2016年9月29日木曜日

ベルセルク(2016 テレビアニメ)


★★★☆☆
~PS1ゲームのデモムービー~

作者存命中の完結が危ぶまれるマンガの筆頭である三浦建太郎のダークファンタジーをアニメ化。
アニメ化はテレビアニメでは二度目。映画は三部作が存在。一度目のテレビアニメと映画では映像化の範囲が被っているが、今回は未映像化の部分なのでまずそれが嬉しい。

範囲は「蝕」という決定的なターニングポイント、ある意味物語にリセットがかかった所から、最も大きな物語のパーツが登場するまで。
「断罪編 生誕祭の章」が中心となっている。
半端といえば半端だが、起承転結の効いた区切りの良い部分なので上手い切り取り方だと思う。

映像の方針がとても特徴的。
セルシェーダー(アニメ塗り効果)+ハッチング(カケアミのような処理)の3DCGを中心に据え、CGでは出せない表情や3Dモデルを作っていられないような部分を既存の手書きアニメで作成、こちらにもハッチング処理を乗せることで両者の絵柄を合わせている。
この3DCGにするのか手書きにするのかの判断が非常に上手く、なおかつ手描きアニメのクオリティが高いので、3DCGによる緻密さ(細かな鎧や多数の人間の動き)と情感ある手書きの魅力の良いとこ取りとなっている。
問題と感じるのは3DCGの質が手書き部分に対してあまりに劣っていること。静止画ならある程度均衡していそうなのだが、動きが厳しい。これはもうPS1時代(ゲームに本格的に3DCGが導入されたタイミング)のモーションクオリティである。人間の各部の動きが連動しておらず、人形がぎこちなく動いているというレベル。

ゲーム業界に関わっているものとしては、3DCGの質の向上を間近で追ってきたわけで、2016年にこのモーションは厳しい。
申し訳ないが、3DCGを勉強し始めた学生レベルである。例えば腕を動かすと、その反動によって体の軸が動き、バランスを取るために足や頭も動かさないとならない。これら動作は同時に、連携して発生するのだが、今作のモーションは純粋に腕を動かすだけ。プラモの肩関節を回すだけのような無機的な動きが多発している。3DCGにおける「動画崩壊」といって良いだろう。
それに加え、これこそが致命的だと思うのだが、カメラが無意味に動きすぎている
被写体を中心にグルグル動き続け、画面の変化としては派手で目を引くが、何かを表現するために動かすという観点が抜け落ち、ただ間を埋めるための手段として動かしている。
この、「3Dになったことで(わりと)自由にカメラを動かす事ができるようになった」という手段の拡張におぼれて、分かりにくく、ダサい表現を多発したのもPS1時代の黒歴史……。
監督である「板垣伸」氏は自身のコラムで以下のようにその意図を綴っている。

『乱暴で大雑把なガッツをダイナミックなカメラで追っかけようと思ったんです。フレームにキレイに収める事ばかりじゃなく、むしろハミ出すガッツを描くつもりで。まあ実は「映画と言えばFIX(カメラ動かない)が基本!」などの90年代的映像インテリ概念がかなり眉唾だと思ってるんです自分は。もちろんFIXだって重要ですよ! でも「何をおいてもまず最初にカメラを動かすもんではない!」と決めてかかり、遂には「カメラが動くからダメ!」とインテリぶるのが眉唾なんですよ。』http://animestyle.jp/2016/09/01/10420/

決めつけは良くないし、実践してその結果を次作につなげていけば良いのだと思うが、これだけは言っておきたい。
すでにその方針はPS1時代(1994~)からゲームでも映画でも試み続けられ、その結果「意味なく動かしても良いことは無い」と分かっているのだ。
自分の経験値の低さをして、分かりきっていることを前衛のように世に問うのはあまりに恥ずかしくないか。もうみんなその方向はあかんと実践済なのだ。
板垣氏の弁では迫力のアクションシーンのみカメラを動かしているかのようだが、実際の作品内では、ただモブがしゃべるだけのシーンで視点、注視点共に動き回り、節操がない
カメラをぶん回すのはありだが、押さえるところは押さえて、とりあえず動かす姿勢はやめろ、ということ。
どんな表現にも緩急が必要で、その差異こそがリズムやテンポを産み、作品に求心力を与えていく。
今作はずっとフルスロットルで動き回っている印象。緩急なくただうるさいだけ。これではカメラが激しく動いていることが魅力になるだろう、アクションシーンが埋没するだけだ。
※最近の映画やドラマは、これまでならフィックス(静止)していただろうカットもわずか~にズームさせるなどして画面を動かし続けている。
これは動いている事を知覚させない範囲で、画面に対する興味を保たせるための技法で、位置づけとしてはフィックスに近い。


――冷静に考えて、この情報量の画面を動かし、毎週放送のアニメを12本作るということは、それだけで賞賛に値するとも思う。
原作の重苦しい雰囲気を再現できているし、モーション以外は興醒めするような部分が少ない。
様々な問題を乗り越え、とても良くがんばったのだろうと想像に難くない。
おそらく3DCGの質が低いのを何とかするために、カメラを動かし続けるしかなかったが、それを理論武装して、さらに発信してしまったのがまずいだろう。
黙っていれば突っ込む隙も無く拍手と同情をただ受け取れていただろうに――。

テレビアニメでも3DCGの導入はどんどん加速しており、あふれた作業量は質の低い3DCGとなって現れる。
これは手描きアニメがたどった同じ轍であり、だとすると作業は海外スタジオに流れ、国内は人材のドーナツ化に見舞われる事になる。
絶望的かと言えば、会社に所属しない形のクリエーターが個人で発表する作品の質は確実に向上しており、それが商業化して覇権さえ獲得した「新海誠」氏のような例もある。
徒弟制、体育会系のような制作現場が、今の世に合った見通しの良い、意欲を活かして形にできるような形に進歩するには、どのような手段があり、また、それがきちんと再生産されていくサイクル(適切にお金になる)仕組みは、日本のアニメ界崩壊に間に合うのだろうか。ゲーム業界も同じなので人ごとではない胸騒ぎが止まらない。

2016年9月27日火曜日

クオリディア・コード


☆☆☆☆
~嫌われない駄作~


2016年7月から放送されたワンクール(12話)のテレビアニメ。
突如世界侵略を開始した『アンノウン』。人類は子供達を守るためにコールドスリープへ。
目覚めた子供達は各々特殊な能力『世界』を発現させており、いまだ続くアンノウンとの戦闘にかり出されていく。
最前線には学生だけで構成された(「世界」を持っているため)防衛拠点があり、アンノウンとの戦闘結果をランキング化して互いに競い合っている。

アニメ以前に小説が刊行されており、アンノウンの侵攻やアニメーション以前の学生達のやり取りが描かれている模様。アニメはその後の話であり、重複は無い。
物語としてはアニメーション単体だけでも十分と感じる。伏線の回収など含めると、むしろアニメだけで良いのではないか。

冒頭から、いわゆる主人公格のキャラクターが複数登場。これは小説それぞれの主人公達がここに集結した最終章がアニメだからである。
結果、アニメから見た者(自分も)には、こてこてで胸焼けのする程の強烈な中二濃度。痛いキャラクターのオンパレードだが、それだけでは終わらないだろう大仕掛けを予感させる「部品」が点在。余分なエピソードもなく、サクサクと進む物語に興味を引かれて、スルスル視聴してしまう。
開始時こそキャラクターが多すぎて面食らうが、意外に適切な分量で各人のエピソードが描かれており、またむやみにキャラが増えていくこともない。物語としては過不足ない分量をきれいに12話に整えた構成の妙を感じる。

物語の大仕掛けについては題名や、OPの印象から推測が十分に可能であるが、答え合わせと共に、そのような設定をいかにまとめていくのだろうという興味が勝つ。
その期待については、ガバガバの設定、ご都合主義というのも恥ずかしい展開に裏切られるが、不思議と腹が立ったりすることはない。

アニメの出来自体がとんでもなく低いクオリティなので、お話しについてもこんなもんだろう、いや、むしろ良くまとまった方じゃないかと思い違いさせてくれるのだ。
物語は出来事の組み合わせで構成されているとして、それを描く映像がどれだけのクオリティまで到達したのかは以下のような線引きが可能だろう。

<レベル外>
・何が描かれているのか分からない
どういう出来事が起きているのか分からない。
<レベル1>
・何が起こっているのかが分かる
どういう出来事が起こっているのかが分かる。
<レベル2>
・映像が安定している
絵柄、動きが整っており、鑑賞するのに気にならない。
・構図がとれている
構図が整っており、出来事が分かりやすく描かれている。
<レベル3>
・映像が魅力的
絵柄、動きが魅力的。
・構図がすぐれている
構図が緩急効いており、魅力的。
<レベル4>
・映像が物語と相乗効果を生んでいる
魅力的な映像が、言葉では表現できない情報を描き出し、物語を奥行きあるものとしている。
・構図が物語と相乗効果を生んでいる
構図が物語の意味を強調、補佐し、情感を加えている。

今作は「レベル外」と「レベル1」の境目である。

映像が安定しておらず、クオリティの低いいわゆる「作画崩壊」が頻発。動きについても不自然な動画が多発しており、気がそがれる瞬間が多い。
また、アクションシーンにおいては無茶なカット割りが多く、どういう状況を描いているのか、非常に理解しがたい。
ただ、アニメ定番の動きからは外れていない(オリジナリティがない)のでアニメに慣れている者には何とか理解可能のレベルである。

氾濫するアニメを網羅しているわけでは無論ないが、自分の認識する及第点を大幅に下回っており、昨今まれに見るひどさといって良い。
このような「映像」であるから、例えば戦艦が半分に割れてそこから巨大な砲塔が出現したり、何の裏付けもなくくっちゃべるだけのお子様司令官が人間軍を率いていたり、よく分からない能力がその時の都合で機能を変えていたりしても、突っ込むのも野暮と感じられてしまう。音声についても酷いもので、声優の演技以前に音量レベルがおかしい。近くのキャラクターは大きな声、遠くのキャラクターは小さな声としている、その差異が大きすぎて遠くのキャラクターの声が(聞かせるべき内容なのに)聞こえないのだ。まるで素人レベルで驚いてしまう。
つまり、物語においても映像においても音声についても、すべて低いクオリティでまとまり、安定しているため、作品全体としては破綻が無いのだ。
その中で、きちんと整えられた「物語構成」(けして物語ではなく、その構成のみ)だけが、描くべき内容を抱きしめるように保持しているため「クオリティは低いけど、話は分かる」形に着地成功している。視聴したことに腹が立ったり、投じた時間の不毛に脱力感に襲われたりしない「何となく許せる作品」になっているのだ

かといって見るべき作品であるはずが無く、以上の文面を読んで検証してみたくなった人だけが見れば良いと思う、嫌われない駄作だ。

2016年9月26日月曜日

ハドソン川の奇跡

★★☆☆☆
~奇跡的なノンフィクション~

日本人にはとんとなじみがないが、2009年にニューヨークで発生した飛行機不時着水事故を題材としたノンフィクション。また、だからこそ結末知らずの楽しさを味わえるのかも知れない。
離陸直後にバードストライク(鳥が飛行機にぶつかる事故)にあい、全てのエンジンが停止。幾つもの選択肢からハドソン川への着水を選択し、全員が無事助かったことから「ハドソン川の奇跡」と呼ばれる。
この映画では事件そのものではなく事件後に機長、副機長の判断の妥当性が追求されていく検証と後片付けをメインに据えている。

監督は今や巨匠のクリント・イーストウッド。
映画のために本物の飛行機を購入して再現に努めた映像はきっとリアルなのだろうが、摩天楼をバックに巨大な飛行機が飛ぶ様は、同時多発テロで見た映像のようにどうにも違和感が強い。理不尽な話だが、リアルすぎて嘘っぽく見えてしまっている。この事件に対する距離感がアメリカ人とは決定的に異なる事もその理由だろうか。
バードストライクから着水まで200秒程度に込められた様々な覚悟と判断。機長の回想、乗客や添乗員の回想、外側からの目撃――様々な視点からくり返し事件が語られ、最後にはボイスレコーダーによる主観と客観を統合した「答え合わせ」で終劇。
なかなか凝った構成だと思うが、視点が少しずつ拡大していくので事件をまるで知らない者(自分含め)でも理解しやすい。機長をただの完璧な英雄として描かず、副業のトラブルや定年までのキャリア設計の危機など、ちくりと現実的な情報を織り交ぜて予定調和へのゆらぎを見せるのも上手い。ただ、作品の基本姿勢自体が事故に対して周囲が起こした行動への賛美に凝り固まっている(前提としている)のもひしひしと感じるので、安心してみられる。

飽きることなく楽しむことが出来る作品だが、現実は想像を超えず、まあそうなるだろうという所に着地。金かけて補強した王道野球チームが順当に優勝しました、みたいな。しかし、現実でここまでの劇的な内容とは、まさにハドソン川の奇跡。

作品内では特に主張されないが、この事故が突きつける現実が空恐ろしい。
曰く、AIが完全な判断を下せるなら、人間よりも遙かに事故が減り、その規模も縮小するのではないか――。

2016年9月23日金曜日

伊賀忍法帳

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 ★★★☆☆
~魔界転生に負けない炎上シーン~

エログロと奇想天外な発想の忍術が炸裂する「忍法帳」シリーズで一世を風靡した山田風太郎の小説を原作とした作品。
1982年のいわゆる角川映画。公募により選出された渡辺典子が初主演をつとめている。彼女はその後「角川三人娘」として人気を博す。
前年には同じく山田風太郎原作の「魔界転生」が映画化されており、千葉真一、真田宏之など主要俳優の重複も濃い。

戦国時代、主君の細君である右京太夫に横恋慕した松永弾正の元に謎の幻術師、果心居士が現れ惚れ薬を持って右京太夫の心を奪えとそそのかす。
そのためには彼女の双子の妹である篝火の強奪と陵辱が必要であり、5人の超人的能力を持つ忍法僧が貸し与えられた。
篝火は伊賀忍者である笛吹城太郎と恋仲であり、彼女を奪われた城太郎は強大な敵に単身立ち向かう。

そもそも純潔の娘を強姦して流れた涙(原作では愛液)が惚れ薬の材料になるなど、エロに傾く設定。
惚れ薬の実験にされた女中の痴態など、おっぱいシーンも多い。
首をすげ替えて姿と心をもすげ替えたり、手の甲や眼球から仕込み針を発射したりと奇想天外な忍法の数々。
そして芯を貫くのは男女の愛。
まさにエンターテイメント。

原作と比べると忍法僧の数(原作は7名)が減っていたり、惚れ薬の材料や物語の基本設定にも改変があるが、二時間枠に収め、 万人向けとするためには適切な判断だったと感じる。
特に篝火と右京太夫の関係については話を整理して終盤の展開を納得感あるものにするのにとても有効に働いている。
ただ、ピンチに陥る度に謎の勢力に助けられる……という展開がくり返し発生し、緊迫した状況に対する肩すかし感がすごい。

映像についてまず特筆すべきは奈良の大仏殿炎上シーン。魔界転生のクライマックスでも江戸城炎上をとんでもないスケールで映像化し、 これは現代では許可がおりないのではないかという成果をものにしているが、今作でも同等の凄まじい炎を堪能できる。
実物大セットや大型ミニチュアに火を放ったという事だが、CGとは隔絶した迫力を生み出している。肌がちりちりするような熱さを感じるのだ。
CGの炎と実際の炎、何が違うのだろうと考えるが、おそらくCGの場合、きちんと整って絵になりすぎるのではないかと思われる。
実写の炎は絵にならない、どこか不細工な形が含まれている。整いすぎた人間の顔を嘘っぽく感じるように、情景にもいびつさが必要なのだろう。

他にもエキストラを大量に投入した群衆シーンは昨今の日本映画には無い魅力。CGで数増やしするのではない愚直な力業は、やはり画面に力を与える。
全編にわたるわけではないが、町の賑わいや僧兵突入のシーンなど、ワラワラと動き回る画面は今でも見劣りしないどころか輝いている。

反して厳しいのが、本来主軸の見所となりうる忍法対決。
魔界転生のような、技術的には厳しいけど描こうとしているイメージが伝わってくる凄みもなく、ただただショボい印象。
剣と体術のプロレス。良くある時代劇のチャンバラ程度となっている。
怪力忍法僧との戦いはただの相撲のようになっており失笑。
そんな中唸らされたのが池に落下した敵味方が水中で死闘を繰り広げるシーン。
実際に水中の様子を描くことはなく、カメラは水面を捕らえるのみだが、

「落水→黄色い毒液が浮かび上がる→敵のあえぐ姿が一瞬水面に→また沈んで泡や波紋がこちらに近づいてくる
→水面が赤く染まり敵が浮かぶ→急速な航跡が走り、主人公が無事浮上」

この1分以上ありそうな戦闘の進捗がワンカットで繰り広げられる。無論役者はその間潜りっぱなしで、血や波を出すギミックも大変な準備だったろう。
シーンとして凄みのあるものにはなっているのだが、血の出る箇所と死体が浮かぶ場所が大きくずれていたり、各種タイミングがいまいちかみ合っていなかったり。
撮り直しの出来なかったシーンという事なのか――。

役者の中で特に気に入ったのが成田三樹夫演じる果心居士。不気味な存在感と奥深い人間性を少ない登場シーンで十二分に感じさせてくれる。

シナリオ、映像共に魅力はあるが、決め手に欠ける印象の佳作。魔界転生に比べて知名度が低すぎる気はする。

2016年9月14日水曜日

剱岳 点の記

★★★☆☆
~実写の圧倒的実在感~

2009年公開。新田次郎の小説を原作とした作品。
監督の木村大作は世界に名だたる黒澤明、宮川一夫の信任が厚いカメラマンであり、今作がその監督第一作となる。
黒澤明作品には撮影助手として参加しており、特に望遠のピント合わせについて高い評価を得ていたとのこと。

1906年。陸軍の威信をかけて未踏の剱岳測量を下命された柴崎(浅野忠信)が、幾多の困難を乗り越えて測量点設置を目指す物語。
剱岳は日本国内でも屈指の危険な山であり、立山修験と呼ばれる山岳信仰の中でも針山地獄とされている程の峻岳。
柴崎は山案内人の宇治(香川照之)の協力を得て着々と調査と準備を整えていくが、装備の近代化で勝る日本山岳会の小嶋(仲村トオル)の隊との初登頂競争の様相を呈していく。
測量を一義とする柴崎と、個人趣味の延長としての登山を旨とする小嶋。山に対する角度は異なるものの、同じく自然に対する者として底の部分でわかり合っていく。

淡々とした山岳シーンが長く続くが、それで十分に間が持つほど山の風景が素晴らしい。
CGでは出ないだろう想像を超えた空気感。巨大な自然とちっぽけな人間の対比。
画面を見るだけで敬虔な気持ちになれるというのはなかなかない。
その場に行って、いい画(え)を撮る。カメラマン出自の木村監督なればこその境地だろう。

出演者各員もかなりの労苦を共にしたようで、実際にかなりの行程を歩いてロケに挑んだとのこと。
柴崎の部下、生田を演じた松田龍平は実際に雪に埋もれて酸欠になりながらも撮影を続行したというから腹が据わっている。
浅野忠信も抑制の効いた演技をつとめ、香川照之はまったく生まれつきかのように蓑や笠を着こなして現地案内人になりきっている。

初登頂と思われたが……という落ちも含蓄深く興味深い。
ノンフィクションならではの抑揚にかける盛り上がり所の少ない印象ではあるが、心を洗われる風景だけで十分見応えがある。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ Blu-ray2枚組

★★★★★

~日本人専用。だからこそ世界に通じる~

2016年公開。ゴジラシリーズ29作目にして、(日本制作としての)前作FINALWARS(2004年)から12年ぶりの復活作品。
監督は「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明。

アニメ監督として絶大な知名度と人気を持つ庵野氏は、元々ウルトラマンなどの特撮作品のマニア。アニメ作品にも特撮映画から持ち込んだ演出が多用されている。
実際に何本かの実写映画も監督しているが、アニメ作品のような高い評価は得られていない状況。
したがってこのゴジラ監督については期待と不安が入り乱れる前評判となっていたが、不安を吹き飛ばし、期待を軽く越える出色の出来であった。

もとよりゴジラ1作目は戦後の空気を引きずるまま、核実験の恐怖が蔓延する1954年に公開。核実験によって誕生したゴジラが日本を恐怖に陥れるという内容。
おそらく当時の観客達はゴジラという存在の圧迫感を現実の圧迫感と結びつけて、とんでもなくリアルに感じた事だろう。
今作においては戦争を大震災、核実験を原子力発電所と置き換え、3・11で日本が経験した絶望感を再現するがごとく構成されている。
この全体構成を着想したことがすでに素晴らしい。ゴジラの歴史と存在意義を突き詰めたからこそ手に入れた発想だろう。



※以降感想を続けるが、今作は前情報の無い方が確実に楽しむことが出来る内容なので、未見の方は読まない方が良い。



話自体は非常にシンプル。
東京湾に出現した謎の怪獣に対して必死に対応する日本政府とその実体である政治家と高級官僚。
圧倒的な破壊力を誇るゴジラに対してあまりに無力な日本政府。だが決してあきらめることなく、着実に対応を進めていく。
ついにはゴジラ無力化の方法を導き出し――。

映画は大きく2つのパートに分かれている。
その分岐点はゴジラが圧倒的な破壊を東京中心部で成し遂げる部分。
それまでもゴジラは移動するというだけで大規模な破壊をもたらしているが、しかしその規模はどこかまだ「範疇」内で有り、政府の対応が可能だという安心感があった。
そのような状況で決行されたゴジラに対する日米共同の反攻作戦。ようやくゴジラに痛手を与え、この調子だと思った瞬間、桁外れの反撃が開始される。
この絶望感がすごい。
苦しむゴジラはうつむき、津波のような赤い炎を吐いて一面を炎の海とする。ここでぎくっと驚く。
こんな火の海にされたら、もう東京は駄目なんじゃないか――。
軽く絶望したところで炎は細く収束し、徐々に青色に近づいていく。まるでレーザーのような張り詰めた凶器と化し……。
振り回される光線はビルを切り倒し、遙か遠方まで火の海に飲みこんでいく。爆撃機も撃墜され、総理大臣含む政府高官の乗り込んだヘリまでもが四散。
その有り様に、思わずため息のような、うめくような声を漏らしていた。
こりゃもう駄目だ。
取り返しがつかない。
もう日本は終わりだ……。
この感覚こそ、3・11で原発が水蒸気爆発(メルトダウン)を起こした時と同じであった
このシーンが作品の分岐点であると思う。

そこまでが既視感の伴う3・11の再現であり、以降は絶望を希望に変えるためのおとぎ話である。
これは言い換えると前半が「現実」であり、後半が「虚構」とも言える。

今作の宣伝コピーの1つ「現実(日本)vs虚構(ゴジラ)」。
これは様々に解釈できるコピーだが、映画を見る前から非常な違和感を感じていた。
せっかく幾多の努力を尽くしてリアルに描いたゴジラを、そもそも一文の元、「虚構」つまりは「偽物」と言い切ってどうするのだ、と。
冷や水をぶっかけるようなコピーに不安感が増したが、作品を見て、異なる解釈が見えてきた。

「現実(絶望)vs虚構(希望)」

現実の絶望を打ち返す虚構の希望。
3・11以降、我々はなんだかんだと平穏を取り戻してきたが、それは時間をかけて絶望を薄めていったような印象だ。
映画にあるような、一気呵成に事態を収束するような物では無かった。
しかし、振り返って考えるに、3・11から現状までに起こった変化は、ゴジラを何とか無力化したのと同様の大きなものではないか。
少しずつの変化であるため気がつきにくいが、日本国が成し遂げた復興は素晴らしい規模と速度だ。
これを濃縮し、短時間に描いたのが、後半の虚構部分ではないだろうか。
あまりにご都合主義で一気に嘘くさく感じる後半部分の展開。しかし胸の空くような反撃。
虚構に感じられるこのようなことは、しかし実際にはすでに成し遂げられた現実なのだ。

そうしてみると、ゴジラ自体は街中にあるままで、問題は決着しておらず、目を反らすことも出来ないというエンディング。
これは我々の現況にまったく符合するのではないだろうか。
複数の意味が混在となった「現実vs虚構」という言葉は、確かにこの映画を表するのにぴったりなのかも知れない。

第一作のゴジラは海外でも大ヒットとなった。
しかし、海外バージョンは核やアメリカに対する不信感を感じさせる部分はすっぱりとカットされているらしい。
「派手でリアルな怪獣もの」としてヒットしたに過ぎない。本来のゴジラを鑑賞することが出来るのは、あの時代の日本を知った者だけなのである。
今作はどうだろう。3・11の体験が前提条件となっており、それを知らない者には分かるはずがない。
核に対する長年の不信と許容。段取りを踏まなければ動けない日本のシステム。これらに対する理解も前提条件だろう。

あまりに日本向けすぎる内容なのだ。

このまま公開しても、海外でヒットは望めないだろう。
ただし、このあまりに特化した前提の多い映画は、特定の観客にとんでもないトゲを突き立てるのでは無いか。
世界の誰が見ても楽しめる映画は、無国籍ののっぺらぼうだ。
反してシン・ゴジラは閉塞的村社会に代々伝わった起源も定かではない不気味な行事、それが生み出した神像のようなものだ。
そういうものを内包している文化は根が深く、強い。呪いのような情念が良くも悪くも地盤を固めている。
いまや世界を席巻している、日本のポップカルチャー、マンガ、アニメ、アイドルも、本来同じような存在ではなかったか。
それらはかつて異質で薄気味悪いものであったろうに、いつの間にか世界に理解者を増やしている。
少数の人間には、必要なはずの前提条件を越えて、刺さったのだ。
刺さったあと、前提条件を乗り越えるような者たちに届いたのだ。
シン・ゴジラも同様の存在になり得るのではないか。
不評渦巻く世界公開の中、心臓を鷲づかみにされる者が居て、そこから根が広がっていくのだ
そんな夢想が浮かぶほど、このコンテンツは、あまりにエスニックで独特で、他に類の無い物なのだ。

最後に特筆したいのは、この作品に出てくる人物の全てが、前向きで善人であるということ。
長い会議や縦割り組織、責任を回避しようとする動きが前面に出ているためそれと感じにくいが、全員が全員、自分の立場で前向きに努力している。
笑いの対象になっている総理大臣さえもが、システムの一要素になって選択の余地なく責任を負わされる存在として描かれ、このような切り口で総理大臣を描いた作品は見たことがない。

日本人が、日本人の経験の上でのみ味わうことのできる、皆で一生懸命がんばる話。
こんな優しい物語、そうそう出会えないよ。
庵野氏の振り絞った人間賛歌に、乾杯。