2010年9月21日火曜日

シャーロック・ホームズ

~意外で正当な探偵イメージ~
★★★★☆

ロバート・ダウニー・ジュニア演じるシャーロック・ホームズ。ジュード・ロウが演じるトーマス・ワトソン。監督は「スナッチ」「ユージュアル・サスペクツ」で小気味よい物語展開を魅せたガイ・リッチー。

何しろホームズとワトソンのイメージが楽しい。破天荒で世捨て人のようなだらしのないホームズと、頑強で物々しいワトソン。一般にイメージされる二人とは、役柄が反対のようにも感じられるが、これが原作に近いらしい。どうやら「名探偵」というアイコンになった彼のイメージは、原作と切り離されて一人歩きしていたようだ。

このホームズは推理と腕力で事件を追い進める。理路整然とした推理を解説しながら披瀝するシーンはなく、一瞬のシナプスのひらめきを独特の演出で映像化している。
ホームズは推理を語らず、彼の想起した推理が映像となってそのまま描かれるのだ。過去や未来の映像が、フラッシュバック(フォワード?)となって現れる。おもしろいのが殴り合いなどの格闘シーンでもこの能力が発揮されること。相手の動き、自分の働きかけを一瞬にシミュレートする事で、詰め将棋のように相手を追いつめていく。ホームズの格闘家としての強さに十分な裏付けを与えている。

頭脳明晰で格闘上等。これではまるでスーパーマンだが、多くの欠点もホームズには備わっており、例えばあまりの偏屈、例えばあまりの生活能力の無さが、彼を魅力的なキャラクターに仕立てている。とどめがロバート・ダウニー・ジュニアの捨て猫のようにつぶらな瞳。このホームズ像は、病みつきになること請け合いだ。

実際続編の制作も積極的に働きかけられているようで、彼らとの再開が楽しみでならない。

運命のボタン

~時間がたつほど腹が立つ~
★☆☆☆☆

自意識過剰でエンターテイメントの自覚を失ったB級映画。
シックスセンス以外のシャラマン映画に近い。
曰く、もったいぶったあげく訪れる、何でもないオチ。盛り上がりようもなく、見終わった後に残るのは頭上のクエスチョンマーク。
主演のキャメロン・ディアスは安定した演技。魅力的だとも思うが、映画自体の印象を覆すことは出来ていない。

一体この映画はどういった対象に何を伝えたいのか。
制作者の気持ちがまるで伝わってこないことに不気味さを感じる。映画という存在として、ピントがぼけているのだ。
思わせぶりな部分を深く考察すれば、何か意図が見えてくるのかも知れないが、その意欲が湧いてこない。何の興味も持てない相手に対して、考えるのも面倒くさいというものだ。

なぜだろう。見終わってから時間がたつほど腹が立ってくる。
したり顔で知ったかぶりを声高々と述べる客観性のない人間。
そういう、関わりたくない人物像と印象がだぶる。

そう、この映画は鳩山元首相と存在感がそっくりだ。

トイストーリー3

~何の不満もない傑作~
★★★★

映画館で3D鑑賞。
人間には内緒で動き回るおもちゃ達の冒険。
CGアニメの黎明期を一作目で切り裂いたシリーズの三作目。長足の進歩に驚きを隠し得ない。

練り上げられたストーリーは、まるでそこしかない細い穴を通すように繊細に紡ぎあげられており、見事に感情を操作される。とぎれない見所。全体の密度も過不足無く整えられ、鑑賞中に我に戻る機会が無く、没頭して楽しむことが出来る。
敵味方、どんなキャラクターにも愛すべき点があり、それぞれの存在感に奥行きを感じる。自分は1、2をきちんと通して鑑賞したことのない曖昧な印象で3を見たが、序盤で綺麗にキャラクターを理解できるし、不都合は全く感じなかった。
が、この物語をリアルタイムに楽しんでいた世代には、特別にすばらしい作品となるらしい。

登場するおもちゃ達には持ち主がいる。
一作目では小学生だった彼は、作を追うごとに、実時間に即して大人に近づいていく。今作ではついに大学入学の年齢となり、おもちゃ達の扱いをどうするのか、愛情が深いほど苦しい状況を突きつけられる。この苦しさは、おもちゃを愛する持ち主にとっても、持ち主を愛するおもちゃにとっても同じものだ。

持っているおもちゃが動いたら楽しいだろう、という子供の夢をそのままスクリーンでかなえてくれた一作目から、おもちゃの持ち主と近い年齢で楽しむことの出来た多くの人にとって、作品中のおもちゃ達は誰でもない自分のおもちゃに等しい。今作が描くおもちゃ達との決別は、まさに自分の問題だ。
ひときわ強い感情移入をもって今作を鑑賞し、たどり着いた結末にどんなに涙しても、それは恥ずかしいことではない。また、その涙は後ろ向きの回顧的な涙ではなく、これからの人生を凛と生きていく力になる、心強い涙であろう。

最後に、ピクサーのCGアニメに特徴的な徹底したローカライズによるものだと思うが、日本人にとってもはや最大公約数的なあのキャラクターが画面に登場する。このような点も物語を身近に感じさせる一つのテクニックなのだろう。

借りぐらしのアリエッティ

 
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★★☆☆☆
~生きる目的~

あえて言い切る。
生活感が足りない。
小人達の暮らしが、画面の中から現実感を持って立ち上ってこないのだ。この言い切りに疑問を持つ方も多いだろう。
かき込まれた背景。日々の暮らしを営む、片づいていない雑多な空間。細かなところまで気を配られた演技の数々……。
ここまで描かれた世界こそが生活感ではないのか!?
確かに、努力は見て取れる。懸命に考えて、想像して、積み上げた要素の数々が画面に溢れている。しかし、ときめかないのだ。どこか他人事のまま、物語に興味を持てぬまま、上映時間を退屈に過ごすことになる。

まるで、全ての好みがそろっているはずの女性を前に、なぜか心が動かない不可思議さ。惚れる、ということが理屈ではないのと同様、映画の吸引力も計算通りに現れるものではないのだ。それは恋のように理不尽なのだ。

生活感の無さの端緒に、二つの小さな事柄を挙げよう。
一つは「豆電球」。
小人は探検のランタンとしてボタン電池で灯した豆電球を持つ。
鍛冶加工の可能な小人は豆電球に金属の覆いをつけ、取っ手をつけて使用する。なるほど、細かな設定だ。
しかしそれは、嘘くさい頭で考えただけの設定ではないか。
工作をしたことがあるものなら、豆電球の危険な熱さを知っている。
金属で形作った覆いや取っ手はすぐに熱を伝えて、とても素手では持てなくなるに違いないのだ。
また、小人にとって豆電球の光量は目をつぶすほどのまぶしさだろう。
ボタン電池を直結した瞬間画面が真っ白になって、光量を絞る仕草を見せる……といった表現があったなら、架空世界への食いつきが増しただろう。それとも、電圧などの関係でボタン電池だとあの程度の光量が実際なのだろうか。そうだとしたら、本当だけど嘘くさい表現となっている訳で、よろしくないのは変わらない。
貴重だと思える豆電球を、目の届かないリュックの背中にひっかけて移動するのも無頓着すぎる。スケールの関係で、小人にとってのガラスは鉄に等しい強度なのかも知れない。それならその差異を表現しなければ、これも嘘くさい本当、になってしまう。

つぎに、「待ち針」。
アリエッティは人間界の冒険中に待ち針を拾う。彼女にとってそれはサーベルのような大きさで、喜んでそれを服の腰部分に突き通す。
違和感を感じた。
小人達は周囲の様々な事物を丁寧に、価値ある物として扱っているように感じるのに、なぜサーベルを自分の服にそのまま突き刺して持ち運ぶのだろう。そのような巨大な穴を、大切な服に開けるだろうか。余りに無頓着ではないか。

小さいということは、確実に世界が異なる。
誰もが興味深く感じたであろう、水の表面張力の表現。ポットからカップに注ぐ紅茶の、まるで粘性の高い液体のような動き。
このように世界の物理的な感触の差異をきちんと描くのであれば、もっとそういうシーンを増やすべきだった。おそらく小人達はその体長に比して、強力な筋力を持つはずだ。虫が体長に倍する獲物を運ぶように、体が小さくなると、筋肉や骨の容量に対する強力さが目立つはずなのだ。
逆にそうではなく、筋力まで小人なのだとすれば、世界は恐ろしい驚異に満ち満ちた魔界となり、小人達が家族単体で生き抜ける環境ではあり得ない。

「日本昔話」のようなデフォルメで描かれたなら、このような細部は気にもとまらないだろう。だが、今作はジブリのリアル表現で描かれた。ならば、このようなつっこみを受けることも必然だろうと思う。
こういった、現実的なようで配慮が行き届かないどっちつかずな印象が、生活感のなさとして目に映るのだ。

監督は今回初監督となるたたき上げアニメーターの米林宏昌。
映画公開にあわせてテレビで特集された制作ドキュメントを見れば、彼に好意を覚えずにはいられない。朴訥な見た目の印象そのままの、誠実な作業を一つずつ積み上げていく姿。回りを気にしながら、譲らないところも併せ持つ強情さ。
宮崎駿監督の息子、宮崎吾郎の監督作品「ゲド戦記」は絶望的に才能を感じられない物だった。彼は絵は描けるが、映像を描くセンスがない。このまま経験を積んでも、何らかの突然変異がない限り、その直線上に価値ある作品が生まれる可能性はない。
だが、米林氏は違う。確かにアリエッティはちぐはぐな作品で、おもしろくない。だが、誠実な姿勢と今後の可能性を感じさせてくれる。現時点で才気溢れる新たな才能ではないかも知れない。だが、今回の経験を踏み台にどんどん向上していくような期待感を感じることが出来た。なにとぞこの弱々しい種火を消すことなく、宮崎駿のいなくなったジブリを、日本アニメーションを照らす強い篝火へと導いて欲しい。
以降は考え進めることを放棄した思考の残骸であるが、メモ代わりに残しておく。

◆メモその1
この映画、内容を寓話的にとらえて、考えれば考えるほど鬱になる。脚本がどろどろとしすぎだ。
小人達には「生き残る」以外の目的がない。共同体の一員として役目を果たすこともなく、生活の安定やレベル向上を目指すこともない。
借り暮らしなどといっているものの、必要な物資は借りたまま返さない。借りたものを別の形で返す気もない。良く言っても泥棒暮らし、悪く言えばただの害虫だ。
そんなアリエッティの毎日に、夢も希望も感じない。
彼女が何をがんばろうが、何を語ろうが、全て無意味だと感じ、虚無感に引き寄せられてしまう。これだけなら、景気の悪い鬱な物語だと終わっただろうが、考えたくない可能性に気がついてしまった。
この俗世間にまみれた小人のありようは、そのまま人間のことだ。
小人と人間の関係は、人間と神、もしくは人間と世界の関係の寓意ではないか。
どのように時間と手間をかけた暮らしの空間も、神の、世界の気まぐれで一晩に灰燼に帰す。
核家族化する人間社会。孤立していく家族、個人。
自然から資源を借りたまま、図々しく返さない借り暮らし。
本質的に、目的のない人生。
嫌な小人だとないう印象が、そのまま自分に流れ込んでくる。なんと痛烈な批判だろうか。
しかも、物語は希望無く終わる。
美しいラストシーンに思えるが、その実、気持ちは過去に残したままの後ろ向きの別れだ。立ち向かうことを諦めて、世の決まりに従い、それなりに生きていく。
我々の暮らしや、人生のむなしさ、空虚さを描いたのか。すばらしいと思えるものは手に届かない幻だよ、と諭す物語になってはいないか。
脚本がこのような目的を持って書かれたのかどうかは分かりはしないが、少なくとも裏に何らかのネガティブな意図を含ませているのは確信に近く感じる。
この作品を見た誰もが感じているはずだ。
結末の煮えきらなさ。心地悪さ。
その後の明るい未来を想像できない、虚無。
脚本の宮崎氏は問題意識を前向きな意欲に導くことは出来ず、監督の若い力も脚本の虚無を打ち払うことが出来なかったのだろう。

◆メモその2
ヒロインアリエッティは学校に行くわけでもなく、畑仕事をするわけでもない。この年になるまで何をしていたのか。唯一の生産的手段である「借り」には行ってなかったわけだから、いいとこ家事手伝いだろう。
母親は物欲にまみれて既得権益の保護に躍起になり、潔さのない醜悪さをまき散らす。このあたりは笑い所にしたかったのだろうが、見るからに意地悪婆のキャラクターデザインがそれを許してくれない。
寡黙な父親は結局娘にどこまでも甘い親ばかで、実際あまり役に立たない井の中の蛙。
人間側もひどい。
薄幸の美少年は大人の前ではいい顔をしながら、その実己の境遇に疲れ果てて人生を諦めている。ゆがんだ生い立ちによってか、絶対的に有利な力関係での押しつけでしかコミュニケーションをとることが出来ない。
祖母やお手伝いに至っては、ただただ人間的な魅力を感じさせない。本当に良くいそうな人物という点ではリアリティに溢れているが、見たくないたぐいの現実感だ。こちらも笑いにしようとしているところで、醜さが勝り、少しも笑えない。
アリエッティと少年が今現在美男美女だとて、彼らのゆくすえたる大人達がこんなでは、明るい未来を想像することも出来ない。
物語だけでなく、遺伝子からにじみ出る類似性の面からも未来を封殺。どこまで見る者を暗い気持ちにしたいのだろうか。

アリス イン ワンダーランド



~チェシャ猫ふわふわ~
★★★☆☆

ジョニーデップとティム・バートン。おなじみのコンビが描く、狂気と耽美の映像美学。2010年公開。シャッター方式の3D上映で鑑賞。

3D映画をみるのは4作目だったが、びっくり映画でもなくただのうたい文句でもないきちんとした3D映画。。密度の高い画面要素にさらに奥行き情報が伴った、しかし情報過多ではない、きちんと設計されている。
なんちゃって3D映画として冷笑の対象となる「タイタンの戦い」をみて、3Dもだめかなあと思った後だったので、ずいぶんと心救われた。

大人になり、結婚適齢期を迎えて己の意に添わぬ事を「仕方がない」と受け入れざるを得ない立場になったアリス。彼女の前に、今再び、懐中時計をたずさえた白いウサギが現れる。しかし再び訪れた不思議の国は、かつてのワンダーランドではなく、狂った世界(アンダーランド)になり果てていた。

ここまで前置きを聞いて、興味を引かれぬはずもない。今作は世界で記録的なヒットを記録し、ティム・バートン監督の最大のヒット作になったという。
みてみると、それにも納得。この映画楽しいよ。

もともとティム・バートン監督の真骨頂といえば、ハイテンションな登場人物の突飛な言動と、尋常ではないが統一感のある世界表現。考えてみればアリスほどこの監督に適した題材は無いのではないか。
独特の世界観を持った原作の上に、さらにいびつな妄想が積み重ねられて、アリスが再訪した世界は、まさに狂気の世界。もともと強烈な登場人物の個性がさらに際だち、物語が存在しなかったとしても、紀行物として十分に楽しむことが出来そうだ。

そして今回、物語も気持ちがいい。
大人になろうとしているアリスが、アリスであり続けながら大人になるために必要だった心の旅。それがこの物語だ。
不思議の国のあれこれは、そのまま現実の寓意として直結しており、アリスはそれらを自分の中に消化して、新しい物語へと旅立っていく。細かな理屈は必要なく、ただ気持ちとして納得できる。

心技体のそろった、バランスの良い作品だ。

蛇足だが、チェシャ猫がかわいくてたまらない。
ふわふわ浮いて、好き勝手に姿を消す笑い顔。
猫バスに似すぎだとの意見もあるが、柔らかそうな毛並みは3Dとなって魅力満点だ。

真夏のオリオン

~貧乏くさい~
★☆☆☆☆

テレビ録画で見たので公開時のテンションなどは不明だが、全編で一貫しているのが貧乏臭さ。予算少なかったんだろうなあと常に気の毒になって淋しい気分になる。

太平洋戦争末期。沖縄方面に展開された日本海軍最後の戦力である潜水艦がいかに戦い、終戦を迎えたか。そのほとんどはフィクションであろう。
このような設定であるから、舞台のほとんどは潜水艦の中であるのだが、これがどう見ても広々している。広島、呉に展示されている自衛隊の退役潜水艦を見学したが、後世のそれでさえ驚くほど狭かった。撮影の都合などがあるのだろうし、なにも現物ままにセットを作る必要もないのだが、狭苦しさを表現しようという気がないのが残念。物語の追いつめられた雰囲気も薄くなってしまっている。
その広々とした船内の綺麗さがまた安っぽい。
使い込まれた機械という風がない。軍人らしい几帳面さでいつもピカピカに磨いていたとしたらこんなもんなのかとも思ったが、それなら磨き上げるシーンを入れるべきだろう。中途半端な汚れと軽々しさが、ブリキのおもちゃに見えてしまう。地上波デジタルの高精細が逆効果だ。

さらに艦長役が玉木宏。

人気があり、演技もそこそこならば問題ないようにも思われるが、一人涼しげに超然と、浮き世離れした雰囲気に他の乗組員と大きな隔たりを感じる。印象として、重みのない夢見がちな艦長が、超絶な幸運で生き延びていく物語と思われてしまうのだ。
ライバル役となる海上の米軍駆逐艦の表現がまた安い。
ロングのイメージカットと人物バストアップの両極端。最低限の画面要素で何とか状況を説明しようと一生懸命だ。選べない手段の中でよくやっているとは思うが、やはり安っぽさは拭えない。
物語も、妙なお涙頂戴の展開ばかりに辟易。全般に冗長な雰囲気で無駄に時間をとったカットが多い気がしてならない。

結論として、全てのパートが出来うる範囲でがんばっているけど、やはり全てが安っぽい。見ていると貧乏な祖母のかつかつな生活を見ているような、切なく、淋しい気持ちになる。(そういった経験はないが)
これがテレビドラマなら、このような切なさは感じなかっただろう。映画なのにこの安っぽさ。映画の中に馬鹿に出来ない努力を感じるだけ、やりきれない思いに捕らわれるのだ。

2010年9月15日水曜日

魔法使いの弟子

~ニコラス魔界大冒険~
★★☆☆☆

ニコラス・ケイジ主演の現代魔法大戦。
ディズニー初期のアニメーション映画、ファンタジアは複数の短編からなっているが、そのうちの一編が「魔法使いの弟子」。魔法使いは髭のおじいさん、魔法使いの弟子がミッキーとなっている。ニコラス・ケイジが髭のおじいさん役というわけだ。

物語は師匠と弟子の恋愛模様を織り交ぜて展開する分かりやすい内容。さえない若者が特別な力を得て……、という定番な内容だが、特筆すべきは主人公の若者が、心底さえないという事。
普通は役としてもてない設定になっていても、主演を張るような俳優。基本的にイケメンである。美形なのにモテない、というのはなかば黙認のルールみたいなものだ。だが、今作は異なる。主演のジェイ・バルチェルは本当にもてなさそうなのだ。演技だけでは出てこない、素のイケてなさ。なにせ、特別な力を得た後でも格好良くないのだから本物だ。
しかし替わりに、非常な親近感を覚えるのも事実。物語の最後まで距離を感じることなく終劇を迎える。これはおそらく意図された物なのだ。

なにしろ、彼はミッキーマウスのよりしろなのだから。

ミッキーマウスは、おっちょこちょいで、いい具合にいい加減で、すごい力を持つということはない。そして、あふれる親近感。
その枠に制限されて、今作の主人公は最後まで間抜けなままなのだ。

そんなことで話がまとまるのか? まとまる。
ヒロインは、大活躍をした主人公に惚れるのではない。非常に見る目のある(ひょっとしたら下手物ぐいの)ヒロインは、一見からは分からない、内面の優しさ、誠実さによって、主人公に好意を寄せるのだ。主人公が立派になりすぎることなく、ヒロインの立派さによって結ばれる。
ああ、これはドラえもんではないか。

今作のプロデューサーは大作をそつなくまとめて時代にあった娯楽を提供するのに定評のブラッカイマー。たしかに全編に、ブラッカイマー節がにじみ出ている。
冒頭の一気呵成な説明シーケンスがすごい。
細かいことを気にせずに堂々と前置きを説明してしまう度胸。
序盤から出し惜しみないスペクタクルシーン。
そして期待をあおり、これはひょっとして名作か! と思わせて中盤以降下がりっぱなしのテンション。
ネタ的にはたっぷり時間をとれそうなシチュエーションをゴミのように扱ってでも前進していく潔さ。
ブラッカイマーはこうでなければね。というか、こういう映画を作る人がいなくては、業界が弱っていくと思う。時代に残るとかは気にせず、今売れるのかどうなのかという、これはこれでまっとうな視点。
見所多く、値段分楽しめるという点で、今作もきちんと価値ある「商品」で、何も考えず楽しむことが出来た。

ところでジェイ・バルチェルは、ほぼ同時期に公開されたCGアニメ映画「ヒックとドラゴン」で主人公の声優をこなしている。この主人公がまた今作に負けていないへたれ具合。へたれ役としての立ち位置を固めている。