2021年8月30日月曜日

さよならの朝に約束の花をかざろう

さよならの朝に約束の花をかざろう [Blu-ray]

☆☆☆☆
~「悪し」ときちんと書いておきたい~


 ごちゃごちゃと聞こえの良い言葉を並べて、結局雰囲気が残るだけできちんと覚えることは出来ない。

 この、題名に対する感想が、そのまま作品の感想となる。

 2018年の日本アニメーション映画。アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』『心が叫びたがってるんだ。』の脚本家、岡田麿里が初監督を務めた。

 10代半ばの若い姿のまま数百年を生きる不老長寿の一族「イオルフ」は、人里離れた土地で「ヒビオル」とよばれる布を織って静かに暮らしていた。しかし長寿の血を王家に引き入れることで王家の神秘性を高めることを画策するメザーテ国王の命により、軍人イゾルの率いるメザーテ軍が翼をもつ古の巨獣「レナト」に乗って襲来し、イオルフの里は侵略される。<ウィキペディアより> 

 RPG的な中世ヨーロッパ風の世界観の中で、長寿一族の少女と、彼女が拾い育てた普通の男の子の長い関わりを描く。
 一緒に歩める時間と、剥離して元には戻らない時間。開く一方の時間のズレが生み出すドラマ。狙いは分かるが要素、エピソードが散漫で一貫性を感じにくく、後味だけで何とかまとめるような(まとまっていない)作品に。

 この作品は、内容というよりその存在が、自分の「物語作品の受け取り方/評価の仕方」に問いかけてくる。
 
 『罪のない善意の駄作をどう評価するべきなのか』
  
 外から見ても分かる善意を発端とした創作、一生懸命作った誰にも迷惑をかけていない作品に、ネガティブな評価を挙げるのはとても気が重いものだ。
 
 たとえば優しい協調的な子ども達が力を合わせて作った「つたない絵画作品」。
 そして社会から断絶された破綻者が己のパーツをつなぎ合わせるように形作った「名画」。
 
 観衆の目前に引き出されてどちらを選ぶのかと問われたとき、いったいどちらを選べばいいのだろうか――。このやっかいな問題をこの作品は突きつけてくる。

 作品評価には様々な軸があり、状況によってその軸は切り替えられるべきだ。学校教育の一環としての評価ならば、作品自体の質ではなく過程や態度の方が重視されるべきだし、商品としてみれば売れる売れない(売れそう、売れなさそう)になるだろう。それらとは断絶した、個人の感想の場合、結局己は何を基準に作品を評価し、それをしたためるのかと問われることになるのだ。

 これは結構心理的負担の大きいことで、妙な重圧を感じる。世の中の評価と自分の評価が剥離した場合を思うと、とても怖いのだ。
 
 そういった葛藤をそれなりに経た上で、この作品に対する自分の評価は「とても低い」である。
 
 作品を、その作品としてだけで見たとき、どう感じたのか。

 制作者がどのような想いとを込めて、どういった経緯で作ったのかは作品理解の上で重要な要素であることに異論は無いが、それら作品以外の付随情報は内容をよりよく理解する手がかりに過ぎず、それ自体が評価を左右してはならないのだ。
 
 キャラクターデザインの吉田明彦氏はゲームファンにとっては特別の存在だ。『伝説のオウガバトル』『タクティクス・オウガ』といった伝説的なゲームのグラフィッカーである。デフォルメされた人物画と技術に裏打ちされた装飾デザイン、質感表現。簡素と複雑、静謐と躍動が混在した画風は、ともかく見る物にロマンをかき立てる
 彼の作風はキャラクターを自分で操作することで感情移入していく「ゲーム」というジャンルにぴったりである。良い具合に隙間があるのだ。同様の理由で小説の挿絵としても向いているだろう。
 
 ただし、どうやら映像作品のデザインには向いていなかったようだ。決められた(短い)時間でキャラクターを伝える必要のある映像作品、特に全編二時間の映画にとって、曖昧さはキャラクター理解の助けにならずむしろマイナスに。子どもから老人までの長大なスパンを追う物語なので、年代ごとのキャラクター同一性(年月による変化)を一目で理解することが大切なのだが、大して変わらなかったり、突然変わったりする不明瞭さは物語理解の壁になっている。
 音楽や小物演出でキャラを図像学的に表現するといった方法もあったのではと思うが、そういった方向への配慮は無かった。

 背景美術も壮大で緻密であり、一枚絵や挿絵としては強いのだが、人々が生きる世界としてはとんでもなく空虚だ。
 密度のスケール感が合っていない。
 あのような建築物を集積させ、美しい材質で敷き詰めた空間をあの程度の人口で構築維持できるはずがない。過去のオーバーテクノロジーで作られた都市を発見した人々がそこで暮らしているだけ、と聞けば納得できるがもちろんそうでは無いようで。
 
 こういった難は感じても、映像に魅力は十二分にある。各シーンの美しさは特筆できるクオリティであるのだが、かぶせるように残念なのは、そこで演じられる内容が――とても表層的で「演技の為の演技」にしか感じられないという点。

 脚本家という神に都合の良い台詞を言わされているだけだ。

 キャラクターがそこで生活している上で発した言葉ではなく、映画を見ている人間に必要な台詞だけが生成されている映画内で描かれている以外の時間が、キャラクター達には存在していないのだ。舞台役者が役者だと分かった上で大仰にしゃべる台詞。
 キャラクターから発せられたと感じる言葉が最後の最後までない。
 
 行動原理が一定しておらず、誰もが曖昧でふらふらしている。腹をくくって一道を進む人間がいない。
 脚本家という神に言われたからそう動いているだけ。キャラクターがみな、本心を隠してただ言うとおりにしている。口惜しく陰口を叩いていそうだ。
 
 詳細説明は許してもらって、気になった点をメモとして列記。
 
 ・久しぶりの再会なのに逃げ出した意味が分からない
 ・悲劇としても中途半端
 ・若者と年配で存在の立ち位置をくっきり分けるべき
 ・「ヒビオル」という言葉の響きがあまりに短絡過ぎて、それだけで不安
 ・織物で気持ちを伝えるという設定が上手く生かされず、縛りになっている
 ・主人公に生きていく武器がなさ過ぎる
 ・主人公一族がこれまで滅んでいないのが不自然
 ・血の通ったエピソードがまるで足りない
 ・声優に癖がありすぎ、嘘をさらに嘘くさくしている
 
 最後に――。
 
 ラストの万感を伝えるシーンに全ての焦点を合わせて全編を構成しようとしたのだと思われるが、失敗している。
 そのシーンにつながるためだけの退屈な作業を延々見せられた感じで、ドミノを並べる作業にたとえると近いのかも知れない。それらシーンにも、きちんと説得力や楽しみがなければ、物語の積み上げではなくただの作業になってしまうのだということがよく分かる。
 
 同様の一点に焦点する構成として『波の数だけ抱きしめて』と意外なほど類似しているが、完成度には雲泥の差があり、比較してみると今作のつたなさが理解しやすいかも知れない。

 もう結論は出ているのにだらだらと修辞を並べてなかなか終わらない会話のように、最後の最後まで潔くない、できの悪い作品だった。

 強い心で、明記しておく。



夜明け告げるルーのうた

「夜明け告げるルーのうた」 Blu-ray 初回生産限定版

★★★☆☆
~動きの魅力の功罪~


 2017年の日本アニメーション映画。監督は『マインド・ゲーム』『ピンポン THE ANIMATION』の湯浅政明。中学生男子と人魚の女の子の交流を描く。
 

 東京出身の中学三年生である足元カイは、日無町の父の実家で、父・祖父と三人で暮らしていた。日無は人魚の伝承のあるひなびた漁港だった。カイは感情を表に出さず、学校の進路調査には何も書かずに提出した。
 夏休みが近づいた頃、カイは自作の打ち込みを動画投稿サイトにアップする。それがきっかけで、同じクラスでバンド「セイレーン」を組んでいる遊歩と国夫からメンバーに誘われる。<Wikipediaより
 
 思いついたシチュエーション、レイアウト、画面的な喜びにあまりに引きずられ、物語全体としてのまとまりは後回しにされている印象。骨子は押さえられているので破綻した印象は少ないが、もっと丁寧に扱ったほしかったエピソードは多い。その意味でつじつまが合っていない(道理がよく分からない)部分は多く残る。だいたいは綺麗に袋に収まったが、ごつごつといびつな形が残ってしまったな、という感想。

 切れの良い動き、胸が空く映像。アニメーションの気持ちよさを堪能できる。小学校二年生の息子も最初から最後まで飽きることなく見終えることが出来た。107分というのは結構な長さであり、全体的なテンポの良さと適切な間隔で現れる見所がなせる技だろう。ちょっと怖いシーンもあるが、大丈夫だったみたいである。

 一曲の歌を中心に据えてまとめたアニメ作品としては新海誠監督の『秒速5センチメートル』が有名で、これなどはクライマックスの映像とあまりに合致するため山崎まさよしの曲「One more time, One more chance 」のプロモだとか言われたりもしている。今作で取り上げられている斉藤和義の「歌うたいのバラッド」は映画全編でまんべんなく使用されており、映画のテーマにもよく合致しているため劇伴(映画の音楽)としてきちんと機能している。実際に出てきたりはしないが、作品世界の中にも「斉藤和義」が存在していて、その曲を主人公がコピーするという立て付けになっている。

 監督の湯浅政明の、観客を引き寄せる握力が非常に強いことを、良くも悪くも再確認させられる。
 動く気持ちよさとは半ば暴力的な引力で視線を引き寄せる。だから観てしまうし、一定の満足を得られるのだが、やはり監督は根本がアニメーターなのだろう。動く気持ちよさに自身も逆らえず、シナリオよりも重視してしまう。ことシナリオとして考えた場合、オリジナル作品に首肯できる作品が少ないのだ。決しておもしろくないわけでもなく、駄作でもないが、まとまりきらないのだ。
 むしろ原作物に対して、元からある基盤に魅力をどんどんふっかけていくことで名作傑作を生み出しており、こちら路線の作品を期待する。

 <原作あり>
  『マインド・ゲーム』『四畳半神話大系』『ピンポン THE ANIMATION』

 <オリジナル>
  『ケモノヅメ』『カイバ』

 ともあれ非常に精力的に数多くの作品に関わり、実際に排出している湯浅監督は本当にすばらしいアニメーション監督だと思う。 

 3DCGではなく、線画をCG補完して滑らかに動かす技術を生かした作画を推し進めているようで、今作でも使用されている。CGというと湯浅監督のテイストとは一見相容れないように感じるが、今作の用法は動画の作成部分についてのCG。アニメーションはキーとなる原画を動画でつないで構成しているのだが、動画作成の部分をCGで行っているため、原画が押さえたアニメーションの肝を活用しつつ、非常に滑らかな動画を生成。結果、質と密度の高いシーンを量産している。

 物語としては自分の殻を破って羽ばたいていこうとする少年の姿を描いており、普遍の共感を多くの人に(うっすら)感じさせるだろう。



波の数だけ抱きしめて

波の数だけ抱きしめて [DVD]

★★★★
~最後の「叫び」にあわされた焦点~


 1991年の日本映画。青春回想映画、とでも言えば良いか。
 「バブルの、バブルによる、バブルのための」と言った雰囲気のあるホイチョイ・プロダクション三部作の最後を飾る一作。「私をスキーに連れてって」「彼女が水着にきがえたら」に続いた作品。1992年はバブルのはじけた年ということでまさに最後の落とし子だが、何かその行く末を予言しているような切なさに満ちた作品になっている。

 高校からの友人である四人の男女。大学生になってもその仲は変わらず、サーフィンで賑わう湘南でのミニFM放送に青春を燃やしていた。
 進展しない男女関係に懊悩する中、五人目の男が突然介入。恋心とミニFMに後戻りの出来ない変化を与えていく――。
 綿密に積み上げられた全編の構成には感心させられる。
 物語はとある結婚式が開かれている教会から始まり、それに集った級友達が過去を回想する形で展開していく。
 まず結婚式のシーンは白黒画面。どう見ても曰くありげな二人の男女が、かたや式の新婦、かたや遅れてきた列席者。ぱっと見て分かるかつての恋の不幸せな結末。ここから不倫関係が始まるといった雰囲気はまるで皆無のカット割りと演出。変に引っ張らずにそのまま列席者同士の車のシーンへ――。

 結末が最初に描かれている。しかも寂しい結末。
 不幸が分かっているのを前提に描かれる物語はある。
 最もなのは『タイタニック』。あの船が沈むことを知らずに見たという人は、何というか事故で映画を見たような人だけだろう。ネタバレというのではなく、来たるべき、約束された悲劇が展開されることを前提としたドラマ。一つの手法だ。

 物語はそうして列席した友人同士が車に乗り込み、懐かしい場所に行ってみるという流れで進んでいく。9年前のあの浜辺に向け、二人の車はトンネルを通る。聞こえていたFMラジオがトンネル半ばで途切れ、出口が近づくとまた聞こえてくる。こういった現象は、自分もよく体験したことがある。本当に長大なトンネルは電波のリレー処理が行われて、どの位置だろうがラジオを聞くことが出来る。(おそらく非常時の避難指示などのために法令か何かで規定されている)

 トンネルを通り抜けると、白黒の画面に色がつき、二人は9年前の学生の姿に――。

 普通白黒で描かれるのは過去のシーンだが、今作では現在が白黒、過去がカラーになっており、もうこれ自体でかなり切ない。予感されるオチの寂しさが際立つという物だ。かといって最後までその雰囲気を全うするのかというとそうでも無い。
 映画の最後にはまた現代のシーンに戻り、廃墟同然になった懐かしの場所の前で二人だべるのだが、そこに他の仲間達が集まってくる。ただし、結婚したヒロインだけは現れない。これはなかなかに潔く、立派な姿勢だ。だからこそそれ以外の者達の会話が時を経て優しく、寂しさの薄まったものとなり、懐かしくはあるけれど、皆きちんと今を向かい合っている証明となる。
 
 そして、ヒロインの結婚をきっかけに集まれたことで、皆があの日を相対化し、これからに戻っていく。最後には現在に色がつき、終わるという形。

 冒頭以外にもトンネル通過シーンは真にクライマックスといえる場面でも使用されており、このシーンのためにこの映画の全てが組み上げられている。その叫びは僕の心にも強く残っており、他の全てを忘れてもこのシーンだけは覚えていた。この映画を初めて見たのは20年以上前の大学時代だが、ハッピーエンドとは言えない結末に、そう、たぶんショックを受けて傷ついてしまった。その傷は彼の叫び声と癒着しており、もう一度観たいのだけれど、怖くて、痛い思いがいやで――何となく避けてしまっていた。それくらい、焼き付いている。

 こうして再度観ると、ショックはショックだが、なるほど見方も違ってきており、部分ではなく全体として飲み込めた気がする。

 記憶していた以上に綺麗に、きちんと組み立てられた佳作である。

 引っかかるのは、映画のまとった雰囲気が「当時ちょっと懐かしい1982年」(1982年を1991年の結婚式から振り返る内容)となっており、何というか、二重に古くさい。年代ががっちり決められているので、その再現は見事なのだろうが、年を経るごとに古びていく気がする。
 特に女性陣の日焼け表現は(本物の日焼けなのかも知れないが)塗料塗った感がひどく、ちょっとしたコメディ感が出てしまっている。
 トレンディ・ドラマ、映画に共通の欠点(もしくはノスタルジーという利点)なのだろうが、アイコンとしての美男美女が直感的に分からないというのは少し寂しいものだ。


 

2021年8月27日金曜日

プルガサリ

プルガサリ [DVD] 

★★☆☆☆
~「カンフー抜き香港映画」+「ゴジラ」~


 1985年の朝鮮民主主義人民共和国の映画。いわゆる北朝鮮の映画
 国際関係の影響で完成後10年以上公開が待たされたとか、あの金正日が自らプロデュースしただとか、ゴジラスタッフが予算使い放題とか、すさまじい売り文句のオンパレードでこれは「伝説の映画」といわれるのも理解できる。理解できるが、内容だけ見ると、まあまあ見所のある特撮映画でしかない点は押さえておくべき。日本での公開は1998年となっている。

 高麗王朝末期、苛斂誅求による飢饉で民衆は苦しんでいた。あまつさえ王朝は、農民たちの農具をとりあげ、鍛冶屋のタクセに武器を作らせようとする。これに抗議した鍛冶屋タクセは捕らえられ獄死する。しかし獄中でタクセは無念の思いを込めながら飯を練って小さな怪獣「プルガサリ」の像を作っていた。娘のアミは父の遺品として針箱にプルガサリをしまっておくが、ある日裁縫中に指先を傷つける。アミの血を受けたプルガサリには命が宿り、針などの金属を食べることで成長していく。 <Wikipediaより

 あらすじにあるように、なんと獄中に投げ入れられた飯粒でつくられたフィギュアがどんどん成長。始めは手のひらサイズから大怪獣まで大きくなるのだが、その途中の大きさがどうにも一辺倒に大きくなっている感じがしない。シーンごとの見栄えでかなり印象に差異があるように感じる。でかいのか小さいのかよく分からない感じは『大魔神』の感触に近く、あやふやな印象は身近さと不安感につながっており、怪獣らしい気味の悪さという演出とも言えるがおそらく偶然だろう。

 物語は分かりやすいが行き当たりばったりで、展開も同様のシーケンスが入れ子になっていると感じる。いつも困ったことは同じおばさんが駆け込んできて報告など、わざとコメディ調にしているのかと疑ってしまう。印象としてジャッキー若かりしころの香港カンフー映画に非常に近い。
 最後、民衆の味方である大怪獣が目的を達成した後どうなるのか。海に帰るのではない場合、何らかの破綻、破滅を招くしかないのだが、今作は鉄をむさぼる怪獣。食欲を満たすためには他の国を襲って鉄を奪うしかない! というところで極悪な展開になる前にメロドラマ調にまとまるのも綺麗。
 
 見た人誰もが感じるだろう点は二つ。

<群衆シーンすごい>
 さすが社会主義国。動員している村人、軍隊の人数がすごい! これはもう画面から如実に感じられる迫力で、同時代の他の映画と比してもかなりの物だろう。しかもみんな本気。お金で仕方なくやっているとか、気が抜けている印象はまるで無く、必死さを感じる群衆――。これも社会主義独裁国家の効果といえば効果なのか。
 群衆以外の一部小道具もすさまじく、山肌から一斉に投げ落とされる材木(製材ではなく木をそのまま引っこ抜いて乾かした感じのもの)はその物量に驚く。CGや特撮のすごさを知っていても、実物だけが持つ迫力という物は、確かにあるのだ。

<特撮シーンすごい>
 脂ののった特撮スタッフが金に糸目をつけずに制作したというのだ。すごくないはずがない。
 といっても当代の最高水準、ということなので今みるとちゃちく感じるところは多い。そんな中で際だって目を引くのが、プルガサリのバストアップだけで使用されていると思われるアニマトロニクス。中に人が入っているのではなく、精緻な模型を複数人がかりで操演しているタイプと目されるが、目の動きや口元のりりしさ、撮影時の光源調整具合などが引き出した本物感がすさまじい。
 プルガサリ炎上シーン、ミニチュアの王朝群本拠地(すごく派手で大きな正倉院みたいな建物)をぶちこわしていくシーンも目を見張らされる。
 反面アクターが入ってギャオギャオ動いているシーンは日本人が慣れ親しんだコメディ感あふれるもので、どちらかというと物語に似つかわしくない。ひょうきんさが必要の無い部分までその要素が漏れ出してしまっているのはムードを壊してしまっている。 



2021年8月15日日曜日

クライムダウン

クライムダウン[レンタル落ち][DVD] 

★★☆☆☆
~出落ちで終わると思う無かれ~


 2011年イギリス制作のサスペンス映画。日本未公開だが各種ネット配信に載っていたので割と見た人がいる印象。自分は午後ローで。
 原題「A Lonely Place to Die」で「死ぬための孤独な場所」といったところ。
 邦題はクライムが山登りの「climb」なら「手足を使ってよじり降りる」と言う感じだが、犯罪である「crime」ともかけてるのかな。

 スコットランドの登山を楽しみに来た5人の男女。広がる山岳高地をトレッキング移動中に異様な「声」が聞こえてくる。
 元をたどると林の中の一角にパイプが突き出ており、まるで空気穴のよう。声はそこから響いていた。
 状況が分からぬままあたりを掘り起こすと木の箱。その中には幼い少女が――。

 
 山登りの5人は二つのカップルとあぶれた男一人。カップルのうち一つは付き合いだしたばかりのようす。その女性とあぶれ男とは山登りのコンビとしてのつきあいは長いようで――。
 上記のような配置が割と丁寧に説明されるので、男女の恋愛駆け引きも要素に入ってくるのかなとのんきに構えていたら、少なくともそういった方向をシャットダウンする展開の続出。え~! そうなっていくの?
 
 といっても落胆するというより流れに乗ったまま楽しむことが出来る。少女が埋められていたというのは今作のフックとして最も強いが、それにまつわる謎(どうしてあのような場所に埋められていたのか)は早々に回収。これは出落ちのがっかり映画かと心配するが、逃走劇の形態がどんどん変化、その規模もどんどん膨らんでいき、これはこれで楽しめる。最後には祭りに沸く町になだれ込み、警察官を巻き込んだ大量殺人&火事と予算内で行けるとこまで行ったる感じが気持ちよいほど。

 少女埋没をきっちりフックとして設置、これは宣伝活動でネタバレになることを前提にした上で全体を組み立てているように感じる。
 
 なるほど、見終わった後にどうしても思いやってしまう大きな、もしも――。
 ――もしも、あのとき彼女を掘り出さなければ――。
 
 誰が一番の犯罪者なのか。事の発端の犯罪者はもちろんだが、命を至上としたとき、最も被害が少なかったのはどういう選択だったのか。
 いろんな食い違いと偶然……。大きな流れの中では悪人の選択も、善人の選択も、等しく意味が乏しい物なのだろうか。
 
 映像的にはスコットランドの高地の森や川が美しいが、あまり予算が無かったのか撮れるだけ撮っておいてつなげると行った雰囲気。テンポを生み出すためのスローモーションは上手に使ってあると思うがいささか頻繁すぎてだれ気味なのが残念。

 

 


 

リオ・グランデの砦

リオ・グランデの砦 HDリマスター [Blu-ray] 

★★☆☆☆
~丁寧な脚本のウエスタン~


 1951年制作の米映画。日本公開は1952年。
 名匠ジョン・フォード監督の騎兵隊三部作の一つで、後の二つは『アパッチ砦』『黄色いリボン』。
 南北戦争後インディアン討伐を任務とした騎兵隊を舞台として家族のつながりを描いた映画。
 
 西部劇とくればともかく戦闘に明け暮れるアクション映画かと思いがちだが、ジョン・フォード監督の映画は異なる。映画を作るための方便として西部劇の形をとっているが、真実描きたいのは土地に根付く人々の生活の有様であるように感じる。脚本は丁寧に丁寧に作られていて、小さな言葉の端々に含蓄や意味が垣間見える。
 

 リオ・グランデはアメリカ南部、メキシコとの国境付近であり、国境を侵犯できない両軍の合間を行き来するようにしてインディアン達の攻撃が頻発していた。部隊を指揮するカービー・ヨーク中佐(ジョン・ウェイン)は国の命令に従って国境内側での作戦を行うが被害は続くばかり。補充兵として新兵が到着するが、その中にカービーの一人息子ジェフが居た。ジェフはカービーと妻キャサリン(モーリン・オハラ)の紛れもない実子であるが、過去の事件でキャサリンがジェフを連れて別居して以来もう10年以上会っていない。親として、子として上官と部下としてぎこちないやりとりが始まるが、なんとキャサリンも乗り込んできて――。


 偶然(?)配属された息子はともかく戦場に奥さん連れ込むの? と驚くが、シチュエーションとしてはこの上なくおもしろい。実際当時の戦場がどうだったのかは分からないが、映画の中では洗濯を受け持つような婦人団が結構な人数随伴しており、それが部隊員誰かの妻や恋仲という感じ。子ども達も1ダースほど。ラッパ兵や進軍のための歌唱隊(これは要人歓迎の儀式に活躍。今作では出番がめちゃんこ多い)も賑やかで、ともかく世界大戦のイメージとは隔絶している。言うなれば貴族的趣味や様式美が色濃く残っている印象。ロマンが残った戦争。
 真実かどうかはともかく舞台背景としてとてもおもしろい。
 
 映画を観ただけでは分かりにくい部分があり、以下ははっきり理解しておいた方が楽しめる。

 
 ・南北戦争時、北軍に従軍していたカービーは命令に従って妻キャサリンの親族の農場を焼き払った
  ※このとき実際に火をつける作業に当たったのが……。
 ・それに怒ったキャサリンはジェフを連れてカービーの元から離れた
 ・離れてはいるもののカービーは二人を気にかけそれ以降の動向を把握していた


 馬の疾駆するシーンの迫力は近年の映画に負けない。というか、別次元の生々しさ。ジョン・フォードは黒澤明との会話で乗馬シーンのこつは「コマ落とし」と「土煙」だと語ったと聞いたことがあるが、まさにそれ。不自然ぎりぎりの馬の走りは、あっという間に小さくなり、また近づいてくる。ある意味特撮なのかも知れない。土煙の効果もすさまじく、画面が賑やかで変化に富む。
 白眉のローマ乗りシーン(二頭の馬を軽装させ、それぞれに片足ずつ乗せて仁王立ちの状態で疾駆)はこれはもういろんな危険性排除から今では再現不可能なのでは……。CGやVFXで似たようなシーンは作れるだろうが、さらっと長回し気味に追いかけていくようなカットは採用されずばたばたと慌ただしい物になりそうだ。

 白黒映画だが観ていると色を感じることがある。
 これは他の白黒映画でもままあることだが、明らかにそうであるという材質について色味を感じるのである。今作の場合は荒れ地とそこに生える下草。土の色と草の緑がうっすらと感じられて、あれ、古くて色あせたカラー映画だっけ? とまで混乱した。
 映像は、脳が見ているのだなあ。 

 

 

愛は静けさの中に

愛は静けさの中に [DVD] 

★★★★
~存在の隔絶と求め合う情動~

 1986年の米映画。日本公開は1987年。舞台作品を原作としている。
 

 居場所を求めて様々な場所を転々としてきた中年教師ジェームズは、とある田舎の聾唖学校の教師として職を得た。少しばかり破天荒なやり方に校長に睨まれもするが、その成果とともに認められ始める。
 サラはその学校で清掃員として働いている学校の卒業生。明らかな美人であるが、過去の経験から発話訓練を行わなかったため手話しか会話手段が無く、他人を拒絶する態度から変人扱いされていた。彼女のやりとりにたぐいまれな聡明さを感じたジェームズは惹かれ、サラの世界に踏み込もうとするが――。


 違う世界の住人の出会い、わかり合おうとする情動を描く。
 聾唖者と健常者という分かりやすい形で示されるが、これは国や男女人種、その他あらゆる人間の違い――つまりは個人と個人がわかり合おうとする人間関係全てと同義であり、非常に普遍的な物語だと思う。その困難さと懊悩の深さ――そして希望。
 
 作品として気に入ったのは、「綺麗すぎない」線引き。ロマンチックだし、官能的だが、現実はそれだけで回らないということを常に暗示させる。セックスは恋愛物語の一つの到達点であるが、今作でのそれは毎日の営みといった重さで存在している。唐突に始まるがそれによって何事か解決するわけでは無く、コミュニケーションの一つ、会話の突端だったりするだけ。
 ジェームズの生徒たちについても、多くの生徒たちは彼の授業をきっかけにして変化していくが、一人だけ、決して変わらない子どもがいる。作品のまとまりだけ考えれば気の利いたエピソードを差し込んで大団円に持ち込みたいところだが、今作ではそれはそれでそのまま――。少し物足りなく進んでいくのが日常なのだ。
 善意だけの存在も、悪意だけの存在もいない。ステレオタイプに感じられるキャラクター(校長etc.)が登場するが、きちんと謝るところは謝るし、意地を張るところは張るし、ちゃんとそれぞれの人格を生きている。

 また、二つの世界が一つに重なるという結果が今作で結ばれることは無い。

 ジェームズとサラは結局互いの違いを再認し、それでも踏み込みあって、毎日を一緒に過ごしていこうと誓い合うところで物語は終わる。どちら側の世界では無く、二人の間にある新しい世界を形作ろうとするのだ。とても誠実で前向きな、素敵な結末だと思った。

 作品中過去が多く語られるが、いちいち回想されること無くてきぱきと進んで心地よく、また想像で補うのが効果的な内容となっている。これは舞台原作である所以もあるだろう。
 ロケーションもよく、ジェームズは小さなフェリー(車が数台しか載らなそう)で毎日学校まで通っている。古いが落ち着いた雰囲気の町並みはどこか赤毛のアンの世界を彷彿とさせる。
 
 障害者ヒロイン、特に悲惨な境遇が生々しく描かれた作品は強烈に心に残る……。
 武田鉄矢の『刑事物語』一作目のヒロインはソープに身をやつした聾唖者。
 日本海と三味線が迫る『津軽じょんがら節』の盲目の少女。
 
 今作で心に残るのは、やはり二人が離ればなれになる事件でのあの「音」。
 初めて観たのは大学時代のレンタルビデオ漬けの頃だと思うが、このシーンの印象があまりにも強烈に焼き付いていた。
 
 時代に左右されない、普遍的一作。

 

 



2021年8月14日土曜日

殺人の追憶

殺人の追憶 [Blu-ray] 

~入りきれない壁~
★★★☆☆
 

 2003年に制作、公開された韓国映画。監督は『パラサイト』でアカデミー賞を取ったポン・ジュノ。

 1986年10月、農村地帯華城市の用水路から束縛された女性の遺体が発見される。地元警察の刑事パクとチョが捜査にあたるが、捜査は進展せず、2か月後、線路脇の稲田でビョンスンの遺体が発見される。どちらも赤い服を身に着けた女性で、被害者の下着で縛られた上に、絞殺されていた。<Wikipediaより>

 今作は実際に発生した「華城連続殺人事件」を下敷きにしており、公開時点でも犯人は特定されていなかった。2019年にようやく犯人が見つかったが時効が成立しており罪には問えない状況。ただし、犯人は別の強姦殺人ですでに無期懲役の執行中であったとのこと。
 
 事件を元にはしているがノンフィクションでは無くフィクション。陰惨ながらも各所魅力的な内容となっている。

 現場捜査官のパクはいわゆる前時代的な刑事。しぶとく事件にしがみついていく熱意は持つが、これが犯人だと目星をつけたら、容赦なくつきまとい、警察署内の拷問部屋に連れ込んでは都合の良い供述をさせようとする始末。スニーカーの足跡を押し込むなど証拠の捏造にも迷いが無いが今回は拉致があかない。自白強要がマスコミに漏れ捜査陣が糾弾される始末。
 そんな中、ソウル市警のソ刑事が参入。パクと異なり科学的な捜査、事実の積み上げを信条とし、拷問や強要を是とはしない。同じように強い情熱を持って犯人逮捕に挑む二人だが、対照的な存在ということになる。
 
 この構図が事件の進展に合わせて変容していくのが本作の魅力の一つ。