★★★☆☆
~その景色はもはやファンタジー~
1999年の中国映画。日本公開はずれ込んで2001年。
二泊三日の徒歩で車も通らない山奥をめぐり、郵便の集荷配送を行う山の郵便配達。
三日目に家に帰った翌日にはまた出発する過酷な業務を数十年続けた父は、膝を悪くしてしまい引退を余儀なくされる。
後を継ぐことになった息子は体躯十分だがどうも仕事を甘く見ているようで心許ない。お供であり道案内の飼い犬「次男坊」も初めての旅行きに不安そうである。見かねた父は道筋と村や町での紹介もかねて同行することにした。
いつも家にいなかった父に遠慮がちの息子。
なかなかあえないことを引け目に思いながら、いつも息子を思っていた父。
たった一度、一緒に行う郵便配達が二人に様々な変化をもたらす――。
あらすじ以上の大きな事件があるわけでも無いが、美しい山々とそこに生きる人々を垣間見ていく旅路は充分に見応えがある。
映画が作られた時点で本当にあった暮らしなのか、すでに過去となった後なのか分からないが、美しい水田、朽ち果てた建物、そこで質素に生きる人々の姿はもはやファンタジーの世界である。指輪物語の中つ国くらいの浮き世離れした景色がそこにある。
明治や昭和初期の地方を舞台にした映画を異世界のように感じるのと同じである。見たことないけど懐かしいと感じるのも同じだろう。
全体の流れも美しい。
父にとっては最後の旅。息子にとっては初めての旅。二人一緒は最初で最後。
父は山巡りの知識を息子に教え、息子は村での暮らし(村長には逆らうななど)を教える。
旅を続けながら、父は長年の出来事を回想し、その中に妻(母)との出会いや息子の誕生と成長も含まれる。
息子は父の仕事の過酷さと寂しさ、大切さを思い知る。
そして二人一緒に、母の元に返り、次の日息子の旅立ちを父が見送る。次男坊も今度は息子について行く。
繰り返し続いていく営みの中の、つなぎ目を丁寧に描いており、何とも後味も良い。
父は厳しい仕事の果てに出世することもなく仕事を辞めさせられて形だが、やれ薬をくれただの、希望通り息子を跡継ぎにしてくれただの、やたら上司の対応をありがたがり、お上には逆らってはならないと連呼する。その上司は一度仕事を変わってその厳しさに驚いたとか、家まで気にかけてきてくれたとか台詞でのエピソードだけは良く出てくるが、どうにもうさんくさい。
古く凝り固まった父の考え方という点で無理矢理感はないが、中国のむちゃくちゃな統制っぷりを見聞きすると国家を賛美しなければならない姿勢が滲み出ているようにも感じてしまう。
今、山の郵便配達はどうなっているのだろう。
インフラをつなぐのには電波の方が手っ取り早い。文面だけならメールでもSMSでも良いだろう。山の配達も不要となるだろうか。
この状況は日本でも同じだろう。過疎の村を支えるインフラとして郵便など配達業務は重要だが、コストの面では負担がかかりすぎるため、様々な方法で軽減が試みられている。
結局コロナで判明したのは、物流は非常に大切だということ。物資が行き渡ることもそうだし、便利なネット注文をあれこれ駆使しても、結局家まで届けてくれる人が居なければどうにもならない。人間には情報だけでは生きていけない。実際の「物」がどうしても必要なのだ。情報で代替できる物なのか、そうではない物なのか、きちんと判別されるべきだし、そんない綺麗に切り分けられる物でも無いのだろうというのが自分の認識だ。
手紙なんていらなくて、メールで十分?
多くの場合、気軽に連絡が取れるメールは非常に良いものだ。だけど、いつもと違う意味合いを持たせたい時に手紙は格別な手段となるだろう。
本は電子で十分で、実際の本はかさばるだけ?
場所を取らないこと、検索性が高いことなど電子本の利便性は素晴らしい。だけど、見開きの迫力、それを見越してつくられた漫画のコマ割り、指でなぞって読み聞かせる絵本。実際の本でなければと感じる場面もたくさんある。
自分が見えている範囲だけで完全にどちらかが優れていると断言し、片方に寄っていく姿勢は幼いと思う。
文化の持つ様々な側面を理解できるように心がけ、己の趣味とは違うとしてもそれは認める姿勢を持つべきだ。
白黒つく事柄はそんなになく、大体灰色。
それは悲しいことではなく、豊かなことだ。
だから、手紙は滅ばない。
滅びるなら、それは文化的後退だろう。
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