2018年9月28日金曜日

大脱走

★★★☆☆

~冴えない展開のリアリティ~

二次大戦中にドイツ軍の捕虜になった連合軍兵士達が収容所から脱出するため一致団結して奮闘する姿を描く。
目指すは200名全員の脱走。まさにGreatEscape!

実話(本人手記)を元に作られているため、一定のリアリティを保っているが、反対に言うと割と冴えない展開が多い。
昔観た映画、特に子供の頃観た映画というのは時間に洗われてずれた形で記憶されていることが多い。
この映画もずいぶん昔観た記憶があるが、こんな結末とは理解していなかった
ただ、みんなでがんばって穴を掘り、そこを通って脱出する、と言うことだけは覚えており、見ていると文字通り既視感が湧いて出てくる。
こんな風に一部分でも覚えているというのは、その映画に印象的な要素があったということで、それだけでも強い作品と言えると思う。

やはり穴を掘るシーンとバイクで草原をかっ飛ばすシーンが印象的。
脱走した後の国外脱出のサスペンスもひやひやと楽しめる。

古い映画でも、15分見てその世界に引き込まれる作品なら、体験として近年の映画と同等だと思う。
収容所の暮らし、秘密に進める脱走準備、皆の一致団結、それを暴こうとするドイツ軍……。
面白い要素満載で飽きること無く最後まで楽しめる

登場人物が多く、誰が誰か分からなくなるメンバーが数名。
欧米人の顔は日本人には見分けにくい部分があるのだと思う。

2018年9月24日月曜日

スター・ウォーズ/最後のジェダイ


☆☆☆☆
~本当に最後になれば良い~

エピソード8。
エピソード7のあれこれに辟易したので、もう今後のシリーズは見るまい。
そう考えていたのだが、同僚からの強いすすめでネットで単品視聴権をレンタル。
その同僚はかなり強固なB級映画マニアであるので、そういう意味で「見ておくべき」「感想を話し合いたい」という勧誘。
果たして、厳しい内容だった。

最後のジェダイが誰なのか、それはどういう状態のことなのか――。
旧主人公であるルークとレイアはどうなるのか――。

このあたりをフックとして興味を引こうと宣伝していたが、残念ながら満足行くどころか逆噴射的展開。
初っぱなからIQの低い展開に驚かされ、スター・ウォーズだもんなあと納得したのもつかの間。
ばかばかしい方向にそのまま突っ走っていって帰ってこなかった

これまで見た映画の中で、特に心に残る腹の立つシーンに、「アルマゲドンの起爆スイッチ」がある。
小惑星の爆破処理に一人残って起爆スイッチを押す展開なのだが、さあ押すぞと言う段になって、回想シーンである。
「はよ押せ!」
心がそのままストレートに出た、珍しいくらいまっすぐな突っ込みが出来たと思う。
映画冒頭でこれ級の腹立ちシーンがあって驚いた。
初めでこれなら、この後どうなるんだろう――。

心配したとおり、そういったシーンのオンパレード。
当然テンションの自己回復は間に合わないし、好意的に解釈しようとする認識調整も手に負えない。
たどり着いた終盤での状態はもう半笑い。どうにでもしてくれという諦観。
ここで、あれである。見た人には分かる諸行無常シーン。
――豚バラアタック。
自分はそう名づけた。

個別に目をとらわれがちだが、全体の構成がまずいのも明記しておきたい。
帝国軍に追いかけられる同盟軍のクルーザー。帝国軍を撒くためにあれこれしよう! が前提の流れ。
つまり、クルーザーは延々追いかけられており、何とかしよう班が別惑星に向けて分離したり、初めから外にいたメンバーががんばったりする。 燃料が無くなる時がタイムリミット
主役級にしたい登場人物が多くなったので分割の展開になりました、という感じだが、クルーザーは数日? 逃げ続けており、緊迫感のなさがすごい。
そもそも追撃をかわすために他の星から技術者を連れてきて、追撃する艦艇に忍び込んでレーダーを壊そう、という作戦である。
スター・ウォーズにしてもバカすぎる。
しかも、それぞれ個別の作戦なので連携も糞も無く、結局内緒にしていた本命作戦の邪魔をしただけ。
何度も言いたくなる。スター・ウォーズにしてもバカすぎる。
これなら燃料を延々運搬し続ければ良いのでは無いか。

エピソード8の撤回とやり直しを望む署名があるという、その気持ちはよく分かる。
自分は決して熱心なファンでは無いが、これはやり過ぎだと思う。
まるで、ギャグに特化したパロディのスピンオフみたいなものだ。
金田一の映画シリーズに紛れ込んでいる、「金田一耕助の冒険」だ。
パロディならば、どんな珍奇な展開も許容できる。

だが、撤回は難しいだろう。
信じがたいのだが、この映画を高く評価する人もいるようだし、興行的には十二分な成果をもたらした。
次の作品も動いているようだし、もう止まらない列車が走り出したのだ。
自己崩壊しながら進む列車はどんな姿で次の駅に辿り着くのだろう。

心に残っているシーンはたくさんある。
・レイアのティンカーベル
・ルークのサバイバル講座
・5分で簡単ジェダイ講座
・ぽいぽいライトセイバー
・やっと気づいた光速アタック
・豚バラアタックからの豚バラキス
・黒幕の始末
・遠隔無敵作戦
全般に、それが出来るなら初めから……、という展開が多い
登場人物とシーンを切って一時間くらいにまとめると楽しい映画になると思う。

現実世界の中で、時々、頭の良い人がめちゃくちゃなことをすることがある。
まわりにそれを褒めそやす人がいる。
異論を聞かない細かな集団が決定権を持ったとき、本人達は冷静で、適切な選択をしているという意識で、とんでもない事をしてしまう。
SNSの基本的なスタンス、見たい人が見て、見たくない人は見るな、が社会全般に浸透してきているのだろう。

あとは自分の文章がそうでは無いことを祈るばかりだ。

もう今後のシリーズは見るまい。 (二回目)

2018年9月20日木曜日

王様ゲーム

 
☆☆☆☆
~すごくバカバカしい~

金沢伸明による携帯小説のコミカライズを原作としたなっているワンクールのアニメ。
携帯小説とは携帯で書かれ、携帯で読まれるのが主体のweb小説総称。

高校のクラスメート全員に突如として送られた「王様」からのメール
誰と誰がセックスしろ、誰が誰を殴れ。――理不尽な命令が書き込まれており、制限時間内に従わないと「罰」として死ぬ。
無茶な命令と罰の死に方バリエーションが見どころ。

直近の事象しか(これもかろうじてだが)理屈が合わず、全体としては常に無茶な展開、設定が多い。
短いペースでショッキング(という設定)な展開が差しはさまれ、無理矢理次の展開に流れていく。
ベルトコンベアーに乗ったような、四コマまんがのような、NHK朝の連ドラのような内容。
本当に携帯で書かれていたのかどうかは知らないが、一ページ分の内容で勝負している(後は気にしない)感じはいかにも携帯小説のイメージ。
なんか色々後腐れが無く、軽い。刹那的。

自分は全話視聴したが、あまり前向きな心根の視聴ではなかったので、まだ見ていない人は、積極的にスルーした方が良い
ネタバレ含みで、きつかった点を上げてみる。

●泣きすぎ
サッカーまんがの「キャプテン翼」でよくネタにされるのが、カパッと口を開けたシーンが大半だという不自然さ。
「酸素足りん魚か!」とか言われる。
同様にこの作品では涙が滂沱として流れるシーンが非常に多い。印象としては誰かしらが常に号泣している
あまりに頻繁なので、定番のギャクネタとして面白くなってくるくらい。また泣いとるわ、と。


●あふれるドキュン感
「DQNとは軽率そうな者や実際にそうである者、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者かつ、
非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いる」- ウィキペディア -

登場人物が全員この範疇に入る。
お互いに下の名前で呼び捨てにするのが基本。理論だった思考よりもその時の気分を重視
正論を言われると大声で叫び、滝のように泣きながら勢いだけで道理を無視する。
各キャラクターだけでなく、話の進み自体もドキュンな印象。
「メール」⇒「特に対策せず誰か死ぬ」⇒「友達が死んだんだぞ! と泣く」⇒「メール」……
これを延々続け、特に対策しない具合が凄まじい。
その時その時の一瞬のきらめきが大事で、前のことは忘れていく。


●予想できない展開
常識を無視して話が展開するので予測不可能。

「バッターがバットでピッチャーを殴って判定はホームラン。審判がビールの売り子に一点加点」する感じ。
※自分で書いておいて何だが、↑は今作の雰囲気をとても良く表せていると思う。
具体的には、
・水没した仲間を助けるために人工呼吸と心臓マッサージを、潜水したまま行う。
・全身炎まみれになったまま、パソコンをいじったり、普通にしゃべったりしたあと、きれいなまま死ぬ。パソコンもきれい。
・伝染病のウイルスが、いつの間にかネットに入ってウイルスになる。バグもある。
・数年間道の真ん中(屋根無い)にほったらかしにされた大学ノートが新品同然。
・遭難者もいる数時間の山道を、華奢な女子高生が男子高生の死体を引きずって移動させたあとラブシーン。 etc.


こんなのを大まじめでやるので、きっついギャグアニメの範疇に入ってくる。

●アニメの出来も厳しい
2017年のアニメであるが、画面、演出共にかなり厳しい。
「誰が何をしている」かがかろうじて分かるというレベルで、それ以上の積み上げはない。
王様のメールによる指示が重要で画面に映りはするが、時間が短く読めないため情報が常に足りない。
作中、何らかの物語的なトリックが展開されている節があるのだが、「よく分からない」ので、トリックの存在自体に気がつかないことが多い。
売りであろうショッキングなシーンは、絵のつたなさとぼかしが相まって、やはりギャグのようになっている。

そんななら見なければ良いのに、と言われると返す言葉も無い。
初めは面白かった、とかでは無く、初めからおかしい。見始めてすぐに感じた感想は、
「こんなレベルの作品を、地上波で流して良いんだろうか」
実際本当に「こんなんええんか……」と口をついて出ていた

どんどんむちゃくちゃになっていく展開と、くり返しのリズムで催眠術にかかったのかも知れない。
恐い物見たさのように次々と最終話まで見てしまった。結局謎も何も解明されず、描かれたことすべてが無駄。

なにに対してか、「ごめんなさい」と言いたい気持ち。

2018年9月19日水曜日

ハーモニー

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★★☆☆☆
~空振りリリー~

SF小説家として高く評価されながらも、数作を残して30代で夭折した伊藤計劃の小説を元にしたアニメ映画。
原作とアニメは各所に違いがあるようだが原作未読の感想となる

多くの人間が体調管理をシステムにゆだね、投薬により長寿と健康を約束された世界。
その管理状態に異議を唱える少女三人は自殺を試みるが、二人は生き残ってしまった。
罪悪感と喪失感を抱えて大人になった二人が久しぶりに再会した時、管理システムを使った「強制自殺テロ」が発生。
その首謀者のメッセージに、死んだはずの一人の影が――。

世界設定が提起する問題を角度を変えながら検討するために物語が存在する印象。
検討については会話こそが主体となっており、当然だが本来の小説という媒体に最適化した作品なのだろう。
映画としては会話シーンが非常に多く、きちんと意味を理解出来ているのか不安になりながらの視聴となった。
3Dモデルによる表現と通常の作画による表現がおり混ざっているが、両者の足並みを揃えることで違和感は少なくなっている。
だが、合わせた足並みが事キャラクターに関していえば――低い。
3Dモデルの緻密さを薄め、通常作画の活き活きした描線を無くす。両者の利点を削る形で二つを合わせている。
会話シーンの退屈さを埋めるためにカメラをがんばって動かしているが、意味のなさが透けて違和感が強く、拙い。
上記の様な苦しさはあるが、意図を持った演出と一定の画面クオリティを保持しているので、マイナス評価に直行するものでは無い。
健全と不健全の印象が入り交じる奇妙な町並み、飛行機。美しい風力発電機。
小説の風景を映像に落とす部分では、十二分の努力をし、それに見合った成果を得ている。

この作品が扱うテーマは「人間には意識が必要なのか」だと思う。

作中に言及されてはいないが、「哲学的ゾンビ」を知っているとイメージしやすい。
――特定の反応を無限に定義することで、人間と全く同じ反応を示す存在を作ったとする。
この反応の集積である、魂、意識という物が無い存在を、人は区別できるのか――。

テロリストは体調管理システムを利用する事で、大多数の人類を強制的に「擬似哲学的ゾンビ」に陥れ、世界平和と人々の心の安寧を実現しようとする。
擬似としたのは、どうやら本人の個性を保ったまま意識を消滅させる(これが哲学的ゾンビ)のでは無く、皆が画一的に平和的な行動を選択するようになるだけだから。
この擬似哲学的ゾンビ状態を、作中で「harmony」と呼んでいる
このハーモニー状態、意識は再度戻すことが可能な模様。
テロリストは、自分が実証実験でハーモニーになった経験を元に、意識が戻った後このテロを思いついている。
さらにその間、非常に幸せだったとも語る。ハーモニー感の間記憶は無く、ただただ幸せ。

つまり、テロリストはみんなを薬物トリップ状態にするスイッチを押そうとした、ということ。

この設定には、まるで恐怖が無い。
ただの気持ちよくなるポーズスイッチを押すだけで、すごく規模の大きな趣味の悪いいたずらにすぎないからだ。
誰も何も喪失しない(年齢でさえ長寿が喪失を薄める)し、結構取り返しが効きそうだ。

到達するのが本来の哲学的ゾンビでそれが立ち戻りの出来ないものならば、これは恐怖である。
「個性も保持したまま意識が無いだけで、全く変わらない世界」は合わせ鏡を覗くような精神的な不安定、恐怖に繋がる。
さらに意識が二度と戻らないのであれば、それはもう、見る者の居ない演劇を延々続ける世界だ。
真にぞっとするが、そうなったとしても演劇が上映されていることに価値がある、というテロリストの主張も恐い。

全員がハーモニーになったら、「戻る」ボタンを押せないから永遠にそのままなのでは?

これについてもきっちり抜け穴がある。人類全体では無いのだ。
システムに依存しない人々が、大量にいることをわざわざ作中で語っている。
したがって、彼らの活躍次第でいくらでも戻ってこられるのだ。

さらに挙げるなら、人々をハーモニーにするスイッチは、テロリストでは無い為政者が持っていた。
テロリストは世界中に暴動を発生させることで、為政者に自らそのスイッチを押させようとする。
果たして押すわけであるが、為政者が自分も意識を失うようなスイッチを入れるだろうか。
そんなはずは無く、自分たちは意識を保ったまま、ハーモニーとなった人々の様子をうかがうだろう。
それは別の形の管理が開始されるだけで、テロリストの望むものでは無い。

こうしてみると、テロリストはずさんな勘違いをした小物、もしくは理想の低い俗物だし、主人公はそれに振り回された愚か者だ。
全編を通した印象で整理すると、

・テロリストは中二病を治せなかったお嬢様
・主人公は彼女に恋して盲目になった同性愛者

二人のごっこ遊びに世界が巻き込まれた、という事になる。

まさか原作小説はこのような形になっていないと思う。
どうやらアニメ化時の改変が致命的な穴を作って、物語の意味を喪失させてしまったようだ。

この作品の題名は「 <harmony/>」である。
ハーモニーという単語が記号にはさまれている。これはHTMLといった言語に良くある文法で、単語に色々な意味を設定する記述である。
冒頭、最後にはこのような文面が多く出てくるが、理解すべきは、「これら文面は機械が書いている」と言う雰囲気である。
つまり、この物語自体、ハーモニーとなった後の主人公が意識無く記録している内容だ、と言うこと。

それって、意識じゃ無いの? という入れ子構造で物語を閉じたのか。
はたまた意識のない者が語る物語を、我々は意識ある者の言葉として2時間聞いていた、という哲学的ゾンビに対しての回答と恐怖なのか。

どちらにしても、設定の不備が壮大な空振りとなって、狙ったのと違う意味で虚無を作り出している。
思考実験の素材として、とてもとっつきやすい作品にはなっている。

2018年9月14日金曜日

オデッセイ

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★★☆☆☆

~意外とご都合アドベンチャー~

リドリー・スコット監督、マット・デイモン主演のSF映画。
事故と不運によって火星に取り残された生物学者の奮闘を描く。

この監督・主演にしてみると、前宣伝も長くなくパッと登場してきた印象の映画。
メイキングを見るに様々な好機に恵まれ、トントン拍子に完成した映画らしい。
そうして考えてみると、舞台となる場面は少なく、室内も多い。コンパクトな映画なのかも知れない。

入ってくる情報からすれば、宇宙版ロビンソン・クルーソーであるが、あまりサバイバル日誌という感じではない。
何しろ肝心要の食糧の確保について、そうそうに目処をつけた後は問題が発生しても「強い意志による節約」で終わり
様々な状況に対処する能力と克己心をもつエリートが宇宙飛行士であるのだから、効率的な解が見つかったらそれに従うのみ。
ひとりぼっちの生活も、日々の労働も、ただ黙々と行う印象。
多分、リアルなのだろう。
だけど、冒険譚として物足りなく感じた。

乏しい食事をそれでも華やかにするために行う試行錯誤であるとか――。
狂いそうになる自我を保つための奇妙な行動であるとか――。

渇望する救援と長い時間にすりつぶされるような感触がまるで無い。
正しい行動を行うロボットのような印象。「キャストアウェイ」が愛おしく思える。

売りになっている科学的考証が、かなり恣意的だと感じる。
もとより話の突端である火星の大嵐。大気の薄い火星ではそれほどの脅威にはならないとの事だが、大嵐にしている。
それなのに、後半では大気の薄さを逆手にとった脱出作戦を組んでいる。
また、そもそも火星の重力は地球の40%らしいが、この表現は全編を通して無視している。

描く事の主軸で無いならそういった取捨選択はするべきだと思うが、科学的な検証を売りに出来る状態では無いなと感じる。
重力40%については、苦労と効果を天秤するとそりゃ無視するだろうと納得だが、何でもCGで可能に思われる映画の世界でも、やっぱり大変な事は大変だよなと改めて思えたのが目新しかった。

2016年9月29日木曜日

ベルセルク(2016 テレビアニメ)


★★★☆☆
~PS1ゲームのデモムービー~

作者存命中の完結が危ぶまれるマンガの筆頭である三浦建太郎のダークファンタジーをアニメ化。
アニメ化はテレビアニメでは二度目。映画は三部作が存在。一度目のテレビアニメと映画では映像化の範囲が被っているが、今回は未映像化の部分なのでまずそれが嬉しい。

範囲は「蝕」という決定的なターニングポイント、ある意味物語にリセットがかかった所から、最も大きな物語のパーツが登場するまで。
「断罪編 生誕祭の章」が中心となっている。
半端といえば半端だが、起承転結の効いた区切りの良い部分なので上手い切り取り方だと思う。

映像の方針がとても特徴的。
セルシェーダー(アニメ塗り効果)+ハッチング(カケアミのような処理)の3DCGを中心に据え、CGでは出せない表情や3Dモデルを作っていられないような部分を既存の手書きアニメで作成、こちらにもハッチング処理を乗せることで両者の絵柄を合わせている。
この3DCGにするのか手書きにするのかの判断が非常に上手く、なおかつ手描きアニメのクオリティが高いので、3DCGによる緻密さ(細かな鎧や多数の人間の動き)と情感ある手書きの魅力の良いとこ取りとなっている。
問題と感じるのは3DCGの質が手書き部分に対してあまりに劣っていること。静止画ならある程度均衡していそうなのだが、動きが厳しい。これはもうPS1時代(ゲームに本格的に3DCGが導入されたタイミング)のモーションクオリティである。人間の各部の動きが連動しておらず、人形がぎこちなく動いているというレベル。

ゲーム業界に関わっているものとしては、3DCGの質の向上を間近で追ってきたわけで、2016年にこのモーションは厳しい。
申し訳ないが、3DCGを勉強し始めた学生レベルである。例えば腕を動かすと、その反動によって体の軸が動き、バランスを取るために足や頭も動かさないとならない。これら動作は同時に、連携して発生するのだが、今作のモーションは純粋に腕を動かすだけ。プラモの肩関節を回すだけのような無機的な動きが多発している。3DCGにおける「動画崩壊」といって良いだろう。
それに加え、これこそが致命的だと思うのだが、カメラが無意味に動きすぎている
被写体を中心にグルグル動き続け、画面の変化としては派手で目を引くが、何かを表現するために動かすという観点が抜け落ち、ただ間を埋めるための手段として動かしている。
この、「3Dになったことで(わりと)自由にカメラを動かす事ができるようになった」という手段の拡張におぼれて、分かりにくく、ダサい表現を多発したのもPS1時代の黒歴史……。
監督である「板垣伸」氏は自身のコラムで以下のようにその意図を綴っている。

『乱暴で大雑把なガッツをダイナミックなカメラで追っかけようと思ったんです。フレームにキレイに収める事ばかりじゃなく、むしろハミ出すガッツを描くつもりで。まあ実は「映画と言えばFIX(カメラ動かない)が基本!」などの90年代的映像インテリ概念がかなり眉唾だと思ってるんです自分は。もちろんFIXだって重要ですよ! でも「何をおいてもまず最初にカメラを動かすもんではない!」と決めてかかり、遂には「カメラが動くからダメ!」とインテリぶるのが眉唾なんですよ。』http://animestyle.jp/2016/09/01/10420/

決めつけは良くないし、実践してその結果を次作につなげていけば良いのだと思うが、これだけは言っておきたい。
すでにその方針はPS1時代(1994~)からゲームでも映画でも試み続けられ、その結果「意味なく動かしても良いことは無い」と分かっているのだ。
自分の経験値の低さをして、分かりきっていることを前衛のように世に問うのはあまりに恥ずかしくないか。もうみんなその方向はあかんと実践済なのだ。
板垣氏の弁では迫力のアクションシーンのみカメラを動かしているかのようだが、実際の作品内では、ただモブがしゃべるだけのシーンで視点、注視点共に動き回り、節操がない
カメラをぶん回すのはありだが、押さえるところは押さえて、とりあえず動かす姿勢はやめろ、ということ。
どんな表現にも緩急が必要で、その差異こそがリズムやテンポを産み、作品に求心力を与えていく。
今作はずっとフルスロットルで動き回っている印象。緩急なくただうるさいだけ。これではカメラが激しく動いていることが魅力になるだろう、アクションシーンが埋没するだけだ。
※最近の映画やドラマは、これまでならフィックス(静止)していただろうカットもわずか~にズームさせるなどして画面を動かし続けている。
これは動いている事を知覚させない範囲で、画面に対する興味を保たせるための技法で、位置づけとしてはフィックスに近い。


――冷静に考えて、この情報量の画面を動かし、毎週放送のアニメを12本作るということは、それだけで賞賛に値するとも思う。
原作の重苦しい雰囲気を再現できているし、モーション以外は興醒めするような部分が少ない。
様々な問題を乗り越え、とても良くがんばったのだろうと想像に難くない。
おそらく3DCGの質が低いのを何とかするために、カメラを動かし続けるしかなかったが、それを理論武装して、さらに発信してしまったのがまずいだろう。
黙っていれば突っ込む隙も無く拍手と同情をただ受け取れていただろうに――。

テレビアニメでも3DCGの導入はどんどん加速しており、あふれた作業量は質の低い3DCGとなって現れる。
これは手描きアニメがたどった同じ轍であり、だとすると作業は海外スタジオに流れ、国内は人材のドーナツ化に見舞われる事になる。
絶望的かと言えば、会社に所属しない形のクリエーターが個人で発表する作品の質は確実に向上しており、それが商業化して覇権さえ獲得した「新海誠」氏のような例もある。
徒弟制、体育会系のような制作現場が、今の世に合った見通しの良い、意欲を活かして形にできるような形に進歩するには、どのような手段があり、また、それがきちんと再生産されていくサイクル(適切にお金になる)仕組みは、日本のアニメ界崩壊に間に合うのだろうか。ゲーム業界も同じなので人ごとではない胸騒ぎが止まらない。