはいつでも演技出来るので1巻の笑顔は演技なのかも知れない。だけど、29巻の泣き笑いは演技では出来ない表情、本当の笑顔なのだと思う。
※29巻の涙はホワイトの汚れのように見えるが、同じ絵柄は最終話でも描かれており、そちらでは確実に涙が描かれている。
三日月は「ムーントラック」の象徴の形であり、満月はそうではない穏やかな月となる。(もしくは満月は別の世界との通路であるので、月光の帰還を象徴しているのかも知れない)
ただ月光だけ変わりが無い。
彼だけは、はじめから最後まで、同じ方向を向き、同じ信念を貫き通した。だから変わらないのだ。
それならば月光に成長はなかったのか?
いや、彼が望み戦ったのは、周りの人たちを笑顔にするためである。彼以外の全員が笑顔になっていること。これが彼の成し遂げた成果であり、成長なのだ。

◆三つ目
「めいわくな話」という書き出し。
第一話は「とんでもなくめいわくなはなしをしよう」というナレーションから始まる。
それが誰の、どのような思いから発せられた台詞なのかが最終回で描かれる。
これは確実に連載開始時からの仕込みであろう。7年の歳月を経て、きちんと円環が閉じたのだ。

物語の長さに手を出せずにいる人、途中まで読んだが中だるみに耐えられなかった人。そういう人でも「うしおととら」「からくりサーカス」を読み切った人ならば、ぜひ読破してみて欲しい。28巻までの忍耐を29巻はきちんと受けとめてくれる。
一つアドバイスするなら、一気に読んだ方が良い。雑誌掲載や単行本発刊に合わせての読破はこの作品には向いていない。今回あらためて一気に読破してみると、単行本が出る毎に読んでいたのとは大きく印象が異なる。物語の勢いを保ったまま読み切ってしまうこと。熱いものを熱いまで食べるのがこの作品に最適である。

人はなぜ物語を作るのか。
漫画という形で物語を生み出してきた藤田和日郎氏が己に問いかけ続けて得た一つの結論。
それが描かれているこの作品は、全ての創作者が触れておくべき作品なのだと確信する。

ところで主人公月光の正体について、連載途中までは別の設定で進められていたのではないかと言われている。
ネットを検索するとすぐに行き当たる割と有名な話のようだが、確かにその設定の方がしっくりくる気がするのだ。
言われているにはその作品の著作権関連の処理がうまくいかず設定を変更せざるを得なかったのだとか。
これが本当なのだとしたら、大筋に変化はなかったとしてもそのプロットくらい読んでみたいなという気になる。