2011年9月6日火曜日

コクリコ坂から

※リンクは脚本書籍です。

~見ていません~
未鑑賞

見ずに感想を書くのははなはだ卑怯で無意味な行為だと分かっているが、あえて書き付けておきたい。見た上での感想は、いつかまた追記する機会があるだろう。

脚本を宮崎駿が書き、息子の宮崎吾郎が監督をしたスタジオジブリ制作のブランドアニメーション。
ともあれ宮崎駿がかかわり、ジブリアニメであり、ポスターも印象的。恋物語の雰囲気は「耳をすませば」「海が聞こえる」を連想させる。
映画を定期的に鑑賞する層なら、普通、見に行くだろう。自分も悔しいが興味を引かれずにはいられない。

しかし、自分はこの作品を、見てはいけないものだと感じた。

すべての行動は、世界の有様に対して投じる一票なのだと思っている。
選択の自由を持った状態で、多様な特徴を持つ対象の中、どれを選ぶのか。
分かりやすく例を挙げるなら、安くてそこそこの品と、高いが質の高い品。どちらを選択するのかには、その人の生き様、考え方、望む未来の姿が関わる。その品に対するスタンスを知らず決めて示しているのだ。
一人が何を選ぼうが大勢に影響はない、と言うのなら、その人は選挙に意義を感じない人だろう。確かに一人の影響は小さいが、その集積が決定力を持つことも事実なのだ。
この場合、投票されるのは、貨幣だ。
選挙よりも、組織票や自覚がない分、正味の多数決が行われているとさえ思える。一人で何票も入れられるが、毎日毎日選択し、投票する状況で、そのような行為は時間に紛れていく。

僕は、この映画に対価を支払うことを、観客動員数にカウントされることを、拒否する。
この映画に、貨幣という一票を投じない。

なぜなら、宮崎吾郎監督が前作「ゲド戦記」で犯したあまりに大きな失敗と、それを許して再登板させる回りの人間達の判断は、自分が望む世のありようと、あまりにかけ離れているからだ。

なぜ、皆、ジブリに甘いのか。
ゲド戦記を見る前に感じた期待感と、その後の喪失感をそんな簡単に忘れられるのか。
ただ作品を見ただけでも、おもしろくなかったと感じるだろう。宮崎駿作品との決定的な差異を思い知るだろう。
父と子の葛藤、会社組織のいびつさ、経営者と職人の差異。ジブリの内情を知るものは、それがにじみ出た作品に嫌悪を感じてしかるべきだ。

自分は、宮崎吾郎の再登板を許す、許さざるを得ないジブリと、その内情に同情して温かく見守るファンの生ぬるさに、反対の立場をとる。
そうでなくては、輝きを放ちながら時代の波に消えていった幾百の作品達、幾千の関係者に申し訳ないではないか。

宮崎吾郎監督は、完全に親の七光りである。
彼の立場の困難、積み重ねた努力を知ればそんな風にいえなくなる?
否。
本来許されるべき一回のチャンスを、彼は失敗した。

二度目のチャンスがこのような形で許されること自体、七光り以外の何だというのか。

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