★★★★☆
~劇画ガリレオ~
◆テレビ版を越えて
テレビドラマ「ガリレオ」の劇場版。
完全新作の最新エピソードは、しっかり「映画」だった。
この手のドラマ映画化にありがちな安っぽさはない。かといって映画全体の中でクオリティが突出しているかと言えばそうでもない。ただ、劇場版であると胸を張って言える安定したクオリティの作品だった。
思い返してみると、物語としてはかなり地味である。
荒唐無稽なトリックが売り物であるドラマ版の雰囲気はなりを潜め、静かだが重みのある人間ドラマが主体となっている。
刺激的な映像が続くわけではないのに観客の興味を維持できているのは、意図ある絵づくり、演出のたまものだろう。
今作には感じ入るところが多々あったので、特にネタバレ前提で分析的にみていきたい。
まず映画冒頭で描かれる派手な爆破シーン。
金をかけただけのはったりともとれるが、そうだとしても非常に有効なはったりだ。
ドラマ版でも実験によるトリックの実証はミステリーにあるまじき「見栄え」のともなった見所である。映画冒頭の証明実験はそのスマートさ、規模、迫力においてドラマ版と一線を画している。観客はここで、心に抱えていた、
「映画化といってもTVスペシャル程度のしょぼさなのではないか」
という不安を早々に払拭される。TVドラマの映画化によく見られる、なんちゃって映画ではないのだと納得するのである。
さらに、このシーンは導入であるが、同時に終了でもある。
・事件の発生
・トリックへの手がかり
・実験による証明
という定番の流れを一気に消化して、TVドラマのいつもの展開に終止符を打っている。
実際、このシーンまでで「いつものガリレオ」は終了していると言っていい。
◆湯川の孤独
これ以降物語や演出からはドラマ版にあったようなバタ臭さ、勢いに任せた展開がなくなる。代わって現れるのは、山田洋次の時代劇のような、古くさいかも知れないが真っ当な演出。重みのある、スケールだけではない、質として深化した「ガリレオ」である。
キャラクターの立ち位置さえも、コメディ色の強かったドラマ版と乖離し、深刻すぎない範囲で現実色を増している。
例えば、女性刑事内海は、ドラマにおいて明らかにご都合主義の単独捜査に従事しているが、映画では警察組織の中でお茶汲みOLのような扱いを執拗に受けている。
お笑い担当の万年助手、栗林も出てくるだけでコメディ色が強くなるためか、映画ではほとんど出てこない。
そして、湯川の孤独。
頭脳優秀運動抜群容姿端麗……。しかも湯川は学究に傾倒するあまり、非人間的、非常識な言動を繰り返す人物である。現実に湯川のような人間がいた場合、周囲がその存在を正当に受け止めるのは難しいだろう。
ドラマではそういったエキセントリックな性格もキャラ付けに過ぎず、コミカルな印象になって問題とならない。見ている方もそんなものだろうと受け入れている。
だが劇場版での彼は、とても孤独だ。
その孤独を描くことが、この映画の一つのテーマになっているとさえ感じる。
湯川の孤独を描くために、彼には(そして観客には)二つの謎が提示される。
一つは、殺人のトリック。
これはいつものガリレオと同様。理性の問題だ。
もう一つは、動機。
なぜ犯罪を犯したのかという、感性の問題。
湯川は殺人のトリックを軽やかに暴く。いつものように。
しかし、動機はどうだ。
いつもの湯川なら、犯罪の動機など、そもそも眼中にない。興味の枠外だ。 だが、この事件は違う。
湯川が天才を認め、知的レベルの拮抗した対等の友人(湯川はそう思っていた)、石神が犯した犯罪なのだ。
湯川は初めて人の心を理解したいと望み(もしくは、理解できる物であることを願い)、石神の心、その深淵をのぞき込んでしまった。理性ではなく感性が構築するその不可思議に対峙してしまったのだ。
実はこの謎は、観客にとっては何でもないものだ。
上映時間の多くは、石神の視点、石神の行動を描くことに費やされており、特に序盤は執拗に石神の日常を追う。そこにはトリックにまつわる描写も含まれるが、石神のさえない毎日を描くことに重きを置いている。
雑然とした部屋。
決まりきった繰り返しの日々。
毎夜続ける数学の研究も、評価された様子はなく、今後評価される予感もない。
そういった日々の中で、唯一世界の広がりをかいま見せてくれる隣の部屋の母子家庭。その女性。
石神の生活を追うからこそ、彼にとってその女、花岡靖子がどれだけ貴重で大切なのかが伝わってくる。
従って、我々にしてみれば、映画全編それ自体が動機の証明なのだ。
◆劇画ガリレオ
湯川は懸命に石神を理解しようとする。そして理性に基づいて説得もしようとする。だが、その姿は悲しく、もはや滑稽だ。
感性の領域に湯川の才能は皆無で。
直感も想像も働かず、無神経にかき回すだけ。
理解しようともがき苦しむが、
花が美しいということを、湯川は感じることが出来ないのだ。
誰とも感性を共有できない。そんな孤独があるだろうか。
いや、本来なら学究の分野で、湯川にとって石神がそういう存在であったはずだ。この世に生きてくれているだけで、心強く思える、そういう友人だと思っていたはずだ。
だからこそ湯川はその謎を証明し、石神の動機が無意味なものだと説諭して彼を取り戻したかったのだ
これはいびつな三角関係の物語である。
よくある恋の三角関係ではない。
生き様の、三角関係。
しかも多くの三角形が、異なる要素で並立している。
理性←→感性
男性←→女性
光←→影
憧れ←→妬み
大人←→子供
たくさんの向き合う言葉が複雑に入り組んでいる。
この問題はだから、理屈では整理しきれない。割り切れない。
ただ、感じ取って腹に落とすしかない。
だから、湯川には解けない。
映画の最後でも、湯川は言葉の上でしか、石神の動機を解くことが出来ないのだ。
この映画は宣伝で連呼されていたような、天才同士がその知性で対決するものではない。
石神の行動を理解しようとした、孤独な湯川の軌跡。
そして、完全な敗北。
ドラマ版の要素を引き継ぎながら、異なる解釈を引き出し、新たな魅力を引き出した。
それはまるで、大人になった登場人物を劇画タッチで描いた異色作「劇画オバキュー」のガリレオ版。
切なくも悲しくも、生きることを語る、「劇画ガリレオ」である。
◆以下余談
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上記のように書き連ねたが、気になる点も少なくない。
雪山のシーンはいかにも唐突すぎるし、事件のトリックは(わざとなのかもしれないが)大した物のように感じられない描かれ方となっている。
湯川も内海もわき役に過ぎず、ドラマの延長を望んだファンには消化不良となるかもしれない。
終わり方も、すべての人が本質的にわかりあえるはずはないという前提の元、一途さがわずかに気持ちを伝えてくれるかもしれない、とした悲観の強いものだ。(これは自分の好みではあるが……)
最後に、ヒロインは誰だろう、と考える。
自分は、花岡靖子の娘、美里だろうと思う。
彼女だけが、石神の献身を、感じ取っていたと思うから。
ちょうど、「オネアミスの翼」のヒロインがリイクニではなく、マナだったように。
彼女の存在が、物語の中でもっとも純粋な輝きである。
2009年2月9日月曜日
容疑者Xの献身
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