★★★★★
~なぜ素敵な終幕なのか~
フェデリコ・フェリーニ監督。1957年のイタリア映画。
断片的なエピソードがその蓄積において言いしれぬ情感を醸し出す名編。
カビリアは夜ごと街に立つ娼婦。働いて手に入れた小さな自分の家だけが自慢である。
見知った仲間と賑やかに過ごしたり喧嘩したり、それでも素敵な恋と結婚を夢見ていた。
ある時は有名俳優の恋事情の当て馬にされ、惨めに追い返される。
またある時は御利益があるという教会に物見遊山で出かけてひどく感銘を受ける。
そんな暮らしの中で一人の男性と出会い――。
★ぜひ見て欲しい映画なので、以下は見てから読んでみて欲しいと願います。
この映画はエピソードを個別に見れば、かなり悲惨な物語である。冒頭からアクセル全開でカビリアがこっぴどく振られるシーンから始まる。そりゃもう川に突き落とされた上にお金を奪われるという、これ以上ないひどい仕打ちからのスタートである。
それでもくじけず前向きに生きるカビリア。努力の末に立ち上がるというより、彼女本来が持つ世界や未来を信じる心根。幼子のような無垢な部分が自然とそうさせている印象。
彼女は小さなときめきや幸せに心をふるわせながら毎日を過ごすが、現実はひどい仕打ちばかりを投げかけてくる。
とどめは再び彼女に訪れた恋。
見ているものは常に不穏を感じる相手の男の行動。だがカビリアはどんどんのめり込んでいく。
自分の気持ちも、持っている物も全て投げ出して、幸せになろうと一直線に行動する。
その素敵。
その切なさ。
こちらの方が神に祈りたくなってしまう。
クライマックス、彼の本性が明らかになる瞬間。カビリアの朗らかさに相手も罪悪感で行動が鈍る。
しかし、結末は変わりようがなく、状況を促す言葉を口にしたのはカビリアのほうだった。
殺して奪っていけば良いじゃない、と。
彼女は、あんなにも無邪気に嬉しそうにいたのに、これまでの様々なつらい経験を忘れていたわけではなかったのだ。
今回も駄目かも知れない。
まただまされているのかも知れない。
そういった悲しい予感は観客と同様に感じていて、だけど、彼女は全力で信じることを選んだのだ。
それは、祈りのような恋だったのではないか。
恋が潰え、命を奪ってももらえなかった一人の女が、夕暮れにとぼとぼと歩く。
どうしようもない結末である。
物語を作る側の視点で、少し想像してみる。想像してみて欲しい。
このままの落ち沈んだ状態ではなく、幸せな雰囲気で物語を終えるためにはどうしたら良いだろうか。
逃げた男が帰ってくる? それは嬉しいだろう。ただ、その展開に納得するためには、前もってひどい男の様子をもっと描かなければならない。そうするとカビリアだけに注目した映画ではなくなってしまう。
優しい友人達が迎えてくれる? 結局迎え入れてくれるのだろうが、彼女は沈んだままだ。
あれこれ考えても、本作のエンディングの方が遙かに良いと思えてしまう。
絶対に理屈だけでは思いつけないけれど、本作の場合はこうだ。
うつむいて泣きながら歩く彼女の道に、祭に行くのか帰りなのか、はたまたただ仲間で騒いでいるだけなのか、音楽を鳴らし、踊りながら進む者たちが合流する。
知り合いでもなく、何かを助けてくれるわけでもない。
ただまき散らしている明るい雰囲気にカビリアも巻き込んで、踊る男が彼女におどけかけたりする。
そうして、同じ道を同じ方向に進む。
これだけなのだ。
その雰囲気に何かほだされて、カビリアは顔を上げ、ついには微笑み映画は終演する。
文章で書くと嘘っぽく意味不明に感じるかも知れないが、観ていると不思議なほど自然に納得できてしまう。
それは映画中そういう描き方をずっと続けてきたからだ。
物語の中でカビリアは沢山の他者と触れ合う。客、友人、群衆……。
関わり合いは喜怒哀楽の様々な感情を引き連れ、カビリアはそれを素直に受けとめて暮らしている。そんな彼女にとって、どんな困難に合おうが、生きていること自体が根本的に喜びなのだ。
一人でなく、今という時間の最前線で世界中の人と一緒に過ごしていくことが、生きる、ということだ。
この連帯感こそが、本作のテーマなのではないだろうか。
生きていること自体がお祭りであり、さあ一緒に楽しもう、ということだ。これは別のフェリーニ作品「8 1/2(はちかにぶんのいち)」で直接台詞としても語られている。
さらにもう一つ。
この映画はカビリアがこっぴどく失恋するところから始まった。
彼女はひどく落胆するが、なんとか立ち直って前向きに暮らし始める。
だから、今度もきっと大丈夫だと確信できるのだ。なんて素敵な証明だろうか。
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