2014年4月13日日曜日

グスコーブドリの伝記

 
★★★★★
~希有な映像体験~


宮沢賢治の作品を手練れの職人がかっちりと映像化。
驚くべき映像クオリティと豊かなイマジネーション。
ジブリをはじめとする日本的なアニメーションとは印象を隔し、なおかつピクサーのCGアニメーションとも違う手書きアニメーション。ほかでは観ることの出来ない映像世界が豊穣に実っている。

猫の擬人キャラクターによる宮沢賢治の映像化というと「銀河鉄道の夜」が先鞭だが、それもそのはず、監督、キャラクターデザインなどのスタッフが同じ顔ぶれとなっている。宮沢賢治の透明感溢れる世界と抑えがちな表情の猫達の組み合わせは、もうそれだけで心をときめかせる。思うに、人間ではなく猫の姿を借りることで、不思議な世界とのバランスがぴったり合い、凹凸のない映像として心に迫ってくるのだろう。

物語は未読であるし存在さえ知らなかった。ただ、寒村の貧困を解消したいという熱意と自己犠牲精神の貴さを童話に託したその内容は、自分の知る宮沢賢治の姿そのままであり、見知った作品達と何らぶれのない内容だった。
物語自体は、おそらく銀河鉄道の夜ほどの一般性を持たない。単純にいうと地味でキャッチーではない。しかしそれが映像になったとたん、胸を詰まらせるような一途と切なさに満ちて、忘れられない映像体験となる。

言葉ではなく、映像で示すということ。
この映画には、昨今の映像作品で軽視されがちな基本原則が脈々と受け継がれている。近年目に付く映像作品は物語の筋を示すことに汲々とし、言葉にしないと伝わらないと思いこんでいるように、状況も、心情も、肥大化した自意識のままに垂れ流す一方のものが多いように思う。
それは一つの演出、方法論ではあるが、テンポを付けるための変化球だろう。全編それでは効果的ではないし、ただの色物だ。しかし、色物が色物として目立たないほど、奇異なスタイルが蔓延している。
とどのつまり、自信がないのだ。
言葉という明確な情報伝達手段を用いねば、伝えるべき事が伝わったと確信できないのだ。優しい眼差しでほほえむだけでは伝わらぬと、「愛してる」「好きです」と飾りたて、本来の淡い色彩を台無しにしてしまう。
轟音ばかりでコントラストのない音楽。
笑い所まで指定されるテレビキャプション。
わかりやすさ、単純さをこの上ない正義だとお題目のように掲げ持ち、その実、本来のシンプルや元の形が持つ力を失っているのではないか。感じ、理解するという能力を浅くしか耕さず、根の張れない畑を作っているのではないか。

そんな中、今作は急流に屹立した岩のようなものだ。
空気が、映像とともにある。
ブドリの妹が神隠しされる場面には心臓をつぶされる。
探し求める世界の不可思議、一歩先に満ちる不安な予感。
はじめてみる都会の不思議な感触。
目の光る猫に感じる恐怖と安堵。
それらを包み込み、満ちている、なぜか分からないけれど優しい気持ち。
この映画は「観る」のではなく「体験」するものだ。
丁寧に整えられた滑らかな映像の中に吸い込まれ、ブドリと一緒に不思議な体験をする。見終わった後に残る寂しさ、侘びしさ、暖かさ、心強さ。
マイナーとしかいいようのない作品だが、希望ではなく確信として、この作品は後年名声を勝ち得ていく名品だ。観た者の心に根を下ろし、いつか再び花を咲かせる感性の種だ。

あの「銀河鉄道の夜」を一生忘れないのと同じように、「グスコーブドリの伝記」も人生に寄り添って、きっと消えない。

2013年6月16日日曜日

華麗なるギャッツビー(2013年版)

★★★☆☆
~男惚れするいい男~

1925年の小説を元にした映画作品であり、これまでに幾度も映画化されている。
自分はそのどれも未見だったので、この映画が初めての「The Great Gatsby」となる。
見ていなくとも、言葉として華麗なるギャッツビーという単語は耳にしていたし、ギャッツビーがどうやらいい男の代名詞的な扱いであることも感じていた。きざな格好つけの男、というネガティブな印象を勝手に持っていたのだが、物語の中のギャッツビーはどうにもこうにも、いい男だった。
前向きで、意志が強く、純粋で、危なっかしい。恋に盲目で愚かとも映るかもしれない。
ギャッツビーは、そういう、男が惚れる男だ。
女性にとっても、理想的な男と宣伝されていたが、自分はそうは思わなかった。彼の想いは、女性の曖昧さを許さないあまりに純粋なものだ。多くの女性にとって、それは正論の暴力になるだろう。

今作は3Dでも上映されており、そちらで鑑賞した。アクション映画ではないし、3Dにする意味があったのかどうかは疑問。3D間を生かすためか、やたらと動き回り、無理矢理気味の画面作り。もっと落ち着いた画面の方が、より物語を楽しめたのではないかと思う。今作以前の映画がどんなものであったのか興味が湧いた。

主人公は狂言回しのニックにトビー・マグワイア。ギャッツビーにレオナルド・ディカプリオ。
トビー・マグワイアの滲み出る人の良さと、正義の心。ディカプリオの苛烈な激情と子供のように純粋な表情。
みごとにはまったキャストだと思う。

この物語の魅力は、すでにこれまで証明されてきている事でもあるが、時代を超える。だから、また未来でリメイクされるだろう。時代時代のセンスを受け入れながら、どのような作品になっていくのか、将来出会える日が楽しみだ。

2012年12月21日金曜日

リンカーン -秘密の書-

★★☆☆☆
~違和感のある強さ~

「ウォンテッド」で鮮烈なイマジネーションを見せた:ティムール・ベクマンベトフ監督作品。
あの、エイブラハム・リンカーンが実はバンパイアと戦うハンターだったというとんでも設定。どう料理されるのかという期待に反してどうも面白味のない作品だった。
リンカーンを筆頭に登場人物に魅力を感じないのがつらい。
時間に比して描きたいエピソードが多すぎるのか、早回しのあらすじを観ている印象で、物語の流れは分かるのだが、それが心に竿をささない。
キャラクターはそれぞれに魅力的な要素を持っていると思うのだが、主要人物が多すぎるのか、各人を描き切れていない。典型としては、リンカーンのヴァンパイアハンターとしての能力。怪力、不死身、透明化。このような力を持つ化け物に立ち向かうリンカーンのハンターとしての能力に全く説得力がない。
ヴァンパイアに恨みを持つただの人間がそれらと互角に戦うには、とてつもない修行が必要だと思うのだが、観る限り極短期間、斧を振り回していただけだ。あれで対抗できるなら誰でも対抗できる。ひょろりと背の高い印象もハンターの印象としては良くない。ぶっちゃけていうと、全く強そうに見えず、戦っているときでさえ違和感の方が強いのだ。

これら不満点は同じ原因からの問題だと思う。
リンカーンは余りに有名で、すでにエピソードが多すぎるのだ。
友人や妻子の構成。アメリカ南北戦争。政治家のリンカーンを描くだけでてんこ盛りなのに、ヴァンパイアとの暗闘まで背負わさせるのは酷すぎる。
なまじ有名人物が周囲にいるため、人物の配置にも制限が生じているようで物語としての役割がかぶっている。

最後の頼りは絵の力だが、馬群に紛れての戦闘や、ヴァンパイア達との乱闘など、ストップモーションを織り交ぜた映像は迫力ある。が、今一つ独創性を感じることもなかった。

上映時間は100分台と、比較的短めだ。多少延長してその時間を特訓や人物の彫り込みに当てていれば全体の印象がずいぶん変わったと思うが、そうできない諸処の事情があったのだろう。ウォンテッドを気に入っていただけに残念だ。

2012年12月19日水曜日

ゴティックメイド ー花の詩女ー


※本編の発売はされていないのでサントラへのリンクです。

★★★★
~ファンに捧げられた作品~


 エルガイム、Zガンダムなどのデザイン、漫画ファイブスターストーリーで多くの支持を受けるクリエイター永野護。彼が画面レイアウトや多くの原画までもを手がけて完成させた70分のアニメ映画。

 映画として観た場合、粗を探すのに事欠かない。
 起承転結のバランスが悪く、一作でまとまっていない。壮大な物語の風呂敷を広げるだけ広げて、後は文面フォローという投げやりさ。少人数で作成している事からくるのだろう、動画の少なさ。戦闘機を増やすのにコピーペーストしたことで狂ったパース。潔くないカット尻。フェードアウトの行きすぎた多用――。

 ところが、永野護のイマジネーションを高精度で映像化したものとしてみると病みつきになる魅力に溢れている。
 原画の多くを自身で手がけたという言葉に偽り無く、彼自身の絵がアニメーションになっているという感触が確かにある。氏の描く画の特徴は繊細な線と優雅さを失わない殺戮ロボット、そして人物画のつたなさにあると思う。指や、腕、全体のバランスが安定せず、特に顔のかき分けは微妙で、漫画でも流れを汲んで読まないと分からなくなる。

 おそらく、彼は人体の正しいバランス、デッサンを体得していない。しかしそれは欠点になるどころか大きな魅力になっている。デッサンにとらわれることなく、描きたいイメージをこそきっちりと画面に焼き付けてくるからだ。デッサンという階段を使うことなく、イメージを直接つかみ取る行為は、まさに彼の天才だろう。

 この能力が最も発揮されているのがロボットのデザインと描写だと思う。
 氏のデザインするロボットはほかのデザイナーのそれとは明らかに異なる。気品と美しさがあり、ミリタリー趣味とは違う意味での実在感に満ちている。複雑で緻密なデザインはアニメーションには向かないため、これまで彼がデザインしてアニメーションとなったロボットたちは、デザイン段階からアニメーション向けに簡略化されていたり、リデザインされていた。

 今作では、氏のデザインが生のまま、リミット解除されたフルスロットルで現出している。時間にして五分無いだろうあっという間のロボット戦闘シーンが、焼き付いたように頭から消えない。それは、これまで観たことの無かった映像だったのと同時に、とてもよく見知っていた映像でもあった。氏の書いたマンガの戦闘シーンを読んだときに脳内で再現されたイマジネーションと感応しあうイメージが展開されていたからだ。この不思議な感触にも納得である。
 それは長年の宿題の答え合わせをしてもらうようなものだ。漫画を読んではしびれてきたイマジネーションに実体が与えられたのだから。
 単純明快なベースの物語を補う要素として、氏の他の作品との複雑な連関がある。登場人物やロボットの位置づけなどは、なるほど、新しい情報として氏の描く世界観を補強し、新たな期待感を与えてくれる。だがこの楽しみは、観る者の前知識の量によってあまりに価値の異なるものだ。もとよりこの作品は一定の前知識のあるファンのみが見に行く映画だろう事は確かだが、その分新たなファンへの広がりが非常に苦しい作品であるとも言える。

 このような作品の前にあって、感じるのは不思議なことに感謝だ。幾多の困難があっただろうにそれを乗り越え、このような形で届けてくれた。そしてそれはファンが最も楽しむことの出来る特別な内容だったのだ。

2012年4月13日金曜日

クリスマスキャロル(2008ディズニー版)

★★★☆☆
~不気味の谷を越えた~

幾度も映画化されてきたクリスマスストーリーを「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のロバートゼメキスが3DCGアニメで映画化。
監督は昨今、役者のモーションキャプチャーを重要視した3DCGアニメ作成に熱心であり、「ポーラー・エクスプレス」「ベオウルフ」を同様の技法で制作してきた。
CGを多用した普通の実写映画とは異なり、全編が3DCGで作成されているが、ピクサー系の3DCGアニメと比べると人物造形は基本的に実写指向。独特な立ち位置のスタイルだが、今作でようやく一定の成果を上げたのではないかと感じる。

CGが実写に近づいていくほど細かな差異が目につくようになり、結果、人間の見た目をしているのにどこか違う異質な存在と感じてしまう。これを「不気味の谷」といい、その崖の深さが認識されるとともに穴を埋める手法も続々と開発されている。

今作も違和感はそこかしこに感じるが、ポーラーエクスプレス(同監督が同様の手法で撮ったCG映画)よりも格段に進歩したと感じる。細々とした技術革新、スタッフの努力のたまものだろうと思うが、ほとんどが薄暗い夜の場面というのが大きいのではないだろうか。
ろうそくで灯りをともす時代の物語で、その上題材はクリスマスイブ。
全編のほとんどが闇に沈んだ画面である。まばゆく明るいのは精霊達が出てくる場面くらいで、そこはしっちゃかめっちゃかにど派手。細かい点に不気味を感じるたぐいのシーンではない。

不気味の谷に底が見えたのと同時に、3D上映の問題を見せつけられる。
暗いシーンでは立体感をあまり感じる事ができないのだ。
ひとくくりに3D映画と言っても上映方式は一通りではないが、共通の欠点として、画面が暗くなる、というものがある。その分輝度を上げて上映しているのだが、最大輝度が下がることだけは避けようがない。
また、画面の暗さは視覚の感知→理解能力を鈍くさせる。初期3D上映の方式に、眼鏡をかけて片一方だけ暗くする、というものがあった。これで横にスクロールする映像を見ると、なんと暗くなった方の視覚の感知速度が鈍るため、結果左右で視差が生まれて立体視が可能となるのだ。これは出崎統監督のテレビアニメーション「家なき子」で実際に放送されている。眼鏡を配布さえすれば放送側は何の手間も入らず、スクロール多用の映像を作ればそれでよいのだから数十年前でも可能だったのだ。余談だが、出崎統監督の映像スタイルの一パーツとなった多重スクロールの多用は、この作品で考案、使用されたのがはじまりだ。
閑話休題。
そのようなわけで今作の3D上映は、立体感を楽しむことのできるシーンが少ない。その分特定の箇所において3D効果が強く印象づけられるし、3D感が強すぎて疲れることもあまりない。節度のきいた3Dということもできようが、やはり暗い画面をさらに暗くしてみさせられるというのは、それだけで負担感が強い。
心に残る3Dシーンもある。
若かりし頃の思い出を見る場面。踊る女性の胸元の艶やかさ。その実在感。
エロは新媒体普及の鍵だと言うが、確かに強烈な印象を心に残した。それがディズニーのアニメ映画であったことがいささか不思議ではあるが、実写3Dよりも、誇張されたCGの方が3D映画に向いているということなのかも知れない。

2012年4月12日木曜日

イングロリアスバスターズ

~滋味深い一作~
★★★★☆

パルプフィクションのクエンティン・タランティーノ監督による毛色の変わった戦争映画。
監督の映画マニアっぷり、とくに時代に埋もれていくB級映画も、時代毎に銘記されていくA級映画も、自分の好みで選別する姿勢が如実に表れている。……らしい。
らしい、というのは、マニアックすぎて自分にも元ネタはほとんど分からないのだ。パンフの解説を読んで、引用が分かるくらいで、見た事のある作品どころか、聞いた事もない作品へのオマージュが多い。――と言ってしまうと、映画ファンの方々には呆れられてしまうのかも知れないが……。
ともかく、そういったオマージュ多用の映画にありがちな、妙につながらない感じ、分かるだろと言わんばかりの傲慢さは、これまでのタランティーノ作品同様今作にも全く無い。知らずに見ても一切問題なく、分かる人には少しだけ楽しいよという位置づけ。監督の自己満足といえばそうなのだろうが、楽しんで作っているというその雰囲気は伝わってくる。
映画に対する愛情がとても深い物語なのだ。
愛するシチュエーションを綺麗に取り入れていく、その消化、構築の作業は神業なのではないか。
今作では映画自体が物語の重要要素となっており、全体が映画という文化に対するリスペクト、オマージュに満ちていると言え、タランティーノの映画に対する愛情がもっともストレートに出ている作品だと感じた。

二次対戦末期、ヒトラー暗殺計画に関わる各勢力の暗躍が描かれるが、初っぱなからもう面白くて仕方がない。
タランティーノの作品は、とにかく登場人物のやりとりが魅力的だ。語る言葉、状況、意外な展開。これらが渾然一体となって作り出す空気。小さな出来事がどんどん連鎖し、目を離せなくなる。監督の手のひらの上でもてあそばれているような感触。それが心地よいのだ。
なぜ、こんなにも会話が面白いのか。
語られる小ネタがいちいち気が利いている事がまず目につくが、おそらく本当の魅力は、会話がドラマになっていることだろう。
考えてみれば、会話ほどドラマティックな日常作業はない。
はじまりの言葉。徐々にお互いの状況や認識を探っていく過程。そこに埋め込まれた寓意、罠、操作……。一転二転して落ち着きどころの分からない会話の終端。
ぐいぐい引き込まれる。

さらにこの映画にはすさまじい大技が用意されており、そんな馬鹿な! と思いながらもその展開に爽快感すら感じてしまうのだ。自分がいかに事前知識や先入観を持って映画を見ているのかがよく分かったが、それを避けられるものではなく、また、無理に避ける必要もないのだろう。監督の思惑通りに転がされれば良い。
この驚きは同監督の関わった「フロム・ダスク・ティル・ドーン」の後半展開や、多少毛色は違うが「バトル・ロワイアルⅡ」のトライシーン級のものがある。
一見の価値があるタランティーノらしい映画だろう。