ラベル ★★★★★ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ★★★★★ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年3月8日月曜日

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇


★★★★★
~一緒に変わってきてくれた~


 延期に継ぐ延期を経て、ようやく今日2021年3月8日に公開されたシン・エヴァンゲリオン。新劇場版四部作の最終となる作品を先程みてきた。
 パンフレット含めて他の情報が入る前に、自分のファーストインプレッションをネタバレにならないよう書いておこうと思う。様々な考察を経ての感想は、また書く機会があるだろう。
 

・とても良い幕引きだった

 三作目の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」は非常にショッキングな内容で、ファンにとっては辛い内容だった。状況として墜ちきった形で終幕するため、いったいこの後どうなるのかと、評価を宙に浮かされたまま8年。この風呂敷を綺麗に畳むことはもはや出来ないだろうと思っていたが、これ以外は望めないだろうという形に至った終劇だった。
 特に各キャラクターの結末について、皆がきちんと幸せになる道筋を見いだせた点が嬉しい。
 振り返ると今作の着地点は『序』から積み上げられている物で、長い雌伏お見事です。
 

・Qがあってこそ

 Qがあってこその今作になっている。闇が深いほど、夜明けのコントラストは凄まじい。
  ※ただ8年はタメには長すぎるよね……。

・古いファンにとても誠実な内容

 TV版は26年前の作品となり、まさに四半世紀が経過している。今作は、その長い時間をシリーズと一緒に過ごしてきた視聴者に、とても誠実な内容になっている。
 自分(庵野監督)の葛藤をさらけ出したような生々しい感触がエヴァらしさの一端だと感じているが、つまり庵野氏も同じく長い時間をかけてシリーズに向き合ってきている。当時感じていたことが、時代を過ごして変わる事もあるだろう。むしろ変容していくことが当たり前だ。
 今作は、長い期間における作り手の変化を素直に認め、丁寧に総括している。同じく長い時間をかけて変容してきた受け手にとって、一緒に歩いてきた作品だと、強く感じさせてくれるのだ。
 みんな大人になったねと、作り手、受け手、キャラクターによる幸せな同窓会であり、これからも生きていこうと互いに肩をたたき合う感触。

・旧劇場版「Air / まごころを、君に」をもう一度見たくなる 

 テーマや描きたいことは旧劇、そしてテレビ版から同じで、驚くほどぶれていない。ただ、過去作はテーマを示す方法、見せ方が、子供っぽく強引で共感を得にくかったと思う。
 時を経てそれが整い、とても分かりやすく、優しい心根で展開されているのが今作だ。
 だからもう一度「Air / まごころを、君に」を見てみたいと思った。きっと昔と違う見え方がするだろう。

2020年10月12日月曜日

TENET

※アマゾン商品(パンフレット)へのリンクです。

~映像の圧倒的説得力~
★★★★★


 2020年。クリストファー・ノーラン監督による時間反転SFスパイ映画。
 

 ウクライナのオペラ劇場で「プルトニウム」の争奪を目的としたテロが発生。
 CIAに所属する主人公(名もなき男)は目標物の確保に成功するが、それはプルトニウムではない謎の金属塊であった。
 その後敵勢力に捕らえられ拷問にかけられるも、口を割る前に服毒に成功、自死をもって機密を守った――。 
 目が覚めると一連の経緯はとある活動に従事するためのテストであり、それに合格したと告げられる。
 目的は「世界を第三次大戦による滅亡からすくう」こと。続いて明かされたのは、未来から時間を逆行する物質が現在に送り込まれているという事実。
 複雑に入り組んだ二つの勢力の戦いは規模と混迷を拡大させていく――。

 導入やあらすじからこの映画の魅力を想像するのは非常にむずかしい。物語が複雑で面白さを説明するにはその全てを並べ立てる必要があるのだ。これはノーラン監督の作品全般に言えることで、上映時間中積み上げて積み上げて辿り着く場所(物語の頂上といえるクライマックス)からの絶景が1番の魅力であり、それを伝える有効な方法がないのだ。こういう作品が好きそうな人に、ぜひ見て欲しいと信用買いを薦めるしか手はない。
 なので、このようなブログの文面を読んでくれているあなたに、こう伝えるしかない。
 
 これは見るべき映画だ。
 
 最も伝えたいことは↑なので、ともかく騙されたと思って見て欲しい。おそらくこれ以上何を書いても、この作品を前情報無く最大限楽しむという経験を損ねてしまう。この作品は宝物のような存在で、そうそう出会えない特別な作品である。
 以下に視聴したくなるような要点だけ列記し、詳しい内容は書かずにおきたい。
 ぜひ最低限の情報だけで、この「映像体験」を満喫して欲しい。
 
 ①「時間移動」の新たな定義の新発明とそれに直結した映像表現

見慣れたはずの映像が複数重複することで生まれる、これまで誰も見たことのない異様な映像体験。

 ②作品自体がパラドックスであり、伏線の塊

考えれば考えるほど頭がおかしくなりそうなタイムパラドックスの酩酊感。正解は不明なのに、浮かび上がり、最後に心に残る金の砂粒。

 ③入り組んだ物語を分かった気にさせる様々な映画的技法

嘘の世界を現実と遜色ない体験とする、映画が持つ強い力。「なんでもCGで描ける」を越えた、説明でなく、心に投影される映像。

 いつになるか分からないが、もう一度見る機会を得た後、上記項目について詳しく書きたいと思う。

 

2020年5月25日月曜日

風立ちぬ

風立ちぬ [Blu-ray]

 ★★★☆☆
~創作という呪われた性(さが)~

 2013年公開のアニメーション映画。監督は宮崎駿。
 

 子供の頃から飛行機を作ることを夢見る堀越二郎は第二次世界大戦に向けて緊張の高まる中、飛行機の設計者として才能を開花させていく――。 

 まず、ここまで宮崎駿がパンツを脱ぎ去って自身をさらけ出した作品は、「未来少年コナン」以来初めてではないかと思う。
 コナンの時(宮崎氏37才。既婚)は、それまで自由に創作できず鬱屈、堆積したオタク願望を脅威の熱量と圧力でダイヤモンドに変質させた。その鮮やかさ、さわやかさに目を奪われるが、やりたいシチュエーションを出し切り、行きすぎて変態的な領域に突っ込んでいる箇所も多い。もちろんそれが良い!
 未来少年コナンは「原作あり」だが、初の宮崎駿が好き勝手につくったオリジナルアニメーションだと思っている。
 
 その後彼はたくさんの作品を生んでくれたが、確実におもしろい作品でありながら、「ナウシカ」や「もののけ姫」でさえどこかきれい事と感じていた。最大の理由は自分が年を取ったことだろうと思うが、何らかの窮屈さが宮崎氏にもあったのでは無いだろうか。
 何のために、誰に向けて作品を作るのか。
 彼は常にそれを大前提に物を作っているのではないかと思う。作品は自分の思いをただ叫ぶものではなく、社会に接続され時代の中で立ち位置を獲得するものだという意識。これは盟友、高畑勲監督から薫陶されたものかも知れないが、そういう作家なのだと思う。
 どんなに気楽に作ろうとしても、彼の作る作品はただのエンターテイメントではいられないのだ。良くも悪くも。
 
 そんな彼が、久々にとうとう好き勝手につくったのが、この「風立ちぬ」なのではないか。
 これまで積もりに積もったたくさんの思いを、コナン同様周囲に斟酌せずに一息に吐き出そうとした作品に思える。
 
 「風立ちぬ」は、物作りに取り付かれた男の、どうしようもない性(さが)を描く物語で、宮崎監督の私小説のようなものだ。
 失敗したり、恋に揺れたりしながら、それでも結局物作りにしか魂を捧げることができない。
 物作りのために、たくさんの人をないがしろにして、それでも価値があるのだと信じたり自分を丸め込んだり。
 結果たくさんの後悔と、先達たちとの共感、すがすがしさに救われたり、絶望したり。
 作った物の価値は時代に呑まれて転倒していき、それを目の当たりにしながらも、のめり込んでいく。
 
 飛行機づくり以外について、二郎は結構場当たり的だ。
 分かりやすいのが恋。
 宮崎駿の演出は登場人物の感情に伴って具体的に容姿を変化させる。ナウシカやラピュタでお馴染みなのが、髪が逆立つ演出。まさに怒髪天を突く。
 今作で注意すると興味深いのが、瞳の輝き。人物の心がときめいたときに、目がウルウルと輝いている。
 二郎が奈穂子と出会うシーンで、奈穂子は一目で二郎に憧れている。反して二郎が奈穂子にきちんと恋するシーンはどこなのか。それが、二郎の証言と合致しているのかどうか――。
 終盤、二郎の元を去った奈穂子を二郎は追わない。飛行機についてはあんなにも必死に食らいついた二郎が、奈穂子には冷静なものだ。
 
 だから奈穂子は、そういう男と知りながら惚れてしまった女は、一心に愛し尽くしても自分のものにならなかった男の魂に、呪いをかけるのだ。
 最後の彼女の台詞「生きて」は、絵コンテの段階では「来て」だったのだという。このシーン、二郎の心象風景であるのだから、結局彼自身の言葉といっていい。
 好きなことをやりきった男に女が優しく「来て」なんて、なんて甘ったるい結末だろう。完成した映画は「生きて」となり、続く二郎の「ありがとう」は「甘やかさないでくれてありがとう」なのだろう。
 自分は「来て」の方が好きだ。こちらの方が宮崎監督の全裸だと思うから。
  
 ふと目をあげれば廃墟であり、夢の跡形であり、愛していた(と思っていた)人の残像――。
 
 物作りに関わり、狂ったように専心した経験を持つ者にとって、この映画は大筋として理解しやすい内容ではないか。
 熱中するときの幸福感。世界と歯車ががっちりかみ合ったと感じる自身の拡張感――。
 そして、そのために二の次になっていった愛する人や物。それに対する反省を含まない悔恨の思い――。
 理屈で理解というより、心当たりがあるのだ。
 
 劇中最初から最後まで登場するカプローニとの異世界対話についても、心当たりがある。
 創作活動を続けていると、他の作品に強い共感を感じる事があるのだ。
 なぜそういう形になっているのか。なぜその選択をしたのか。
 そういうことが分かる作品がある。まさしく作品を通じた創作者との対話だ。
 作中の描かれ方では、二郎はカプローニと終生共感を保持しているが、これは幸せなことだろう。
 二郎の思いはずっと同じ方向を向いており、一途だったということだ。
 
 カプローニは、夢の中で語る。
 
 「飛行機は美しい夢だ。設計家は夢に形を与えるのだ」
 
 この言葉は創作全てに当てはまるだろう。
 映画も、小説も、音楽も、ゲームも――。
 素晴らしい輝きを感じる方向に、手を伸ばし、具体化して手元に引き寄せようとする行為だから。
 
 この映画も、無論。
 
 美しい夢だ。

2020年4月10日金曜日

怪奇ゾーン グラビティフォールズ


 ★2020年4月時点では日本語吹き替えされたDVDは発売されていないため、ディズニーチャンネルなどで見るしかありません。リンクは北米のBlu-rayで英語です。
  アマゾンでも見られますが、1話ごとでかなり高価な印象……。

 ★★★★★
 ~ワクワクと切なさのオンパレード~

 2012年から2016年にかけて制作、放送された米アニメ。テレビシリーズとして全41話となっている。
 日本では「ディズニーチャンネル」などの有料チャンネルを中心に放送された。
 
 双子の姉弟であるディッパーとメイベルは12才の夏休みを大叔父スタンの元で過ごすこととなった。
 都会暮らしの二人にとってスタンの住む町グラビティフォールズは片田舎であり、最初は気乗りしなかったが、持ち前の前向きさと好奇心で町の人々と絆を結んで行く。
 グラビティフォールズは数多くの奇妙な現象、伝承を抱えており、二人はその謎と対峙。
 やがてその現象は世界さえ巻き込む規模となっていく――。

 帰省時に実家のケーブルテレビで視聴し、続きが見たくて帰宅後ディズニーチャンネルに入ったほどおもしろい。

 一夏を田舎(彼らにとっての異世界)で過ごし、得がたい経験を経てどこか大人になる物語であり、大人が見るとどこかノスタルジックな雰囲気を感じる事ができる。子供にしか出来ないバカをやったこととか、友達と交わしたちょっとした言葉、だらしないけれど大人であろうとする年上の人々。あこがれの女性……。細かなキラキラした物が物語のそこかしこにちりばめられてある。
 子供が見てもおもしろいようで4才の息子が非常に気に入って一緒に見ていた。
 オバケ、人魚、未来人、怪物――。およそSFにあり得るさまざまな要素がこれでもかと詰め込まれており、確かに子供の好きな物ばかりだ。おどろおどろしい表現は怖がって見ない息子だが、これは絵柄がカートゥーン。パワーパフガールズみたいな表現なのでこわ過ぎないのが良いのだろう。
 上に「子供にしか出来ないバカなこと」と書いたが、実際に子供である彼にとっては今やりたいことをどんどんやって見せてくれる主人公が楽しいのだろう。難しい回しや隠喩を理解できなくとも充分に楽しむことが出来るのだ。
 
 この作品を見るまでは海外のアニメシリーズに触れる機会がほとんどなく、ポパイやトムジェリのクラシックなものや忍者タートルズくらいしか見たことがなかった。イメージとしては手間(動画枚数)はかかっているが、大袈裟にドタバタするわびさびのない子供向けというもので、どこか格下に見ていた。パワーパフガールズは抽象化されたデザインとかわいらしさが大好きだが、スタイリッシュアンパンマンくらいの認識。
 
 そんなこと全然なかった。
 
 今作をきっかけにディズニーチャンネルで放送されている作品を色々見てみたが、ミッキーマウスを初めとするいわゆるディズニーアニメ、映画以外にも多くの作品があり、子供が見てもおもしろい大人向け作品が数多く存在していた。
 「フィニアスとファーブ」「スターバタフライ」など気に入った作品も多々。
 
 いくつかの作品で共通して言える(僕の気に入った作品の)特徴は以下のような感じ。
 海外ドラマでも踏襲されている特徴なのかもしれない。
 
 ・始め可笑しくてやがてシリアス
  シリーズの初めの方はギャグ要素が強く、ドタバタ喜劇の感が強い。
  気軽に見る事のできる敷居の低さ。
  終盤からはそれまで出てきた複線を回収しながらどんどんシリアスになっていき、目が離せなくなる。

 ・一話で綺麗にまとまる脚本の巧みさ
  一つのエピソードが基本的にその中で綺麗に収まる作り。
  膨らみすぎたような話でも急転直下の落ちに持ち込んだり、非常にうまい。
  もちろんまとまりきれない回もあるが許容範囲内。
  シリーズ全体としては進展があったり無かったりだが、複線となるようなパーツは確実に何かしら放り込んである。
 
 ・歌が良い!
  ディズニーならではなのかもしれないが、鼻歌だったりミュージカルだったりさまざまな形で歌が差し込まれてくる。
  当然日本語歌詞になっているのだが、歌詞も歌唱も非常にレベルが高い。
  声優がそのまま歌うのが基本なのだが、みんなうまい。ディズニーお抱えの声優陣は歌えることが大前提になっていると思う。
  例えば他の海外アニメ「スポンジボブ」も同じように歌が差し込まれることが多いが、決してうまいとは言えない、というかおそらく下手。

 正直言って、判で押したような内容ばかりの日本アニメに危機感を感じる。
 最近Netflixがきちんとした対価を払って日本のアニメスタジオに自社向けアニメーションを制作しており、変わっていこうとする流れを感じる。これらは高いクオリティで安定しているが、突出した勢いのない情念を感じられない作品が多い。
 旧来の低い予算のテレビアニメは人員が足りないせいだろうが良くも悪くも制作陣の個性が突出する場合があり、クオリティは安定しないが非常に出来の良い回などが散見される。
 二つの真ん中ぐらいで作品を生み出していかなければ、日本のアニメは他国に駆逐されてしまうかもしれない。

 作品以外の話ばかりになってしまったが「グラビティフォールズ」は万人にお勧めできる傑作である。
 全41話とワンクール物になれた身には長いと感じられるかもしれないが、各話マンネリとは無縁の個性的なエピソードとなっており、下手な作品を三つ(13×3⇒39)見るなら本作を見た方が絶対良い。

2020年3月4日水曜日

カビリアの夜

カビリアの夜 [Blu-ray]

 ★★★★★
~なぜ素敵な終幕なのか~

 フェデリコ・フェリーニ監督。1957年のイタリア映画。
 断片的なエピソードがその蓄積において言いしれぬ情感を醸し出す名編。
 

 カビリアは夜ごと街に立つ娼婦。働いて手に入れた小さな自分の家だけが自慢である。
 見知った仲間と賑やかに過ごしたり喧嘩したり、それでも素敵な恋と結婚を夢見ていた。
 ある時は有名俳優の恋事情の当て馬にされ、惨めに追い返される。
 またある時は御利益があるという教会に物見遊山で出かけてひどく感銘を受ける。
 そんな暮らしの中で一人の男性と出会い――。

 ★ぜひ見て欲しい映画なので、以下は見てから読んでみて欲しいと願います。
 
 この映画はエピソードを個別に見れば、かなり悲惨な物語である。冒頭からアクセル全開でカビリアがこっぴどく振られるシーンから始まる。そりゃもう川に突き落とされた上にお金を奪われるという、これ以上ないひどい仕打ちからのスタートである。
 それでもくじけず前向きに生きるカビリア。努力の末に立ち上がるというより、彼女本来が持つ世界や未来を信じる心根。幼子のような無垢な部分が自然とそうさせている印象。
 彼女は小さなときめきや幸せに心をふるわせながら毎日を過ごすが、現実はひどい仕打ちばかりを投げかけてくる。
 
 とどめは再び彼女に訪れた恋。

 見ているものは常に不穏を感じる相手の男の行動。だがカビリアはどんどんのめり込んでいく。
 自分の気持ちも、持っている物も全て投げ出して、幸せになろうと一直線に行動する。
 その素敵。
 その切なさ。
 こちらの方が神に祈りたくなってしまう。
 
 クライマックス、彼の本性が明らかになる瞬間。カビリアの朗らかさに相手も罪悪感で行動が鈍る。
 しかし、結末は変わりようがなく、状況を促す言葉を口にしたのはカビリアのほうだった。
 殺して奪っていけば良いじゃない、と。
 
 彼女は、あんなにも無邪気に嬉しそうにいたのに、これまでの様々なつらい経験を忘れていたわけではなかったのだ。
 今回も駄目かも知れない。
 まただまされているのかも知れない。
 そういった悲しい予感は観客と同様に感じていて、だけど、彼女は全力で信じることを選んだのだ。
 
 それは、祈りのような恋だったのではないか。
 
 恋が潰え、命を奪ってももらえなかった一人の女が、夕暮れにとぼとぼと歩く。
 どうしようもない結末である。
 
 物語を作る側の視点で、少し想像してみる。想像してみて欲しい。
 このままの落ち沈んだ状態ではなく、幸せな雰囲気で物語を終えるためにはどうしたら良いだろうか。
 逃げた男が帰ってくる? それは嬉しいだろう。ただ、その展開に納得するためには、前もってひどい男の様子をもっと描かなければならない。そうするとカビリアだけに注目した映画ではなくなってしまう。
 優しい友人達が迎えてくれる? 結局迎え入れてくれるのだろうが、彼女は沈んだままだ。
 あれこれ考えても、本作のエンディングの方が遙かに良いと思えてしまう。
 絶対に理屈だけでは思いつけないけれど、本作の場合はこうだ。
 
 うつむいて泣きながら歩く彼女の道に、祭に行くのか帰りなのか、はたまたただ仲間で騒いでいるだけなのか、音楽を鳴らし、踊りながら進む者たちが合流する。
 知り合いでもなく、何かを助けてくれるわけでもない。
 ただまき散らしている明るい雰囲気にカビリアも巻き込んで、踊る男が彼女におどけかけたりする。
 そうして、同じ道を同じ方向に進む。

 これだけなのだ。
 
 その雰囲気に何かほだされて、カビリアは顔を上げ、ついには微笑み映画は終演する。
 文章で書くと嘘っぽく意味不明に感じるかも知れないが、観ていると不思議なほど自然に納得できてしまう。
 それは映画中そういう描き方をずっと続けてきたからだ。
 物語の中でカビリアは沢山の他者と触れ合う。客、友人、群衆……。
 関わり合いは喜怒哀楽の様々な感情を引き連れ、カビリアはそれを素直に受けとめて暮らしている。そんな彼女にとって、どんな困難に合おうが、生きていること自体が根本的に喜びなのだ。
 
 一人でなく、今という時間の最前線で世界中の人と一緒に過ごしていくことが、生きる、ということだ。
 
 この連帯感こそが、本作のテーマなのではないだろうか。
 生きていること自体がお祭りであり、さあ一緒に楽しもう、ということだ。これは別のフェリーニ作品「8 1/2(はちかにぶんのいち)」で直接台詞としても語られている。
 
 さらにもう一つ。
 この映画はカビリアがこっぴどく失恋するところから始まった。
 彼女はひどく落胆するが、なんとか立ち直って前向きに暮らし始める。
 だから、今度もきっと大丈夫だと確信できるのだ。なんて素敵な証明だろうか。


2016年9月14日水曜日

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

★★★★★

~日本人専用。だからこそ世界に通じる~

2016年公開。ゴジラシリーズ29作目にして、(日本制作としての)前作FINALWARS(2004年)から12年ぶりの復活作品。
監督は「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明。

アニメ監督として絶大な知名度と人気を持つ庵野氏は、元々ウルトラマンなどの特撮作品のマニア。アニメ作品にも特撮映画から持ち込んだ演出が多用されている。
実際に何本かの実写映画も監督しているが、アニメ作品のような高い評価は得られていない状況。
したがってこのゴジラ監督については期待と不安が入り乱れる前評判となっていたが、不安を吹き飛ばし、期待を軽く越える出色の出来であった。

もとよりゴジラ1作目は戦後の空気を引きずるまま、核実験の恐怖が蔓延する1954年に公開。核実験によって誕生したゴジラが日本を恐怖に陥れるという内容。
おそらく当時の観客達はゴジラという存在の圧迫感を現実の圧迫感と結びつけて、とんでもなくリアルに感じた事だろう。
今作においては戦争を大震災、核実験を原子力発電所と置き換え、3・11で日本が経験した絶望感を再現するがごとく構成されている。
この全体構成を着想したことがすでに素晴らしい。ゴジラの歴史と存在意義を突き詰めたからこそ手に入れた発想だろう。



※以降感想を続けるが、今作は前情報の無い方が確実に楽しむことが出来る内容なので、未見の方は読まない方が良い。



話自体は非常にシンプル。
東京湾に出現した謎の怪獣に対して必死に対応する日本政府とその実体である政治家と高級官僚。
圧倒的な破壊力を誇るゴジラに対してあまりに無力な日本政府。だが決してあきらめることなく、着実に対応を進めていく。
ついにはゴジラ無力化の方法を導き出し――。

映画は大きく2つのパートに分かれている。
その分岐点はゴジラが圧倒的な破壊を東京中心部で成し遂げる部分。
それまでもゴジラは移動するというだけで大規模な破壊をもたらしているが、しかしその規模はどこかまだ「範疇」内で有り、政府の対応が可能だという安心感があった。
そのような状況で決行されたゴジラに対する日米共同の反攻作戦。ようやくゴジラに痛手を与え、この調子だと思った瞬間、桁外れの反撃が開始される。
この絶望感がすごい。
苦しむゴジラはうつむき、津波のような赤い炎を吐いて一面を炎の海とする。ここでぎくっと驚く。
こんな火の海にされたら、もう東京は駄目なんじゃないか――。
軽く絶望したところで炎は細く収束し、徐々に青色に近づいていく。まるでレーザーのような張り詰めた凶器と化し……。
振り回される光線はビルを切り倒し、遙か遠方まで火の海に飲みこんでいく。爆撃機も撃墜され、総理大臣含む政府高官の乗り込んだヘリまでもが四散。
その有り様に、思わずため息のような、うめくような声を漏らしていた。
こりゃもう駄目だ。
取り返しがつかない。
もう日本は終わりだ……。
この感覚こそ、3・11で原発が水蒸気爆発(メルトダウン)を起こした時と同じであった
このシーンが作品の分岐点であると思う。

そこまでが既視感の伴う3・11の再現であり、以降は絶望を希望に変えるためのおとぎ話である。
これは言い換えると前半が「現実」であり、後半が「虚構」とも言える。

今作の宣伝コピーの1つ「現実(日本)vs虚構(ゴジラ)」。
これは様々に解釈できるコピーだが、映画を見る前から非常な違和感を感じていた。
せっかく幾多の努力を尽くしてリアルに描いたゴジラを、そもそも一文の元、「虚構」つまりは「偽物」と言い切ってどうするのだ、と。
冷や水をぶっかけるようなコピーに不安感が増したが、作品を見て、異なる解釈が見えてきた。

「現実(絶望)vs虚構(希望)」

現実の絶望を打ち返す虚構の希望。
3・11以降、我々はなんだかんだと平穏を取り戻してきたが、それは時間をかけて絶望を薄めていったような印象だ。
映画にあるような、一気呵成に事態を収束するような物では無かった。
しかし、振り返って考えるに、3・11から現状までに起こった変化は、ゴジラを何とか無力化したのと同様の大きなものではないか。
少しずつの変化であるため気がつきにくいが、日本国が成し遂げた復興は素晴らしい規模と速度だ。
これを濃縮し、短時間に描いたのが、後半の虚構部分ではないだろうか。
あまりにご都合主義で一気に嘘くさく感じる後半部分の展開。しかし胸の空くような反撃。
虚構に感じられるこのようなことは、しかし実際にはすでに成し遂げられた現実なのだ。

そうしてみると、ゴジラ自体は街中にあるままで、問題は決着しておらず、目を反らすことも出来ないというエンディング。
これは我々の現況にまったく符合するのではないだろうか。
複数の意味が混在となった「現実vs虚構」という言葉は、確かにこの映画を表するのにぴったりなのかも知れない。

第一作のゴジラは海外でも大ヒットとなった。
しかし、海外バージョンは核やアメリカに対する不信感を感じさせる部分はすっぱりとカットされているらしい。
「派手でリアルな怪獣もの」としてヒットしたに過ぎない。本来のゴジラを鑑賞することが出来るのは、あの時代の日本を知った者だけなのである。
今作はどうだろう。3・11の体験が前提条件となっており、それを知らない者には分かるはずがない。
核に対する長年の不信と許容。段取りを踏まなければ動けない日本のシステム。これらに対する理解も前提条件だろう。

あまりに日本向けすぎる内容なのだ。

このまま公開しても、海外でヒットは望めないだろう。
ただし、このあまりに特化した前提の多い映画は、特定の観客にとんでもないトゲを突き立てるのでは無いか。
世界の誰が見ても楽しめる映画は、無国籍ののっぺらぼうだ。
反してシン・ゴジラは閉塞的村社会に代々伝わった起源も定かではない不気味な行事、それが生み出した神像のようなものだ。
そういうものを内包している文化は根が深く、強い。呪いのような情念が良くも悪くも地盤を固めている。
いまや世界を席巻している、日本のポップカルチャー、マンガ、アニメ、アイドルも、本来同じような存在ではなかったか。
それらはかつて異質で薄気味悪いものであったろうに、いつの間にか世界に理解者を増やしている。
少数の人間には、必要なはずの前提条件を越えて、刺さったのだ。
刺さったあと、前提条件を乗り越えるような者たちに届いたのだ。
シン・ゴジラも同様の存在になり得るのではないか。
不評渦巻く世界公開の中、心臓を鷲づかみにされる者が居て、そこから根が広がっていくのだ
そんな夢想が浮かぶほど、このコンテンツは、あまりにエスニックで独特で、他に類の無い物なのだ。

最後に特筆したいのは、この作品に出てくる人物の全てが、前向きで善人であるということ。
長い会議や縦割り組織、責任を回避しようとする動きが前面に出ているためそれと感じにくいが、全員が全員、自分の立場で前向きに努力している。
笑いの対象になっている総理大臣さえもが、システムの一要素になって選択の余地なく責任を負わされる存在として描かれ、このような切り口で総理大臣を描いた作品は見たことがない。

日本人が、日本人の経験の上でのみ味わうことのできる、皆で一生懸命がんばる話。
こんな優しい物語、そうそう出会えないよ。
庵野氏の振り絞った人間賛歌に、乾杯。

2015年11月24日火曜日

マッドマックス 怒りのデス・ロード

マッドマックス 怒りのデス・ロード [Blu-ray] 

★★★★★
~暴虐の果ての神聖~

 2015/06/27 市川東宝で鑑賞。  

 傑作であり、映画史に残る作品である。 

 マッドマックスシリーズの四作目だが、これまでの話を知る必要はない。何しろ3作目(1985年)から30年も経て生まれた最新作。今作だけで起承転結がしっかりついている。

 砂とほこりにまみれた核戦争後の世界。血とガソリンに彩られた暴力が全てを支配する。そんな設定を序盤数分できっちり説明してタイトル表示。もうここまでで世界に引き込まれてしまっている。 

 特に冒頭の一人語りのシーンは秀逸。車の脇に立つ男。手前にトカゲが……と見てみれば、双頭の奇形トカゲ。そいつが男の足下に走り寄ると男が踏みつける。それをつまみ上げると躊躇なくパクリと食べる男。細かいことはさておき、そういう世界なのだと納得させられてしまう。こういった絵の威力が全編にみなぎっている。 

 物語は常に移動を続けるロードムービーの色合いが濃い。逃げる者と追う者の疾走したままのアクションがこれでもかと続く。ほぼ全編がそういったアクションシーンなのだが、新しい敵、新しいシチュエーションが惜しみなく投入され、相対する者の関係も変化していくので最後まで飽きとは無縁。アクションとアクションをつなぐ会話シーンが良いアクセントになって緩急のある良い塩梅に落ち着いている。

 登場人物にまともな人間はいない。程度の差こそあれ、敵味方全てがどこかいびつでゆがんでいる。まさに狂気に塗り込められた世界なのだが、見ているうちに彼らの狂気は秩序がなくなり狂った世界で生きていくのに必要な心の働きなのだと感じられてくる。狂人に見えてもそれぞれに切実な想いがあり、狂気にも共感できるようになる。

 暴力が当たり前の手段として存在する荒廃した世界。それを受け容れるために組み立てられた常識、生活の仕組み。その中で必然的に立ち上がったのだろう、宗教のような枠組み。
未開部族が世界と折り合いをつけるために様々な神を打ち立て信仰するように、狂暴な世界においても同じ事が行われている。
 映像はとてつもない説得力で迫り、彼らの抱く信仰がひしひしと感じられる。

 暴虐の果ての神聖さ。

 それを感じる事ができる希有な映画。

 

2014年12月14日日曜日

アフタースクール

アフタースクール [Blu-ray]

~映画ならではの叙述トリック~
★★★★★

叙述トリックというものがある。
推理小説のトリック、手法の一つで、例えば一人称の記述で「僕は一目惚れした」と表現しておき、後に自分は女性だと開示するような内容。僕=男性という思い込みに加え、惚れた相手が女性ならばさらにだまされてしまうだろう。
叙述トリックの多くは映像では再現できない。ずっと画面に出ている主人公の性別を偽るなど映像では出来ないからだ。
※もちろん叙述トリックが肝である作品も数多く映像化されており、それぞれに一筋縄では行かない工夫で問題を乗り越えている。
今作を見終わった時、これは叙述トリックの小説を原作とした映画なのだろうかと確かめたが、映画オリジナルの作品であるようだ。

素晴らしい。

もう一度はじめから、ポイントポイントを見直してみたが、映像の叙述トリックとも言える鮮やかさで観客をだましている。大仕掛けではなく、細かな演出の積み重ねが説得力を生み出しているため、見苦しさがない。素直に見られて、素直に転がされる。これも映画の醍醐味だろう。

中学来の親友である堺雅人と大泉洋を主人公に、「学校の続き」としてある大人の世界を描く。
「アフタースクール」という題名。見終わった後にはこの言葉にも色々な意味を感じとることが出来るだろう。
あまりあれこれ書くと未鑑賞の方にいらぬ知識を吹き込んでしまうだろうから、ここまでに。

未見の方は、ぜひとも情報を集めず、まず見て欲しい作品。


2014年6月20日金曜日

インセプション

インセプション [Blu-ray]

★★★★★
~夢の説得力~

映画館→ブルーレイ→テレビ放送と三回目の鑑賞。
繰り返し見たので、順番に感銘の度合いが下がってしまうのは当然だが、それだけでは収まらない変化を楽しむことが出来た。

威力のある映像、体が震えるほどの重低音。これらを十分に楽しむなら映画館に限る。
クライマックスの連鎖倒壊シーンなどは音と映像に身を任せて体を洗われるようなものだ。映画館で観ることが出来て本当に良かった。
CG技術の進展はどのような映像も幻視可能にした。だからこそイマジネーションと物語としての説得力が問われる時代だ。
本作は夢の世界という舞台設定のもとで、非現実的な風景を、現実さながらのクオリティで映像化。まるで見ている間は本物としか思えない「夢」そのものだ。

物語は複雑で少し見逃すと後がうまくつながらない。緻密に組み立てられているからこそ、一つ一つのパーツが見落としの許されない重要な部品となっている。そのような点を考慮してだろう。テレビ放送では何とも大胆な方法でフォローを行っていた。
まず、放送時間の中程で、それまでのあらすじを説明する時間を設けている。そしてさらに先のネタバレを、結構な濃度で行っていた。確かに突然示されるより、心の準備のある方が理解しやすいと思うが、その分驚きは減衰される
加えて、画面に登場した人物について、あらすじをふまえてスーパーで説明してくれる。『犯人を追う有能な刑事』『無実の罪で追われる小心な青年』といった具合の文章がキャラクターに重ねて表示されるのだ。

他局の番組終わりに合わせて、チャンネル誘導の一手なのだろう。
このような中休みでのあらすじ提示はだいたいどの作品放送時もしているようだが、インセプションではさらに上を行く追加要素があった。
なんと、夢の階層をいちいち表示してくれるのである。
インセプションは夢の中でさらに夢を見る、という階層構造を構築し、それを最後に倒壊させる。確かに複雑で、階層が頻繁に切り替わる。その切り替わりごとに『夢の第一階層』などとキャプションが表示されるのだ。
確かに理解の一助とはなるが、複雑とはいってもそれぞれの階層で舞台や映像の質感を大幅に変えるなど、十分に配慮されている。
なんだか自転車に補助輪を付けられた上に後ろを掴んで押されている気分。子供扱いされているみたいで居心地が悪い。
字幕の映画が若い世代には敬遠されているとも聞く。思っている以上に、映画を見ることになれていない人が多いのだろう。

このような周到な補助を用意されてしまうような作品だが、ぜひともテレビ放送以外で相対して鑑賞して欲しい。
廃ビルの爆破倒壊。波打ち際の砂の城。ドミノ崩し。時間をかけてこつこつと積み上げた楼閣を一気に崩す快感は、自分で積み上げてこそその度合いも高まるだろうと思う。

すべてが過ぎ去った後に残る砂金のようなエンディング。
きらきらと輝いて、まるで夢のようだ。

2014年4月13日日曜日

グスコーブドリの伝記

 
★★★★★
~希有な映像体験~


宮沢賢治の作品を手練れの職人がかっちりと映像化。
驚くべき映像クオリティと豊かなイマジネーション。
ジブリをはじめとする日本的なアニメーションとは印象を隔し、なおかつピクサーのCGアニメーションとも違う手書きアニメーション。ほかでは観ることの出来ない映像世界が豊穣に実っている。

猫の擬人キャラクターによる宮沢賢治の映像化というと「銀河鉄道の夜」が先鞭だが、それもそのはず、監督、キャラクターデザインなどのスタッフが同じ顔ぶれとなっている。宮沢賢治の透明感溢れる世界と抑えがちな表情の猫達の組み合わせは、もうそれだけで心をときめかせる。思うに、人間ではなく猫の姿を借りることで、不思議な世界とのバランスがぴったり合い、凹凸のない映像として心に迫ってくるのだろう。

物語は未読であるし存在さえ知らなかった。ただ、寒村の貧困を解消したいという熱意と自己犠牲精神の貴さを童話に託したその内容は、自分の知る宮沢賢治の姿そのままであり、見知った作品達と何らぶれのない内容だった。
物語自体は、おそらく銀河鉄道の夜ほどの一般性を持たない。単純にいうと地味でキャッチーではない。しかしそれが映像になったとたん、胸を詰まらせるような一途と切なさに満ちて、忘れられない映像体験となる。

言葉ではなく、映像で示すということ。
この映画には、昨今の映像作品で軽視されがちな基本原則が脈々と受け継がれている。近年目に付く映像作品は物語の筋を示すことに汲々とし、言葉にしないと伝わらないと思いこんでいるように、状況も、心情も、肥大化した自意識のままに垂れ流す一方のものが多いように思う。
それは一つの演出、方法論ではあるが、テンポを付けるための変化球だろう。全編それでは効果的ではないし、ただの色物だ。しかし、色物が色物として目立たないほど、奇異なスタイルが蔓延している。
とどのつまり、自信がないのだ。
言葉という明確な情報伝達手段を用いねば、伝えるべき事が伝わったと確信できないのだ。優しい眼差しでほほえむだけでは伝わらぬと、「愛してる」「好きです」と飾りたて、本来の淡い色彩を台無しにしてしまう。
轟音ばかりでコントラストのない音楽。
笑い所まで指定されるテレビキャプション。
わかりやすさ、単純さをこの上ない正義だとお題目のように掲げ持ち、その実、本来のシンプルや元の形が持つ力を失っているのではないか。感じ、理解するという能力を浅くしか耕さず、根の張れない畑を作っているのではないか。

そんな中、今作は急流に屹立した岩のようなものだ。
空気が、映像とともにある。
ブドリの妹が神隠しされる場面には心臓をつぶされる。
探し求める世界の不可思議、一歩先に満ちる不安な予感。
はじめてみる都会の不思議な感触。
目の光る猫に感じる恐怖と安堵。
それらを包み込み、満ちている、なぜか分からないけれど優しい気持ち。
この映画は「観る」のではなく「体験」するものだ。
丁寧に整えられた滑らかな映像の中に吸い込まれ、ブドリと一緒に不思議な体験をする。見終わった後に残る寂しさ、侘びしさ、暖かさ、心強さ。
マイナーとしかいいようのない作品だが、希望ではなく確信として、この作品は後年名声を勝ち得ていく名品だ。観た者の心に根を下ろし、いつか再び花を咲かせる感性の種だ。

あの「銀河鉄道の夜」を一生忘れないのと同じように、「グスコーブドリの伝記」も人生に寄り添って、きっと消えない。

2010年6月6日日曜日

告白

 
★★★★★
~松たか子がすごい~


湊かなえの原作小説を、中島哲也監督が映像化。原作は未読。関連情報はCM以外無しという状況での鑑賞。
非常に刺激的で、熱中度の高い作品。

中学校女性教師の幼い娘が学校内で事故死。
その真相と原因と復讐が関係者の告白によって描かれる。

ともかく女教師の松たか子が良い。
冒頭、とうとうと告白を続ける女教師の緊迫した、達観した空気。これだけで見る価値がある。言葉の速度、強さ、細かなニュアンスが見る者の興味を惹いて放さない。本来の女優とは、プロの演技とは、このような強い吸引力を持つものなのだ。
松たか子が良すぎるが故に、彼女以外の要素が厳しいとも感じる。特に中学校の生徒が演じる部分は驚くほど空気が緩む。張り詰めた場面であるのに、どこが気が抜けているのだ。冷静に考えれば彼、彼女はよくやっている、高いレベルの子役だろう。だが、同じ作品内に同居されると、どうしてもその差異が目立ってしまうのだ。

映像的にも面白い。
監督の中島哲也はサッポロビールのCM「温泉卓球」シリーズや、「下妻物語」「嫌われ松子の一生」でストップモーションやCG合成、恣意的なアングルによる特異な映像表現を行ってきた。
他の作品ではけれんみが強すぎて作品と融和していないように感じたが、今作でもそれら手法は使用しつつ、作品に合う押さえた形に押さえている。緊迫した空気を茶化すことなく、日常風景におり混ざる違和感を映像として感じさせる事に成功。また、独白部分が多く映像的な見栄えの作りにくい画面に十分な魅力を与えている。
特に映画最後のもっとも力の入ったCG表現は、描こうとしたイメージと作品の中での意味、登場人物の心情が一体となり、心に深く残った。

しかし、もう一度みたいかといえば、そうでもない。
情報のない形で鑑賞できた初回に比べ、見返した時は数多くのアラが見えてしまいそうだからだ。だから、自分と同様に今作についての情報が少ない人ほど、ぜひ、そのままの状態で鑑賞してみて欲しい。
ともかく心揺さぶられることは、保証する。
松たか子の最後の台詞。そのまた最後の一言。
その一言の恐ろしさ。
それこそが、最大の「告白」だったと感じる。

2010年4月21日水曜日

第九地区



★★★★★
~ハリウッドの背理~


低予算の消えものSF映画かと思いきや、全編に緊張感みなぎる想像を超えたおもしろさ。巨大宇宙船が来訪し、すわ宇宙外交の始まりかと思いきや、知的レベルの低い使役宇宙人の難民団というのがもう尋常ではない。地球外の知的生命体とコンタクトをとるという神秘的なイメージを、戦争を経ることなく、ありふれた現実問題にいっきに持ち込んだ点が楽しい。

アイデアに溢れ、小気味よく進む物語のテンポ、胸のすく無茶無謀。ジョンカーペンター監督「ゼイリブ」からチープさを排除したような映画と言えば伝わる人が居るかも知れない。
さらに今作は、ハリウッド的な映画とは何かという疑問について、重要な示唆を与えてくれる。この作品が明らかにハリウッドらしくないものだというのではない。反対に、一見実にハリウッド的な映画なのだ。同じような場面、展開はこれまでに他の映画で見たことがあるし、VFXを駆使した奇想天外な生物、迫力ある戦闘シーンは目を見張る高いクオリティーで安定している。
それなのに、見た者は違和感を拭えない。
いつもの、よくある映画とはどこかが違うのだ。
なぜだろうと考え、内容を反芻する。自分は、物語の中で発生する状況に対して、登場人物が選ぶ選択肢に、独特の基準を感じた。

得られる答えは人それぞれかも知れないが、明らかに、それ以外の映画が一定の範囲、檻の中で作られていたのだということを認識できるはずだ。
この似て非なる感触、対照実験としての存在感は宮崎アニメに対する、ゲド戦記のようなものだ。見た目は同じなのに、中身が違う。本質を問うのにこれ以上の材料はない。ただ、ゲド戦記は作品価値として宮崎アニメに劣ること甚だしいが、第九地区は他の映画に負けない、むしろ凌駕したすばらしい作品である。
次作が楽しみな若い監督が出てきたことに、とてもわくわくする。

2009年6月11日木曜日

トランスフォーマー

 

★★★★★

~映像の力ですべてを駆逐~
CMやコピーは「地球はすでに侵略されていた」みたいな感じで、宇宙人の侵略系映画として売ろうとしているが、それは間違い。
正しいコピーは、
「変形(トランスフォーム)かっちょいい!」
もうこれがすべてで、これだけで星五つ。
話はばかばかしく、つじつまも合っていません。人情もばらばらで、どうにもまとまりません。不必要だと思える人物、シーン満載で、適切なカットで30分は短くできます。

このようなダメ要素満載にもかかわらず、それらすべてを覆す力業を披露しているのが、変形シーン、並びにロボットアクションシーンの強烈なインパクトと魅力。
思えば、物体を輪郭ではなく立体でとらえるのが西欧文明だと言われますが、確かにこれまでの洋画に出てくるロボットは基本的に骨格標本のようなタイプばかりです。もしくは油圧パイプが重機をイメージさせる、兵器系。
・ショートサーキット
・ターミネーター
・エイリアン2
・マトリクスレボリューション
この辺りのロボットを想像すれば分かりやすいでしょう。
ひるがえって、日本のロボットといえば、外見のデザインありき。外骨格です。
この違いは、西欧では写実が発展し、日本ではデフォルメした芸術が進展したことと同義です。
ところがトランスフォーマーは元は日本初の玩具とともに生み出されたアニメ。そのデザインを尊重する限り、バリバリのハリウッドなのに「外骨格」の雰囲気をとどめているのです。
もとより、商業主義、ご都合主義によりすぎだと言われるハリウッドですが、最強国家米国の心の拠り所たる文化産業。プロフェッショナルな仕事ぶりは追随を許しません。最先端の技術と最高の人材が作り上げた、日本デザインのロボット映画!
これは今のところ、唯一無二でしょう。
(ガンダムが米国で実写映画化されていましたが、あれはあちらのインディーズみたいなものだと思っています。)

従って、そのコンボイ司令(米国では違う名前になっていますが)の勇姿たるや、心震えずにはいられない、まさにイデアの実写化。
おそらくもうしばらくすれば、この驚異の映像でさえ、相対化され、通常のクオリティとして埋没していくでしょう。だからこそ、陳腐化しない今のうちにみておく一本だと思います。

……ところで、コンボイはフォルムこそ外骨格ですが、その内側には例によって筋骨組み込まれた米国テイストです。それ以外のトランスフォーマー達は、そもそもどちらかと言えば内骨格に近く、米国の趣味嗜好が変わったというわけではないようです。

銀河鉄道999

銀河鉄道999 [Blu-ray]

 ★★★★★ 
~奇跡のラストシーン~

もう何度も見ており、すでに感想も書いている。
以下は2002年の感想文。
----------------------------------------------

松本零士原作のSFロマンを二時間に凝縮。
詰め込みすぎず、足りなすぎず、適度な分量が良い。

謎の美女メーテル。一途な少女クレア。
銀河を結ぶ蒸気機関車。
天に昇って途切れる軌道。

ロマンあふれる断片が数多く心を掴む。
ラストシーン。
別れの時間を告げる時計越しに二人の姿。
同じシーンを何度も重ねる手法が、気持ちと合致する。
そしてゴダイゴのテーマ曲がかぶって。
あまりに綺麗にまとまっているため、この後出た続編が
蛇足的な扱われ方をするほど。
----------------------------------------------
今回は五年ぶり。PS3のアップコンバートで、HDテレビにて鑑賞。
DVDの限界で暗部の階調に難があったり、何より劇場では4:3だったのを、無理矢理上下を切って16:9にしてあるため、いくつか不自然なシーンが目につく。
次世代ディスクでの、4:3登場を切望。

改めて見てみても、この大冒険の起承転結を、なんとうまく一本の映画にまとめてあるものかと感心せずにはいられない。
取るべき所では間を十分に取り、はしょるべき所は一気にとばす。
原作やTVアニメとは違い、どうしてもエピソードが少なくなるため、旅路の重みを多少軽く感じてしまったり、世界の厚みが微妙に感じられたりといった点もあるが、二時間の制限の中でここまでまとめ上げたことに脱帽。

しかし、ともかく。
この映画のラストシーンは、良すぎる。
何度見ても輝きを失わず、すばらしい。
ただただ感動な訳だが、今回は繰り返し分析的に見てみた。

このラストシーンがすばらしいのは、鉄郎とメーテルの、それぞれの心の動きが見事に表現されているからだろう。
表情だけでなく、行動だけでなく、レイアウトや音楽やシーンのつながり、そのすべてで、二人の別れを表現している。
ホームで二人が語り合うシーンからスタッフロールのバックまで、一つ残らずすべてのカットが、完璧に関連して構成されている。
これは、数多くの名画の中でもまれな、奇跡的なラストシーンなのではないだろうか。

鉄郎の心細い語り。
揺るがない、メーテルの表情、その決意。
こくりとただうなずく、決定的な拒絶。
その凛としたイメージ。
母としてでなく、弁解でもなく、愛を込めた口づけ。
その二人をぽつんと写し、画面のほとんどを埋めて鳴り響く発車のベル。
走り出す列車。
ホームの端まで見送り、一度止まる鉄郎。
しかしもう一度、出来る限りの行動で気持ちを示し、メーテルと別れるために、鉄郎は線路ぎわを走る。
客車に入ったメーテルは鉄郎に気づき、窓を開けた。
メーテルの長い髪が踊り、二人は視線を交わす。
この時点で、お互いが求め合っていても、二人の別れは揺るがない。
二人とも、別れは必然と受けとめながら、それでも精一杯の思いを交わしている。
決定的なのは、メーテルが髪をかき上げるカットが、鉄郎の懸命の疾駆を挟んで三度繰り返される部分。
全く同じカットが、三回。
メーテルが、窓から身を乗り出し、髪をかく。
この瞬間、メーテルは固着された。もう犯されぬ、青春の記念碑となったのだと感じた。
そう。思い出の中では、イメージはぶれのない繰り返しなのだ。新たな情報の追加がない状態で、人は愛しい人の記憶を、繰り返す同じシーンとして思い起こす。
飛び去る999を見送る鉄郎。
涙に合わせて、ゴダイゴの名曲が開始される。
スタッフロールの中、鉄郎はとぼとぼとレールを歩き戻る。
その背中は物淋しく、あまりに切ない。
一枚の紙(スローで確かめてみたらハーロックの手配書でした)が舞い飛び、それを追って鉄郎が、振り返る。
そして、そのままじっとこちらを見つめている。
もちろん、紙切れに導かれた視線がそのまま見やっているのは、もう姿のない999であり、それが連れ去ったメーテルである。
じっと、動かない。
その間、鉄郎はなにを思うのだろう。
もう999も、メーテルも居ないことを確かめているのか。
それに連なる、これまでの旅を、一度に振り返っているのか。
最後に、鉄郎ははじかれたようにまた向こうを向き、一心に走り出す。
メーテルを追ったのと同じ情熱に見える足取り。
とぼとぼ歩き、振り返った後だからこそ、その姿は、逃げるのではなく前に進む決意なのだと感じられる――。

やはり、どうにもすばらしいラストシーンだと思う。
昔、なぜメーテルはまた旅立つのか、分からなかった。姿が変わっても、なぜ戻って来る約束をしないのか。
その不思議は、今回の鑑賞で、自分なりには解けた。
メーテルが、なぜ自分で惑星メーテルの中心に起爆装置を投げ入れることが出来なかったのか。その理由と一緒に考えることで、とても素直に理解することが出来た。

メーテルにとって、鉄郎は一人ではなかったのだ。
数多くの鉄郎と出会い、旅し、彼らの人生を操ってきた。
だから、去ったのだ。
メーテルの凛とした態度は、紛れもなく、永遠のヒロインにふさわしい輝きで。
僕は、アニメを見る人種に生まれたことを、深く感謝します。

2009年3月30日月曜日

裸の島

 

★★★★★ ~映画に台詞は必須ではない~

サイレント映画ではない。
ただ、全編にわたって台詞がない。
台詞のない映画というと、ジェスチャー主体のコメディー、字幕挿入のサイレントを連想するが、今作はただ単に台詞がないだけ。
環境音は入っているし、別に意地でも無声にしたわけでもないようで、うめき声など感嘆詞系のようなものは入っている。
台詞は無いが、それによる違和感は全くない。
それが、あるべき姿であるように、自然体で、ただ台詞が無いのだ。
以前「ユリシーズの瞳」を見た時、全編がすさまじい長回しで、映画全体のカット数が極端に少ないこと、そしてそれが自然であることに衝撃を受けたが、この作品は同様に、台詞の存在について、あれこれと考えさせてくれる。
この台詞が無い、という特徴は、映画全体の印象に大きく作用している。

今作は瀬戸内の小さな島に住む家族の営みを追うという内容である。
島には斜面しかなく、当然畑も斜面に猫の額程度。しかも水は船で別の島に汲みに出なければならないという状況。
その営みを追うのみなのである。
これに台詞がないことを考えれば、まずは退屈で見ていられないのはないかという危惧が沸くのも然り。
しかし、それは覆された。

毎日の生活の緊迫感が、すごい。

台詞がないため、映像から読み取るしかないのだが、特異な生活サイクルは簡単に先が読めない。
一瞬先の展開が想像しがたく、したがって常に不安、怖くて仕方がないのだ。眼前に無口な強面が立ちはだかっているかのように、見通しがきかない。

普段見ている映画において台詞から得られる情報がいかに大きな物であるのか、これほど感じることのできる映画は他に知らない。
この結果、なんと水をこぼさないように運ぶだけのシーケンスが、爆弾解体よりもスリリングで、初恋の物語より切ないのだ。

多くの映画を見るほど、知識や凡例と共に、先入観や理屈重視の姿勢もこびりつく。
そんなときに有効なのは、岩清水のような清涼な作品であろう。
この作品は、まこと、映画という物についての関わり方を矯正してくれる、ドクター・シネマだ。


フルメタルジャケット

 

★★★★★
~喜劇のような悲劇~



ブルーレイの高解像度で鑑賞。
当初は通常解像度との差異をあまり感じないが、後半の戦場における臨場感は次世代DVDならでは。
戦場の瓦礫や、兵士の装備のディティールが、戦場の生々しさとなって、窓から覗いている目撃者になったような気分になれる。遠方まで見渡せる砲撃シーンは圧巻。

キューブリック独特の、全編にわたる圧迫感。当たり前の世界が、ひずみ、狂っていく様子が存分に伝わってくる。
音楽センスも一線を画しており、ラストに流れるミッキーマウスの歌には、一体どういう感情が自分の中に生まれているのか把握困難にされる。

こうしてみると、次世代DVDの解像度、情報量はやはり映画鑑賞に重要だ。たとえ白黒でも、フィルムの状況さえ良ければ、DVDとは一段異なる鑑賞を楽しむことができるだろう。
なにより基本的なノイズの少なさが、鑑賞に安心感を与えてくれる。DVDではシーンによりブロックノイズやマッハバンドが見え、興ざめになる瞬間があるが、ブルーレイではその心配がまずない。ブルーレイで出ているソフトならば、ブルーレイで見た方がいい。

現在100本程度しかリリースされておらず、しかも昨今の中途半端な映画ばかり。
名画達にソース化の手が伸びるまで、どれだけ待てばいいのだろう。

PS3はじめ、最近のDVD再生機器はDVD画像を精細化して表示するアップコンバート機能に優れている。エンコード水準も上がっており、ソース自体の素性も良い。
DVDでも一昔よりはるかにリッチな体験をできるのも本当だ。

2009年2月14日土曜日

ヘドウィグ アンド アングリーインチ

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

★★★★★
~二つの魂と二つの肉体~


すげえ。
心を揺り動かされた。
★四つまでは各要素の積み上げで判断できるが、五つは違う。
人に説明できなくてもいい。共感してもらいにくくても良い。
とにかく好きで、何度も見返してしまうような作品が、自分にとっての★五つだ。

ゲイのロックミュージシャンの人生遍歴を、ライブツアーに重ねて描く。
もとは舞台ミュージカルで、主演脚本監督をかねるジョン・キャメロン・ミッチェルが、そのまま映画化した作品。
通常ミュージカルといえば、まず一点、唐突に歌い出すことを許せるか否かにかかっていると思う。が、今作はロックミュージシャンのツアーが設定なのだから、全く自然。バンド以外のバックコーラスや、その場にいる観客含めたダンスなど、ミュージカルならではの装飾過多もなく、元が舞台だったのだとは思いもよらなかった。
全編の半分以上はミュージッククリップのような演奏部分が占め、それを連結することで物語になっている。このこと自体が希有な構成でまさに唯一無二。

魂のふれあい、人間同士の隔絶。

相反するテーマが、物語設定にも、物語にも、歌詞にも深く織り込めれており、それらが複雑な味わいを醸し出す。
頭で、理屈で理解しようとすると、一貫性をとらえにくく、難解に感じるかもしれない。説明し過ぎない演出だからだ。
しかし、感情を開いて鑑賞すれば、直観で理解できる。伝わってくる。 見終わった時、自分が何か重要な物を目撃したのだと、そう感じた。

その後、何度も見返して自分なりの理解を手に入れた。
「愛の起源」では、呪われたように寂しい心、求める心を、愛の生まれた起源を説明して歌い上げる。それはよくできた絵本のように、単純で、深く、普遍的な物語。
「真夜中のラジオ」では、生きていくことの「ロックンロール」を歌い上げる。すべてが悲しくても、それでも生きていくという決意を、これまでの先達に誓う。
「Wicked Little Town」は物語中で二つのバージョンが歌われる。
それぞれが誰に、なんのために歌われるのかに注目することで、ラストの意味が分かる重要な曲だ。

どの歌も、切なく、それでいて力強く。
生きること自体が、ロックだと。
負けずに、立ち上がることが、どのような人生においてもロックなのだと。
ポジティブな魂のあり方が、ロックンロールなのだと。
自分が見終わった後、残ったのは、人間という存在への強い共感だった。
生きていくんだという、悲しくも素晴らしい、覚悟だった。

波のひいた砂浜に、そっと書かれた言葉のように。

弱々しいような、
力強いような、
祈りのような、
いろんな感情が渾然一体になった、優しい優しい物語だった。


2009年2月4日水曜日

煙突の見える場所

 

★★★★★
~人生はお化け煙突~


同じ物事も、視点が違えば、全く違った物に見える。
このテーマを様々な被写体に託し、全編に塗り込めた、漆塗りのような映画。
けっして雄弁にテーマを語るわけではないのに、見終わった後には素直にテーマが心に残っている。

「一見関係のない物を連続して映すことで、それぞれの印象の連結を操作、新たな意味を持つシーンとする」

これをモンタージュ手法とすれば、この映画はまさにモンタージュ手法の積層だが、小難しい言葉で理解するより、「良くできた隠喩の集まり」などとした方がふさわしい気がする。
話の展開としては結構悲惨で、物語のどの段階からでも単なる悲劇につなげることが出来そうだが、見ていて笑いがあふれ、ほっとする瞬間が多いのは、小津監督のサイレント「生まれてきては見たけれど」に近い感触。
男と女の人生での役割、という視点で見ても、一貫性があり興味深い考察が得られる。
曰く、男は理屈で人生を整理しようとして身動きが取れなくなり、女は感情で回りを散らかしながら、それでも前進していく。
二つの性が、ぴったりと重なるものではなくとも、お互いに掛け替えのない物として機能している姿が、ラストシーン。
 
一本の煙突なのだろうと、納得した。

緋牡丹博徒 花札勝負

 

★★★★★ ~躍動する静止画~

ローアングル。
フィックスショットのみ。
パンフォーカスではない縦構図。
長回し。
中心を外した画面構成。
フェードイン、アウトを使用しない編集。

ざっと書き出してもこれだけの強い特徴がある、あくの強い映画。
それぞれの効果が組み合わさって、格調の高さと圧迫感を保ちながら、小気味よいテンポの良さを実現している。
この相反する要素を同居させて成り立っていることが、すでに、希有。
フィックスショットのみなのに、画面の狭さや、不自然な印象が無い。ワイド画面を活かした、もはや絵画的なレベルの画面構成。それを動的につなげてみせる各種技巧の積み重ね。
強引なつなぎを堂々と行うことで、そのショックを映画的な効果につなげている。カットの不自然さがその場の臨場感を打ち出している。
緻密と大胆が、見事なバランスで画面に定着された、絵画のような美しい映画。
以下分析メモ。

○画面の品位と美しさのために
・低いカメラ視点
 自然あおりが多いことになり、画面に圧迫感、安定感が生じる。
・フィックスショットのみ
 パンや移動カメラがない。
・絵としての縦構図
 手前、奥にぼけた事物を配置することで画面の広がりを出す。
・ぼけたままの演技
 ぼけたままで事物に演技や意味を持たせる。
 意識の集中点は維持したまま、回りの状況をまろやかに説明する。
・画面左右への要素ずらし
 画面中央に主要素を配置せず、意図的に左右に大きく崩して配置。
 絵としての美しさが際だつ。

○フィックスショットの静的な印象の中でテンポ、緩急をつけるために
・アクションカットの多用
・マルチカメラ
・正面アングルの多用
・イマジナリーラインの無視多用

○独特のテンポを生み出すために
・全てカットつなぎ
 フェードイン、フェードアウトが存在しない。
・唐突なつなぎ
 本来フェードイン、フェードアウトを使う部分を逆に突然の会話でつなげる。
 これでもつながるから不思議。
・相手場所時間で即飛び
 情況が整えば一気に場面を飛ばす。
・時に情緒的
 他の部分をばさばさ端折っているので、丁寧に描く部分が際だつ。
 細切れにならず情緒的な部分がバランス良く入り交じる。

東京オリンピック



★★★★★
~夢のあとさき~


1964年の東京オリンピックの記録映画。
巨匠、市川崑がカメラ技法の粋を駆使してくみ上げた、前衛的記録映画。
ただの記録映画ではない、というか、これこそ記録映画だ、というべきか。
オリンピックという祭典の哲学、意義さえも包含した上で、普遍的な映像表現となっている。あの日あの時の記録性という部分は幾分薄れるが、その分時代を越える。

現在のオリンピックに比すれば記録も、規模も、動くお金も小さいであろう40年も前のオリンピック。
なのに、今以上に輝いて見える。
全ての人が祝福しているように見える。
選手と観客が近く、国の垣根を越えた瞬間がたくさんあるように思える。
これら感想も、そのように演出された映像が生み出す幻想なのかもしれない。
それでも、オリンピックの目指すところはここにあるのだと、あるべきだと、封じ込められた声が聞こえる。
「人類は四年に一度夢を見る」
語られるこの台詞が、幸せで、切なくて。
まごうこと無い、名編です。

冒頭、施設建設のため、破壊され、ならされていく町並み。
走る新幹線が富士山の前を走る。
ここでもう、泣ける。

劇場公開版とディレクターズカットですが、公開版の方が長々としているものの、大作感は強いので、自分の好みはそちらの方です。
あまり大きな違いはないように感じました。