2020年9月24日木曜日

文豪とアルケミスト~審判ノ歯車~

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途中で見るのをあきらめた作品
 ※最後まで見てから評価すべきなので評価なし。
 ※あきらめた理由を書きます。



 二話まで視聴してやめる。
 以下推測の多い文面なので、事実と違う事も多いかも知れない。
 作品感想というより、作品を見て関連事項に対して放談したものと思って読んでいただきたい。
 
 
 2020年のワンクールアニメ。ゲームを基にしたアニメ作品だが物語を基盤としていないキャラクター偏重の、いわゆるソシャゲ的なゲームがもとになっているのでアニメーション作品にするのは非常に大変だったろうと思う。自分はそのゲームをプレイしたことはないがこういったゲームは先例に倣ってつくられており、おそらく『艦隊コレクション』『刀剣乱舞』のコピーゲームだろう。会社が同じだし、エンジンを使い回してキャラクターだけ取り換える手段はソシャゲ勃興以降当たり前の手法になってしまった。ゲーム開発者としてはモチベーションを保ちにくい作り方だが、有効な面も多い。一つ一つの作品に新たな発明を組み込んでいくのがゲーム業界の発展の礎であり、開発者の矜持だと思うが、それが縛りになるのも良くない。様々なアイデアが検討、実証され業界も40年近く(うちの会社が老舗でそのくらい)の年月が流れたのだから、「独創的なオリジナルアイデア」もそう簡単には出てこない。


 今作は芥川龍之介や太宰治といった文豪をモチーフにつくられており、彼らが著した作品を浸食する敵対勢力に対して、転生して美少年となった文豪が立ち向かっていくという設定。先に挙げた刀剣乱舞の場合は名刀を擬人化したキャラクターとなっており、ゲームを入り口として日本各地で刀剣に興味を持つ女性が増えたという。美少年をフックとし、コンテンツの奥深さは刀剣本来が蓄積してきた歴史につなげることで確保というのがうまい立て付けだ。

 キャラクター偏重のゲームは、それに対して興味を持ってくれた顧客(一言でいえばファン)に絶えることないコンテンツを供給することが何より重要である。ゲームの楽しみがそこなのだから当然だ。そのキャラのストーリー、ステージ、衣装といった燃料をくべて、顧客の情熱を燃やし続けるわけだが、安定したコンテンツ供給はとても大変である。最も簡単なのはいわゆる新しい絵柄のカードを追加すること。これなら画像さえ用意できれば良いので作業工程が短くて済む。水着やハロウィンといった季節に合わせた衣装をまとった絵にすれば物語性をある程度持たせることも出来る。これがキャラクターのエピソードともなれば、作業量は一気に膨れあがる。内容を決め、シナリオを起こし、ボイスが必要なら収録。素材がそろったら表示イラストや文章、演出効果を組み合わせてキャラ劇を作成していく。戦闘に関わる追加コンテンツならキャラクターモデル、モーションの追加にはじまりパラメータの設定、入れ込み、テストとさらに大変だ。

 こういったコンテンツの深掘りを可能とする良い手段が、「そもそも存在する事物と接続する」ことである。ゲーム運営側が新しいコンテンツを矢継ぎ早に出さなくとも、本来が持っている情報にアクセスしてもらう時間分余裕をもつ事ができる。一気に燃え上がって終わりではなく、長い時間じっくり楽しんでもらう(お金を出してもらう)鍋帽子的な煮込み料理運営スタイルだ。運営が執れる手段も多様になる。「刀剣乱舞」は刀剣だし、「艦隊これくしょん」は世界の軍艦。一時期はやった(今も、これからも継続されるだろう)「事物の美少女化によるゲーム」はこの効果を狙った点が大きい。

 さらにキャラクター作成においても開発側の負担を低減し、クオリティの安定化を図れるというメリットもある。一からキャラクターを作り上げるのはそもそも非常に大変である。これを対象事物の情報をとっかかりに作れるだけでオリジナリティの面でもゲーム内容との結びつき的にも望ましい効果が生まれる。たとえば非常に燃費の悪い戦艦を擬人化すると、大食らいですぐにお腹の空くキャラになるし、悪神を倒した伝説を持つ刀であれば、正義の心を持った英雄的キャラクターになる。どの情報を生かすかの取捨選択、他のキャラクターとの差別化などそれはそれで別のセンスが必要だろうが、取っつきやすいのは確かだ。


 さて、今作では「文豪」をモチーフにしており、なるほど彼らが持つエピソードは興味深いものが多い。著した作品も当然ながら本人にも勝る知名度と内容深さを持っている。ただ非常に苦しいのが、擬人化ではなく「本人の置き換え」になっているということだ。そして文豪は歴史上の人物というより近現代の存在なのだ。きちんと写真も残っており、事細かな(望む望まぬに関わらない)情報も存在する。美少年に食い付いて調べたら小汚い(写真古いですし)おっさんにたどり着いた場合、ファンは少なからず冷めてしまうのではないだろうか。反対に文豪にある程度のイメージを持って(国語の教科書に写真が載ってたなど)今作に触れた場合――自分はこの立場だが――よく分からんRPG風の衣装を纏ったこいつは誰やねん、ということになる。中原中也や太宰治などは人道を外れたエピソードばかりなので、それを背負った彼らにははじめからマイナス印象となってしまう。「芸術家と生み出された作品は別」というスタンスをとることで文豪のマイナスエピソードを封じ込めている読者にはなかなかつらい。

 実在の人物をキャラクター化するという手法をとっているゲームは多いが、近現代の人物を取り上げている例は多くない。その人物の本来のキャラクターが明白でありすぎるため、創作で勝手に埋める部分が減ってしまう、もしくは実際と創作のキャラクターがぶつかり合ってしまい、マイナス効果が生まれてしまうのだろう。

 さらに不思議なのはせっかくの文豪、せっかくの名作文学を題材としているのに、その作品自体を生かせていないのだ。名文の一節も朗読して作品の雰囲気を借りれば良いのに。また、改変されつつある作品世界なので、元のお話しとはどうやら異なった状況のようなのだ。第一話の「走れメロス」くらいならあらすじを知っているので改編されようとしていることが分かるのだが、第二話の「桜の森の満開の下」は読んだことがなく、どういう内容かも分からないのに知っている前提で話が進む。知っている者は改編に腹が立つだろうし、自分のように知らない者には元がどういう話なのか分からず戸惑うばかり。あらすじを冒頭に語るなどしてフォローして欲しかった。著作権の関係でそれが許されないのだろうか? 作者本人はあんなに好き勝手に扱っているのに?

 一体誰に向けて作られた作品なのか、ゲームのファン向けといってしまうならあまりに閉鎖的でメディアミックスの意味が無いではないか――。


 今作はこれらのマイナスが積み重なることで視聴を継続するのに忍耐が必要な作品となっており、自分は二話でくじけてしまった。



ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記

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※古い感想に追記をした記事です。
★★☆☆☆
~キラキラした飴玉たち~

 2007年の米映画。我らがニコラス・ケイジ主演のわずかに知的な雰囲気謎解きアクションコメディ。馬鹿映画なのだと思ってみた方がいい。

 歴史学者ベンのもとに古美術商のウィルキンソンが訪れる。彼がベンに見せたのはリンカーン大統領暗殺事件の犯人ジョン・ウィルクス・ブースの日記の失われた18ページだった。そこにはベンの祖先が暗殺事件に関与していたという記録が残っていた。ベンは、歴史的な遺産に隠された数々の暗号を解読しながら、一族にきせられた汚名をそそぐべく真相の究明に奔走する。<WIKIPEDIAより

  ヒントの連鎖をたどる宝探しが展開されるが、ひとつひとつの謎は孤立しており全体としての意味はない。これを製作者も認識しており、何と終盤では謎の提示や解法の説明をはしょりだす始末。なかなか画期的。
 どんな謎なのか良く分からないのだが、登場人物が悩んでいるから、ああ、謎に突き当たったのかと理解。分かったぞ! と叫んで仕掛けが動いていくから、ああ、解けたんだという具合。よく見たらそうでは無いのに何となくイケメンとして認識されるという「雰囲気イケメン」という言葉があるが、今作はまさに雰囲気謎解き。

 突っ込み所や謎のバカバカしさは、とにかく次の展開を見せることで置き去りにし、先へ先へと進んで行く。つまりは駄菓子屋の飴玉詰め放題でぎちぎちになった袋がこの映画。パッケージングのうまさは特筆されるべきで、際立つのは編集のうまさ。特典映像に未公開カットが沢山入っていて、それを見ればわかるが、意味不明になっても見ていて気にならないようにうまいこと編集された結果がこのテンポの良さなのだと理解できる。

 前作も同じようなテイストなので、このスタイルは狙って作られた物なのだろう。そういう意味では見事な続編で、更なる続編も劇中に予感させる。2020年時点でようやく3作目の立ち上げに動いていることが報告されたが、ニコラスがんばれるのか……。
 ともあれキラキラワクワクの詰まった飴玉の袋は家に持ち帰ってみると手に余り、忘れ去られていつか融けてしまう。この作品も、心に残り長年の価値を生むたぐいの物ではないが、一過性のときめきを楽しむのもれっきとした映画の魅力であり、大人向け「グーニーズ」と思えば実に楽しい。

2020年9月4日金曜日

タイトロープ

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★★★☆☆
~性と愛と罪~


 1984年の米映画。クリント・イーストウッド主演のセクシャル刑事ドラマ。 
 
 

 ニューオリンズ 市警殺人課のウェス・ブロック刑事は離婚後、アマンダとペニーという2人の娘と暮らしていた。歓楽街フレンチ・クォーターで働く赤毛の娼婦が殺された。娼婦は手錠をはめられ、前後から犯された上、赤いリボンで首を絞められていた。美女殺人の2人目の犠牲者だった。<WIKIPEDIAより>
 

 暴力機械としての警察、その最前線に立つ男が狂気じみた暴力にさらされる女性と子供を保護するために奔走する。犯人は性風俗に関わる女性ばかりを惨殺。それを追うブロックも次第にその狂気にあてられていく。お金を払うことで女性をものとして扱う権利を得る様々な性産業を目の当たりにしながら、同時に彼女たちを守らなければならないという社会的な要請、つまりは本能と理性に挟まれて主人公は懊悩する。離婚して男やもめになった女ひでりという設定もなかなか熱い。まさに張り詰めたロープの綱渡り。


 女性を性犯罪から守る啓蒙活動を仕事とするベリルというヒロイン役が出てくるが、本作における真のヒロイン(達)はブロックの幼い二人の娘だろう。性的欲求と切り離された愛情。守りたいと願う純粋な気持ち。まだ幼い次女とローティーンほどに見える長女(家事全般をこなしているので言動が大人びている)、そして成熟した女性としてのベリル。年齢を埋めるようにして配置された女性陣、それを襲おうとする男(犯人)と守ろうとする男。子供を息子にせず二人とも娘にしたあたり、男と女の立ち位置の違い、隔絶と理解をテーマにしているのだろう。


 犯人を特定して徐々に追い詰めていくわけだが、特にミステリー要素はない。最初の現場から「怪しい足下」として犯人は登場しており、各所でも同じように示される。「近くにいてブロックの様子をうかがっている」ということをねっちり積み上げていく手法で、得体の知れない者が具体的に近くにいるという緊迫感を盛り上げている。細かなミスリードというか、気の利いた演出を各所に盛り込んでおり映画演出の才能を感じさせる。
 特に記憶に残るのは犯人が扮したピエロがブロックの次女に風船を手渡すシーン。風船を持ったままブロックの元に戻っていく娘。それを凝視するピエロ。なにかの弾みで手を放してしまい風船は屋根の上へと舞い上がっていく。視線で追う登場人物達――。そうは見えないのだが、爆発物など何か仕掛けがあるのではと勘ぐってしまうカメラワークで、結局何も起こらず風船は舞い上がっていく。物語としては進展のない緊迫感を積み上げるシーンなのだが、それだけではないロマンを感じる。犯人としては自分の獲物を近くからじっくり見定めようとしたのかも知れないが、舞い上がった風船を目で追う間、犯人も狂気から解放された普通の人間だったのかも知れない。本来子供らしさを象徴するふわふわとした風船。そのとなりに猟奇的、性的な存在を配置して奇跡的なバランスをとっている、これぞセンス・オブ・ワンダー、名シーンだと思う。


 午後ロー枠での放送を見たのでひょっとすると性的描写はもっと激しいものだったのかも知れないが、作品としては過不足ない分量だと思う。
 全体に重々しく陰鬱でデビット・フィンチャー監督の『セブン』と同じ空気を纏っているが、着地点はこちらが遙かに人道的でむやみに傷つけられることもないので薦めやすい。セブンは気になっている女性と見に行って最悪の雰囲気でそのあとお茶した記憶があるが、こちらはこちらで性的な描写も多いので気まずさは同じくらいだったかもしれない。