測定不能(★評価不可能)
~実は映像が一番ひどい~
PS黎明期に登場し、ゲーム業界の勢力図を変えたFFⅦ。その後日談をCGムービーという枠で作成した作品。
F FⅦの物語を既知していることが必須であるため、パッケージにあらすじが含められており、懐かしいPSレベルのグラフィックを久しぶりに見ることが出来る。
その後本編を見ると、暗闇から日差しの下に出た時のよう。あまりのクオリティの違いが眩しく、目眩すら覚える。特に同一カット、同一イメージを現在の技術でレンダリングした映像は、隔世の感を覚えずにはいられない。
そうして数分見てそのクオリティに慣れてくると、それらが映像として何の意味も持っていないということに気付き始める。
一枚絵としての、ワンカットとしての映像としては、リアル系のCGとして一つの到達点に達していると思われるが、それは本来手段であって目的ではない。
カットが組み合わさって、物語や登場人物の感情が描き出されるのが映画という物だが、この作品はその部分をまるで気にも留めていない。
そもそも、いったいどういう状況なのかを説明するという、最低限の責務さえ放棄しており、画面の中で何が起こっているのかを理解しづらい事この上ない。
本当に、なぜこのような作品が出来たのだろうか。
当然だがカメラアングルや、カメラの動き、人物や事物のレイアウトは、物語の中で意味を持っている。たとえばあるキャラクターの顔を撮る場合、上から見下ろして撮る場合と、見上げて撮る場合、正面から撮る場合、横から撮る場合、すべて観客の感じる意味が違う。複雑に絡み合う要素を画面の中で物語にのっとって構築し、連続させていくのが映画である。
この作品は、潔いほどこの観点が抜け落ちている。
その場その場で一番格好の良いカメラを置こうという努力は感じる。
同じようなカメラをさけ、不意をつくような、トリッキーなアングルを探している。また、カメラの動きもあれこれ凝った動きをさせているが、ただ節操がないだけで、「かっこいい雰囲気にしたい」という幼稚な欲求を露骨に感じさせる。
実はこのようなニュアンスの映像には、非常に親近感を持っている。PS以降のゲーム内映像、黎明期のそれらが、至ってこういった節操ないものだったからだ。
それまでの2Dの世界から3D空間の演出へと業務の拡大を余儀なくされたゲーム会社。特にその中のグラフィック部門は、与えられた「自由」におぼれて、際限無くカメラを自由に動かした。
意図のないまま、意味無く、動かしてしまった。
よかれと思った努力は芯を持たない装飾的な物に過ぎず、何を物語るでもないカメラしか我々にはつけることが出来なかった。
いまや3Dが当たり前に浸透し、ゲーム会社の各ソフトの映像演出も、随分と意味を持った物になってきている。それが事もあろうにこの作品は、数年前のつたなさを温存し、それをそのまま最高峰の映像に適用してしまったのである。
つまり、この作品を作った、個々のアーティストの才能を疑う余地はないが、映像をとりまとめ、方針を授けるディレクターが、幼稚な素人だったということだ。
それを止めることの出来る立場にあった者も、同様に、映画に対してあまりに素人だったのだろう。
すごい同人作品。
それがこの作品の本質であり、
これを最高だと褒め称えるマスメディアは恥を知るべきだし、
これをシナリオ以外は凄いと言うにわか評論家も同様に恥を知るべきだ。
これは映画ではない。
そこに至ることも出来ない、金で出来たがらくただ。
何よりこれを世に出し、一気に売りさばいたスクウェアエニックスは、非常に優秀な商売人であることと同時に、己の厚顔無恥を証明した。
そして、一般人の映像に対する無知、鈍感さを浮き彫りにした。
もはや罪だ。
このソフトが数十万本売れたというニュースは、
日本人はろくに映像評価できない豚の集まりだという、
そういうアドワードを発信しているのだ。
もはや恥部以外の何物でもない。
破綻した映像という反面教師として視聴する以外の目的なら、積極的に視聴を避けた方がよい。
買わないことが、見ないことが、この作品への正当な関わり方だ。
2009年2月4日水曜日
ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿