★★★★★ ~究極のカッティング~
トロイの木馬を考案した「オディッセイア」の別読みがユリシーズとなる。
故郷を追われ、各地を放浪したというユリシーズの伝記に合わせた内容を、20世紀のギリシャで展開する。
ギリシャ最古の未現像フィルムを求めてヨーロッパ各地を彷徨う映画監督。
主人公名が明かされず、クレジットでも「A」としか描かれていないように、個人の放浪を描きながら、その実描こうとしているのは人類の歴史。
目撃者であり、根源を探求する「A」は、映画という文化そのもの、「映画の神様」といった存在だろう。
ともかく、映像の完成度が底抜けに高い。
その長回しは、もう、絶望的に、完成されている。
この映画を見た映画監督の多くは、自分の限界と理想の達成された世界を見て、メガホンを置いてしまうのではないか。
そもそも映画は進歩の課程で「カッティング」という発明を得た。切ったり貼ったりの編集である。
それは映像のベクトルをそろえ、リズムを作り、心を動かす技術だが、言い換えれば、とてつもなく不自然なことである。
突然視界が切り替わり、別の視点へ吹き飛ぶのであるから。
臨場感や没入感のために、これまで多くの監督が長いカット、つまり「長回し」に挑戦している。だが、それらは明らかな失敗であったり、映画の一部分の一要素として使用される場合がほとんどである。
しかし、この映画ではほとんどのカットが長まわしであり、なおかつ全てが成功している。
長回しで有名な巨匠溝口監督の長回しでさえ、今作と比べればつたない。
※これは時代の技術的な制約のためだろうと考えるが。
長回しは、究極のカッティングである。
ただ長いカットを撮ればいいという物ではない。
要素、画面構成、演技、その変遷。全てを把握してなめらかにつながなければならない、非常に困難な作業である。
普通に撮ると、ただのホームビデオになる。常に緊張感と品位を保ったまま、抜きのない瞬間を連続させるのは、これはもう、想像を絶する努力と才能である。
おそらくこの映画を見終わった人には、全編が長回しだったと意識する人は少ないと思う。
長いシーン中の映像全てが、映画的に質の高い画面となっているため、カッティングによるのと同じような、演出された映像として知覚されているからである。
作品の内容との兼ね合いもあるだろうが、この作品を見てしまうと、カッティングの羅列となった映像など、ただの見苦しいつぎはぎのように感じられる。
映画の一つの到達点、正解が、この作品だと、不思議な喪失感とともに断言する。
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