2012年2月26日日曜日

ピラニア3D


~期待通りなんだけど~
★★☆☆☆

B級映画の代名詞といわれる作品をリメイク。
夏。水着の美女。露出。人喰い魚パニック。
およそ想像したとおりの映像、物語が展開し最後まで期待を裏切らない。
ともかくお色気。ともかくスプラッター。生々しいもの同士がぶつかり合う映像は、なにか性欲を越えた別の欲情を発現させられそうである。

このようにサービス満点の本作だが、肝心の3Dがいただけない。
CG部分はともかく、実写素材は明らかに後付けの3Dである。

どのように後付けされるのか、詳しい手法は分からないが、おそらく延々と領域選択、3D情報の設定を行うのだろう。手作業の限界から粗の見えるシーンが多発している。
整理がてら後付け3Dの特徴を挙げてみる。

・人物の輪郭が不自然
輪郭を回り込んだ画像の情報が足りないために、輪郭に注視すると違和感が強い。人物が金太郎飴のように向こう側に垂直に延びているように感じられる。

・細かい立体区分けがなされていない
空中に張られたロープなど細かい奥行き設定がされておらず、ひとかたまりの立体感になっている。ピラニアでは船のロープがよく画面に映るため、違和感を感じる場面も多かった。

・微妙な凹凸がおかしい
人間の顔アップのようになだらかな立体感の表現が弱い。適切な立体感を手付けするのはとても大変だろうし、顔のように誰もが見慣れた立体感は違和感を感じやすい。

・CG部分との差異
CGで作成された部分は厳密な立体処理がなされている。(計算で作成するのだから当然だが)
これとい実写立体感の差異が苦しい。カット別の違和感。同じが面の中の立体精度が異なる違和感。

と、上記のような点が明らかだろう。
いくつかの後付け3D映画を見たが、かけたであろう手間、つまりは金額によって同じ後付けでもそのクオリティには大きな違いがある。時間と労力をかけて丁寧に丁寧に処理すれば、ネイティブ3Dと遜色のないレベルまで持って行くことは可能だろう。ただそうすると、元から3D撮影をした方が良かったのではないかというジレンマが近づいてくる。
後付けの技術、経験蓄積によるクオリティ向上は全体傾向として明らかだ。
今後もこの形式での3D映画はどんどん出てくると思う。ただ願わくば、追加料金に納得がいく程度の魅力は保持してほしい。
その意味で、今作は望まれるレベルに達していないが、お色気シーンを3Dという目論見については一定の頑張りを見せており、全体ではまずまずといった所か。

2011年9月7日水曜日

少年メリケンサック

~ヤンキーコメディー~
★☆☆☆☆

宮藤官九郎脚本、監督。宮崎あおい主演のバンド映画。
といってもメインのバンドは解散後数十年が経過した初老の集団。解散ライブ映像がネットに出回ったことで、大きな時差を経たブレークとなった。

宮藤官九郎の脚本らしく、登場人物全員がちゃらんぽらんでいい加減。そのくせ自意識とプライドは過剰と、ヤンキー向けの映画だろう。自分には感情移入できる一人もなく、外国のシチュエーションコメディーを真顔で見る気分だ。

この、外国のコメディーというのはなかなか言い得て妙で、日本のコメディーらしからぬ放り投げた感じがそうさせるのだろう。
自分の認識では、洋画、特にアメリカのコメディー映画は回りに迷惑をかけすぎる。主人公が周囲を信じられないような目に合わせて、大変なことになった相手の姿を笑う。
対して日本のコメディーは迷惑が仲間内で収束する。笑いの根本もひどい目にあった人よりも、ひどい目にあった人に逆襲されてさらにひどい目にあう所で笑うパターンが多い。
もちろん完璧に当てはまる決まり事ではないが、結構うなづける点も多いのではないか。洋画コメディーと言わず、トムとジェリーなどの米アニメーションをイメージした方が分かりよいかもしれない。
洋画コメディーの主人公は、回りを気にしない馬鹿で、邦画コメディーの主人公は、回りを気にしすぎる馬鹿だ。

この映画の主人公は明らかに前者である。
傍若無人な振る舞いに悪びれることなく、回りをひっかき回し続ける。迷惑をかけられる方に感情移入してしまう身としては、いらだたずにはいられない。所々に吐く格好いい言葉も上滑りして物語に根を下ろさない。

極力、好き嫌いをのぞいて考えてみても評価は大して変わらないだろう。宮藤官九郎の脚本はフックに富んだ奇抜で興味を引くものだが、監督としてはひらめきを感じない。各シーンで何を描くのかが茫洋としていて、それらをつなげた各シーンもうまくつながらない。ぶつ切れの日記を見ているような、物語を感じられない内容となっている。
脚本と監督は別の才能がいるのだなあという感想。

2011年9月6日火曜日

コクリコ坂から

※リンクは脚本書籍です。

~見ていません~
未鑑賞

見ずに感想を書くのははなはだ卑怯で無意味な行為だと分かっているが、あえて書き付けておきたい。見た上での感想は、いつかまた追記する機会があるだろう。

脚本を宮崎駿が書き、息子の宮崎吾郎が監督をしたスタジオジブリ制作のブランドアニメーション。
ともあれ宮崎駿がかかわり、ジブリアニメであり、ポスターも印象的。恋物語の雰囲気は「耳をすませば」「海が聞こえる」を連想させる。
映画を定期的に鑑賞する層なら、普通、見に行くだろう。自分も悔しいが興味を引かれずにはいられない。

しかし、自分はこの作品を、見てはいけないものだと感じた。

すべての行動は、世界の有様に対して投じる一票なのだと思っている。
選択の自由を持った状態で、多様な特徴を持つ対象の中、どれを選ぶのか。
分かりやすく例を挙げるなら、安くてそこそこの品と、高いが質の高い品。どちらを選択するのかには、その人の生き様、考え方、望む未来の姿が関わる。その品に対するスタンスを知らず決めて示しているのだ。
一人が何を選ぼうが大勢に影響はない、と言うのなら、その人は選挙に意義を感じない人だろう。確かに一人の影響は小さいが、その集積が決定力を持つことも事実なのだ。
この場合、投票されるのは、貨幣だ。
選挙よりも、組織票や自覚がない分、正味の多数決が行われているとさえ思える。一人で何票も入れられるが、毎日毎日選択し、投票する状況で、そのような行為は時間に紛れていく。

僕は、この映画に対価を支払うことを、観客動員数にカウントされることを、拒否する。
この映画に、貨幣という一票を投じない。

なぜなら、宮崎吾郎監督が前作「ゲド戦記」で犯したあまりに大きな失敗と、それを許して再登板させる回りの人間達の判断は、自分が望む世のありようと、あまりにかけ離れているからだ。

なぜ、皆、ジブリに甘いのか。
ゲド戦記を見る前に感じた期待感と、その後の喪失感をそんな簡単に忘れられるのか。
ただ作品を見ただけでも、おもしろくなかったと感じるだろう。宮崎駿作品との決定的な差異を思い知るだろう。
父と子の葛藤、会社組織のいびつさ、経営者と職人の差異。ジブリの内情を知るものは、それがにじみ出た作品に嫌悪を感じてしかるべきだ。

自分は、宮崎吾郎の再登板を許す、許さざるを得ないジブリと、その内情に同情して温かく見守るファンの生ぬるさに、反対の立場をとる。
そうでなくては、輝きを放ちながら時代の波に消えていった幾百の作品達、幾千の関係者に申し訳ないではないか。

宮崎吾郎監督は、完全に親の七光りである。
彼の立場の困難、積み重ねた努力を知ればそんな風にいえなくなる?
否。
本来許されるべき一回のチャンスを、彼は失敗した。

二度目のチャンスがこのような形で許されること自体、七光り以外の何だというのか。

2011年8月8日月曜日

沈まぬ太陽

★★★☆☆
~たっぷり楽しめる超長編~

3時間22分にわたる超長編映画。テレビでの放映はノーカットで実に4時間枠。良く放送したと思う。

大人の事情はあれこれあれど、どう見ても日本航空や日航機墜落事故がモデルとなっており、その他もろもろも実際の会社内の雰囲気を反映したものであるのだろうと思われる。
自分などは日航の提灯持ち映画かと思っていたため、会社の腐敗っぷりがこれでもかと描かれるのに驚いてしまう。当の日航も気分を害し、映画化に抗議を行ったという。

主人公に渡辺謙を配し、時にエキセントリック、時に自重のきいた説得力のある人物像を描く。労働闘争時代から海外派遣、墜落事故以降の東奔西走と、数十年をたどる大河ドラマの骨子となるのは、かつて親友であり、途中で道を違えた二人の男の人生の交錯。物語を追えば善たる主人公とそれに立ちはだかる悪に落ちた友人となるが、それぞれの立場でそれぞれに抱える問題がきちんと描かれており、感触としてどちらが善でどちらが悪といった単純な割り切りが出来ない。

どうにも変えることの出来ないメカニズムが国の中に鉄骨のように完成されており、それは支配者階層の決めた一方的な構造であるがため、いびつで狂っている。それに気づいた時、システムに沿って窮屈に生きることを選ぶのか、蟷螂の斧で無謀な戦いに挑むのか。
この問題は時代を超えて普遍的なものなのだろう。自分でさえ、長い物語の間にあれこれと考えさせられた。

映像も全編にわたって丁寧に作られており、海外ロケがきちんと敢行されているのが品格を高めていると思う。飛行機関連の描写は少なく、特に航空機業界の物語だと構えてみる必要はないだろう。登場人物も多く、複雑に感じられた部分もあるが、長い作品時間がきちんと物語を描くことに費やされているため混乱することなく理解することが出来た。

最後に題名となった言葉が主人公の口から出るが、どうも唐突で、作品とは似つかわしくないもののように感じる。
物語自体、最後がどうも尻切れトンボに感じられるが、2010年の日航破綻まで続いていたのなら、物語としてさらに完成したものになっていたのかも知れない。

2011年8月7日日曜日

ライアーゲーム ~ザ・ファイナルステージ~

★★☆☆☆
~決勝戦を劇場で~

テレビドラマを2シーズンこなした果てに最終エピソードを劇場版で公開。自分もテレビドラマを一通り楽しんでいたが、映画館に足を運ぶほどではなくテレビ放送で視聴した。
こういったいわゆる劇場版商法は、これまでの時間を人質に取られたみたいで反発したくなる。なにか納得いかず卑怯なんて言葉も浮かぶが、おそらく突然告知するのが阿漕だと感じるのだ。最後の最後でそれまで説明の無かった料金を求められるのは、とても詐欺っぽい。フェアじゃない。
テレビ放送で一応完結してくれていれば、さらなるコンテンツの登場を喜べるだろうが、今作は見事にテレビ版は中途半端。これまでの戦いの決勝戦を映画でやるというのだから何を言われても仕方がない。最後を豪華に締めくくってくれて嬉しいという人もいるだろう。自分にも多少その気持ちがある。
公開当時は見に行かず、先頃のテレビ放送でやっと視聴した。
もともとテレビ版も編集にこってあれこれ手を尽くしていたので、映画だから何が豪華と言うこともなく、そのままのクオリティ、そのままのテンション。納得のいかないところ、つじつまが合わないところを展開の早さで煙に巻き、うまく興味を持続させていく。
見事だなと思う。映画の流れに身を任せるのが気持ちよい。ごちゃごちゃ考えず、ややこしいトリックはああそうなんだで流してしまうのが楽しみ方だろう。
お金を払ってみるかというと、やはり少し物足りないが、ドラマの延長としてテレビで見る分には完結編として十二分に楽しむことが出来た。

ハリー・ポッターと死の秘宝 Part2

※リンクはPart1です。

★★☆☆☆
~けつが痛い~

冗長で長い。
この一言でこの作品の特徴がほぼ表現しきれる。

七作続いたこのシリーズもこれで最後。幾人もの監督の手を経てこの長いレースを完走しきったことに惜しみない賛辞を贈りたい。シリーズ制作を維持できないファンタジー大作もある中で、人気を持続しながら八作品を継続して出し続けるのはすごいことだ。

八作目はシリーズ初の3D上映。さほど3D感は強調されていないが、見やすく、アクションシーンの魅力を増加するそつない立体効果だった。どちらでも良いのなら3D版を見ればよいと思う。字幕版でも特に違和感を感じる点はなかった。

物語はシリーズ中盤からの流れを引き継いで、魔王との最後の決戦。バタバタ人は死に、追いつめられ、泥沼の中で延々もがくような雰囲気。
おそらく、ハリー・ポッター原作自体が、途中からおかしい。
爆発的なヒットを飛ばした一作目~三作目程度までは、未知の魔法世界を体験する驚き、喜びに溢れていたのが、中盤以降は出生の秘密やら宿命やら魔王の策略やら鬱に鬱にと潜り込んでいく。それはまるで「サルでもかけるマンガ教室」で「とんち番長2」が陥った状況だ。(わかりにくい例えですいません。本当にぴったりなので)
まじめにまじめに展開しすぎて、息を抜ける瞬間のない、重く、どんよりした作品になってしまった。誰もそんなの望んでいなかっただろうに。

今作はそういう溜に溜めまくった鬱屈を一息に吐き出す気持ちよさを持てたか? 残念ながら答えは否だ。最後もすっきりしない中途半端な印象で幕を閉じる。これまた例えで恐縮だが、「魔女の宅急便」で最後の飛行船事故の下りがまるでない状態だと言える。確かにその部分が無くともきちんと鑑賞すれば物語がまとまっているのは分かる。しかし、ここまでシリーズを経た果てなのだから、もっと分かりやすい喜びのシークエンスでまとめても良いのではないか。
加えて今作は先にも書いたように冗長だ。
スローモーションの多用。余韻を持たせるゆったりとしたシーンの頻出。緩急織り交ぜるバランスが悪いせいか、やたらと長く感じるのだ。正直お尻が痛くなり、3Dならではの姿勢を強要される感覚と相まって、ずいぶんつらかった。
一作を二つに割ったから? 最終編の重みを出すため? ともかく、そのあげくにあのラストなら、もっと早くまとめてハッピーなシーンを増やして欲しかった。

思うに、映画作品は原作に忠実だったのだろう。
原作を読んだわけではないが、一筋縄ではいかないぞ、という気負いを展開の端々に感じる。それは意固地で頑固な香りがして、少々鼻につく。とかく素直ではなく文学作品ぶろうとしているような。
これはイギリスのファンタジー作品全般に言える気がするのだが、教訓や宗教的寓意性のために、物語のつじつまや登場人物の心情を無視しすぎではないだろうか。もしくは長大な作品がために、一貫性を失っているのか。

結局、描かれるエピローグも内容は大団円のはずなのに不思議と敗戦国のけなげさと言った雰囲気で、終わったという満足感も喪失感も感じない。ただ、すべてのシリーズを見たという、内容とは関係ない達成感のみだ。
世界はそれでも営み、続いていくよという至極まっとうで地味な正論をもって、長いシリーズを終えている。それは志高く立派なことかもしれないが、このようなお祭り大作でそれを露骨にやられるのは、場違いな気がする。単純に言うなら、好みではない。