作者存命中の完結が危ぶまれるマンガの筆頭である三浦建太郎のダークファンタジーをアニメ化。
アニメ化はテレビアニメでは二度目。映画は三部作が存在。一度目のテレビアニメと映画では映像化の範囲が被っているが、今回は未映像化の部分なのでまずそれが嬉しい。
範囲は「蝕」という決定的なターニングポイント、ある意味物語にリセットがかかった所から、最も大きな物語のパーツが登場するまで。
「断罪編 生誕祭の章」が中心となっている。
半端といえば半端だが、起承転結の効いた区切りの良い部分なので上手い切り取り方だと思う。
映像の方針がとても特徴的。
セルシェーダー(アニメ塗り効果)+ハッチング(カケアミのような処理)の3DCGを中心に据え、CGでは出せない表情や3Dモデルを作っていられないような部分を既存の手書きアニメで作成、こちらにもハッチング処理を乗せることで両者の絵柄を合わせている。
この3DCGにするのか手書きにするのかの判断が非常に上手く、なおかつ手描きアニメのクオリティが高いので、3DCGによる緻密さ(細かな鎧や多数の人間の動き)と情感ある手書きの魅力の良いとこ取りとなっている。
問題と感じるのは3DCGの質が手書き部分に対してあまりに劣っていること。静止画ならある程度均衡していそうなのだが、動きが厳しい。これはもうPS1時代(ゲームに本格的に3DCGが導入されたタイミング)のモーションクオリティである。人間の各部の動きが連動しておらず、人形がぎこちなく動いているというレベル。
ゲーム業界に関わっているものとしては、3DCGの質の向上を間近で追ってきたわけで、2016年にこのモーションは厳しい。
申し訳ないが、3DCGを勉強し始めた学生レベルである。例えば腕を動かすと、その反動によって体の軸が動き、バランスを取るために足や頭も動かさないとならない。これら動作は同時に、連携して発生するのだが、今作のモーションは純粋に腕を動かすだけ。プラモの肩関節を回すだけのような無機的な動きが多発している。3DCGにおける「動画崩壊」といって良いだろう。
それに加え、これこそが致命的だと思うのだが、カメラが無意味に動きすぎている。
被写体を中心にグルグル動き続け、画面の変化としては派手で目を引くが、何かを表現するために動かすという観点が抜け落ち、ただ間を埋めるための手段として動かしている。
この、「3Dになったことで(わりと)自由にカメラを動かす事ができるようになった」という手段の拡張におぼれて、分かりにくく、ダサい表現を多発したのもPS1時代の黒歴史……。
監督である「板垣伸」氏は自身のコラムで以下のようにその意図を綴っている。
『乱暴で大雑把なガッツをダイナミックなカメラで追っかけようと思ったんです。フレームにキレイに収める事ばかりじゃなく、むしろハミ出すガッツを描くつもりで。まあ実は「映画と言えばFIX(カメラ動かない)が基本!」などの90年代的映像インテリ概念がかなり眉唾だと思ってるんです自分は。もちろんFIXだって重要ですよ! でも「何をおいてもまず最初にカメラを動かすもんではない!」と決めてかかり、遂には「カメラが動くからダメ!」とインテリぶるのが眉唾なんですよ。』http://animestyle.jp/2016/09/01/10420/
決めつけは良くないし、実践してその結果を次作につなげていけば良いのだと思うが、これだけは言っておきたい。
すでにその方針はPS1時代(1994~)からゲームでも映画でも試み続けられ、その結果「意味なく動かしても良いことは無い」と分かっているのだ。
自分の経験値の低さをして、分かりきっていることを前衛のように世に問うのはあまりに恥ずかしくないか。もうみんなその方向はあかんと実践済なのだ。
板垣氏の弁では迫力のアクションシーンのみカメラを動かしているかのようだが、実際の作品内では、ただモブがしゃべるだけのシーンで視点、注視点共に動き回り、節操がない。
カメラをぶん回すのはありだが、押さえるところは押さえて、とりあえず動かす姿勢はやめろ、ということ。
どんな表現にも緩急が必要で、その差異こそがリズムやテンポを産み、作品に求心力を与えていく。
今作はずっとフルスロットルで動き回っている印象。緩急なくただうるさいだけ。これではカメラが激しく動いていることが魅力になるだろう、アクションシーンが埋没するだけだ。
※最近の映画やドラマは、これまでならフィックス(静止)していただろうカットもわずか~にズームさせるなどして画面を動かし続けている。
これは動いている事を知覚させない範囲で、画面に対する興味を保たせるための技法で、位置づけとしてはフィックスに近い。
――冷静に考えて、この情報量の画面を動かし、毎週放送のアニメを12本作るということは、それだけで賞賛に値するとも思う。
原作の重苦しい雰囲気を再現できているし、モーション以外は興醒めするような部分が少ない。
様々な問題を乗り越え、とても良くがんばったのだろうと想像に難くない。
おそらく3DCGの質が低いのを何とかするために、カメラを動かし続けるしかなかったが、それを理論武装して、さらに発信してしまったのがまずいだろう。
黙っていれば突っ込む隙も無く拍手と同情をただ受け取れていただろうに――。
テレビアニメでも3DCGの導入はどんどん加速しており、あふれた作業量は質の低い3DCGとなって現れる。
これは手描きアニメがたどった同じ轍であり、だとすると作業は海外スタジオに流れ、国内は人材のドーナツ化に見舞われる事になる。
絶望的かと言えば、会社に所属しない形のクリエーターが個人で発表する作品の質は確実に向上しており、それが商業化して覇権さえ獲得した「新海誠」氏のような例もある。
徒弟制、体育会系のような制作現場が、今の世に合った見通しの良い、意欲を活かして形にできるような形に進歩するには、どのような手段があり、また、それがきちんと再生産されていくサイクル(適切にお金になる)仕組みは、日本のアニメ界崩壊に間に合うのだろうか。ゲーム業界も同じなので人ごとではない胸騒ぎが止まらない。