★★★★★
~希有な映像体験~
宮沢賢治の作品を手練れの職人がかっちりと映像化。
驚くべき映像クオリティと豊かなイマジネーション。
ジブリをはじめとする日本的なアニメーションとは印象を隔し、なおかつピクサーのCGアニメーションとも違う手書きアニメーション。ほかでは観ることの出来ない映像世界が豊穣に実っている。
猫の擬人キャラクターによる宮沢賢治の映像化というと
「銀河鉄道の夜」が先鞭だが、それもそのはず、
監督、キャラクターデザインなどのスタッフが同じ顔ぶれとなっている。
宮沢賢治の透明感溢れる世界と抑えがちな表情の猫達の組み合わせは、もうそれだけで心をときめかせる。思うに、人間ではなく猫の姿を借りることで、不思議な世界とのバランスがぴったり合い、凹凸のない映像として心に迫ってくるのだろう。
物語は未読であるし存在さえ知らなかった。ただ、寒村の貧困を解消したいという熱意と自己犠牲精神の貴さを童話に託したその内容は、自分の知る宮沢賢治の姿そのままであり、見知った作品達と何らぶれのない内容だった。
物語自体は、おそらく銀河鉄道の夜ほどの一般性を持たない。単純にいうと地味でキャッチーではない。しかしそれが映像になったとたん、胸を詰まらせるような一途と切なさに満ちて、忘れられない映像体験となる。
言葉ではなく、映像で示すということ。
この映画には、昨今の映像作品で軽視されがちな基本原則が脈々と受け継がれている。近年目に付く映像作品は物語の筋を示すことに汲々とし、言葉にしないと伝わらないと思いこんでいるように、状況も、心情も、肥大化した自意識のままに垂れ流す一方のものが多いように思う。
それは一つの演出、方法論ではあるが、テンポを付けるための変化球だろう。全編それでは効果的ではないし、ただの色物だ。しかし、色物が色物として目立たないほど、奇異なスタイルが蔓延している。
とどのつまり、自信がないのだ。
言葉という明確な情報伝達手段を用いねば、伝えるべき事が伝わったと確信できないのだ。優しい眼差しでほほえむだけでは伝わらぬと、「愛してる」「好きです」と飾りたて、本来の淡い色彩を台無しにしてしまう。
轟音ばかりでコントラストのない音楽。
笑い所まで指定されるテレビキャプション。
わかりやすさ、単純さをこの上ない正義だとお題目のように掲げ持ち、その実、本来のシンプルや元の形が持つ力を失っているのではないか。感じ、理解するという能力を浅くしか耕さず、根の張れない畑を作っているのではないか。
そんな中、今作は急流に屹立した岩のようなものだ。
空気が、映像とともにある。
ブドリの妹が神隠しされる場面には心臓をつぶされる。
探し求める世界の不可思議、一歩先に満ちる不安な予感。
はじめてみる都会の不思議な感触。
目の光る猫に感じる恐怖と安堵。
それらを包み込み、満ちている、なぜか分からないけれど優しい気持ち。
この映画は「観る」のではなく「体験」するものだ。
丁寧に整えられた滑らかな映像の中に吸い込まれ、ブドリと一緒に不思議な体験をする。見終わった後に残る寂しさ、侘びしさ、暖かさ、心強さ。
マイナーとしかいいようのない作品だが、希望ではなく確信として、この作品は後年名声を勝ち得ていく名品だ。観た者の心に根を下ろし、いつか再び花を咲かせる感性の種だ。
あの「銀河鉄道の夜」を一生忘れないのと同じように、「グスコーブドリの伝記」も人生に寄り添って、きっと消えない。