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~日本人専用。だからこそ世界に通じる~
2016年公開。ゴジラシリーズ29作目にして、(日本制作としての)前作FINALWARS(2004年)から12年ぶりの復活作品。
監督は「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明。
アニメ監督として絶大な知名度と人気を持つ庵野氏は、元々ウルトラマンなどの特撮作品のマニア。アニメ作品にも特撮映画から持ち込んだ演出が多用されている。
実際に何本かの実写映画も監督しているが、アニメ作品のような高い評価は得られていない状況。
したがってこのゴジラ監督については期待と不安が入り乱れる前評判となっていたが、不安を吹き飛ばし、期待を軽く越える出色の出来であった。
もとよりゴジラ1作目は戦後の空気を引きずるまま、核実験の恐怖が蔓延する1954年に公開。核実験によって誕生したゴジラが日本を恐怖に陥れるという内容。
おそらく当時の観客達はゴジラという存在の圧迫感を現実の圧迫感と結びつけて、とんでもなくリアルに感じた事だろう。
今作においては戦争を大震災、核実験を原子力発電所と置き換え、3・11で日本が経験した絶望感を再現するがごとく構成されている。
この全体構成を着想したことがすでに素晴らしい。ゴジラの歴史と存在意義を突き詰めたからこそ手に入れた発想だろう。
※以降感想を続けるが、今作は前情報の無い方が確実に楽しむことが出来る内容なので、未見の方は読まない方が良い。
話自体は非常にシンプル。
東京湾に出現した謎の怪獣に対して必死に対応する日本政府とその実体である政治家と高級官僚。
圧倒的な破壊力を誇るゴジラに対してあまりに無力な日本政府。だが決してあきらめることなく、着実に対応を進めていく。
ついにはゴジラ無力化の方法を導き出し――。
映画は大きく2つのパートに分かれている。
その分岐点はゴジラが圧倒的な破壊を東京中心部で成し遂げる部分。
それまでもゴジラは移動するというだけで大規模な破壊をもたらしているが、しかしその規模はどこかまだ「範疇」内で有り、政府の対応が可能だという安心感があった。
そのような状況で決行されたゴジラに対する日米共同の反攻作戦。ようやくゴジラに痛手を与え、この調子だと思った瞬間、桁外れの反撃が開始される。
この絶望感がすごい。
苦しむゴジラはうつむき、津波のような赤い炎を吐いて一面を炎の海とする。ここでぎくっと驚く。
こんな火の海にされたら、もう東京は駄目なんじゃないか――。
軽く絶望したところで炎は細く収束し、徐々に青色に近づいていく。まるでレーザーのような張り詰めた凶器と化し……。
振り回される光線はビルを切り倒し、遙か遠方まで火の海に飲みこんでいく。爆撃機も撃墜され、総理大臣含む政府高官の乗り込んだヘリまでもが四散。
その有り様に、思わずため息のような、うめくような声を漏らしていた。
こりゃもう駄目だ。
取り返しがつかない。
もう日本は終わりだ……。
この感覚こそ、3・11で原発が水蒸気爆発(メルトダウン)を起こした時と同じであった。
このシーンが作品の分岐点であると思う。
そこまでが既視感の伴う3・11の再現であり、以降は絶望を希望に変えるためのおとぎ話である。
これは言い換えると前半が「現実」であり、後半が「虚構」とも言える。
今作の宣伝コピーの1つ「現実(日本)vs虚構(ゴジラ)」。
これは様々に解釈できるコピーだが、映画を見る前から非常な違和感を感じていた。
せっかく幾多の努力を尽くしてリアルに描いたゴジラを、そもそも一文の元、「虚構」つまりは「偽物」と言い切ってどうするのだ、と。
冷や水をぶっかけるようなコピーに不安感が増したが、作品を見て、異なる解釈が見えてきた。
「現実(絶望)vs虚構(希望)」
現実の絶望を打ち返す虚構の希望。
3・11以降、我々はなんだかんだと平穏を取り戻してきたが、それは時間をかけて絶望を薄めていったような印象だ。
映画にあるような、一気呵成に事態を収束するような物では無かった。
しかし、振り返って考えるに、3・11から現状までに起こった変化は、ゴジラを何とか無力化したのと同様の大きなものではないか。
少しずつの変化であるため気がつきにくいが、日本国が成し遂げた復興は素晴らしい規模と速度だ。
これを濃縮し、短時間に描いたのが、後半の虚構部分ではないだろうか。
あまりにご都合主義で一気に嘘くさく感じる後半部分の展開。しかし胸の空くような反撃。
虚構に感じられるこのようなことは、しかし実際にはすでに成し遂げられた現実なのだ。
そうしてみると、ゴジラ自体は街中にあるままで、問題は決着しておらず、目を反らすことも出来ないというエンディング。
これは我々の現況にまったく符合するのではないだろうか。
複数の意味が混在となった「現実vs虚構」という言葉は、確かにこの映画を表するのにぴったりなのかも知れない。
第一作のゴジラは海外でも大ヒットとなった。
しかし、海外バージョンは核やアメリカに対する不信感を感じさせる部分はすっぱりとカットされているらしい。
「派手でリアルな怪獣もの」としてヒットしたに過ぎない。本来のゴジラを鑑賞することが出来るのは、あの時代の日本を知った者だけなのである。
今作はどうだろう。3・11の体験が前提条件となっており、それを知らない者には分かるはずがない。
核に対する長年の不信と許容。段取りを踏まなければ動けない日本のシステム。これらに対する理解も前提条件だろう。
あまりに日本向けすぎる内容なのだ。
このまま公開しても、海外でヒットは望めないだろう。
ただし、このあまりに特化した前提の多い映画は、特定の観客にとんでもないトゲを突き立てるのでは無いか。
世界の誰が見ても楽しめる映画は、無国籍ののっぺらぼうだ。
反してシン・ゴジラは閉塞的村社会に代々伝わった起源も定かではない不気味な行事、それが生み出した神像のようなものだ。
そういうものを内包している文化は根が深く、強い。呪いのような情念が良くも悪くも地盤を固めている。
いまや世界を席巻している、日本のポップカルチャー、マンガ、アニメ、アイドルも、本来同じような存在ではなかったか。
それらはかつて異質で薄気味悪いものであったろうに、いつの間にか世界に理解者を増やしている。
少数の人間には、必要なはずの前提条件を越えて、刺さったのだ。
刺さったあと、前提条件を乗り越えるような者たちに届いたのだ。
シン・ゴジラも同様の存在になり得るのではないか。
不評渦巻く世界公開の中、心臓を鷲づかみにされる者が居て、そこから根が広がっていくのだ。
そんな夢想が浮かぶほど、このコンテンツは、あまりにエスニックで独特で、他に類の無い物なのだ。
最後に特筆したいのは、この作品に出てくる人物の全てが、前向きで善人であるということ。
長い会議や縦割り組織、責任を回避しようとする動きが前面に出ているためそれと感じにくいが、全員が全員、自分の立場で前向きに努力している。
笑いの対象になっている総理大臣さえもが、システムの一要素になって選択の余地なく責任を負わされる存在として描かれ、このような切り口で総理大臣を描いた作品は見たことがない。
日本人が、日本人の経験の上でのみ味わうことのできる、皆で一生懸命がんばる話。
こんな優しい物語、そうそう出会えないよ。
庵野氏の振り絞った人間賛歌に、乾杯。
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