2021年4月21日水曜日

禍つヴァールハイト -ZUERST-

 ◆◆◆300回目のご挨拶◆◆◆

 この投稿がこのブログの300目の記事となります。
 まだ300かという気も、結構書いたなという気も。
 このようなwebの端っこの文章を読んでくださる方、本当にありがとうございます。これからも継続して行きたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いします。

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~狂気を引き寄せる呪われた作品~
☆☆☆☆

 2020年のワンクールアニメシリーズ。全12話。「KLab」がサービスしていた(2021年にサービス終了)スマホゲームを原作としている。「禍つ」は「まがつ」と読む。「ZUERST」はドイツ語で「最初の」を意味する模様。英語の「fast」かな。どうやらゲームの前日談を描いているらしい。

 自動車と魔法、重火器と剣、謎のモンスターと人々を死に至らしめる「フリーレンの炎」という災害が存在する世界。
 帝国議会は治安維持のため武器の民間への供給を違法化。だがモンスターに対抗するためには武器が必要であり、武器密輸組織が結成されることになる。帝国軍人としての一歩を踏み出したレオカディオは偶然輸送業で働くイヌマエルと知り合う。イヌマエルは実直な労働者であったが密輸組織の手違いに巻き込まれ、お尋ね者になってしまう。


 序盤あらすじを書きながら、その行為に虚無を感じている。
 映像として生まれたからには、誰が、どこで、何をしたのかは伝わらなければならないが、本作にはそれが欠けている。何となく誰かが、おそらくそのあたりで、こういったことをしたのだろう。そういったあやふやな状態が徹頭徹尾継続され、確かに何かが起こっているのだが、何かはよく分からないま全12話を終えることとなる。
 人をいらつかせる手法として、意味の分からない言葉をまくし立てるというものがあるらしい。捕虜となった特殊部隊員は、なにがしかの言語に聞こえる無意味な音声を発し続けて取調官を挑発、情報取得を困難にさせるというのだ。意味のない言葉だと判断しても、人間の脳はそれを解読しようと働いてしまい、思考を圧迫していくのだろう。本作は、まさにそれである。
 
 きちんと鑑賞したら、頭がおかしくなる作品。
 呪われた作品だといって良いかもしれない。
 そんな作品を、なぜ自分は最後まで見たのか?
 


 新規の作品の序盤は、視聴者にとって心理的負荷が大きい。どのような世界観なのか。その中でどういった人物がどういった事情で活動していくのか。そういった理解の基盤となるものを構築するまで、有り体に言えば視聴者は不安なのだ。新入生、新入社員と同じ、これから何が起こるのかという期待に満ちた不安である。この不安を取り除くためにどんな作品も導入部分には気を配り、苦労している。決まったフォーマットの導入も有力な手法の一つであり、本作は異なるが「異世界転生」が多いのもその解法の一つだからだろう。
 今作は、冒頭の不安がずっと続くのだ。以下に気づいた状況を書き連ねる。

・銃と剣と魔法
 銃といっても初期の一発ずつ弾ごめを必要とするたぐいのものではなく、いわゆる自動小銃など連射可能な現代的銃器である。超遠距離から狙い撃つスコープつきの狙撃銃も使用されている。それなのにロングソードが併用されているのだ。近距離では剣、遠距離では武器といった使い分けは行われておらず、剣士と銃士がそのまま対戦する。一対一の対戦であるのならそういったおかしな状況も特殊な戦闘として楽しめるかも知れないが、部隊と部隊の戦いがこれなのだ。
 防御装備が発達した世界で、遠距離から銃で牽制し合い、近距離ににじり寄って剣で必殺。たとえばこういった説明があるなら理解出来るが、今作にはその努力は一切ない。鎧も着けない大勢が、銃や剣でごちゃごちゃする戦闘。しかもここに魔法が加わる。範囲攻撃ならまだ分かるが、直線的な遠距離攻撃を杖の先から飛ばすだけという魔法使い。
 それぞれの得物を効果的に使おうという気がまったく見えない野蛮なぶつかり合いは、意味のない言葉を聞いているようで気持ちが悪くなる
 この三種の武器の混合は実はゲームの界隈では普通だ。有名なところではFF(ファイナルファンタジー)7。三種どころではない系統が混在して戦闘を繰り広げるが、それぞれの戦闘における役割を明確にし、キャラクターにHPという概念を持たせて実際の戦闘のような一撃必殺ではない非常にタフな存在とすることでやりくりのおもしろさを生み出している。今アニメの原作となっているゲームでも同じような設定なのだろう。その流れでこのような状況になったのだと推測するが、ゲームとアニメではどうやら同じ設定でも異なる見せ方が必要だったようだ

・車とモンスターと魔法
 上述した「銃と剣と魔法」が何の整理もされずに混在した状態は、そのまま世界観の混乱につながっている。トラックや自家用車が街を走り回り、運送業務も存在するような車社会。町と町の間はうっそうとした森林で隔絶され、未舗装の道をトラックが走る。各地には人をモンスターに変える危険地帯が存在。モンスターは唐突に現れて人間を殺しまくる。魔法は貴重品を触ると警報が鳴り響くというトラップに使用される。
 上記はおかしな部分を選定して書き上げたのではなく、視聴して把握出来る主要な要素を書き上げている。各要素単体はおかしくない(かもしれない)が、これらがきちんと関係を持って存在する世界というものが、まったく想像出来ない。車がこれほど大量に生産出来るなら、町と町を結ぶ主要道は整備、保持され、危険なく移動出来るのが当然だろう。モンスターに分断された町々と車社会の併存が腑に落ちない。攻撃と貴重品トラップでしか使用されていない魔法は、一体この世界でどういう位置づけなのか。
 これも原作ゲームの状況をそのまま展開したという所か。やはりそれぞれに落ち着きどころがなく、居心地が悪い。

・誰に気持ちを寄せれば良いのか分からない
 レオカディオとイヌマエルが主役ぽいのかなとは感じるが、それにしては影が薄く地味で、他の登場人物と大して変わらない露出度合い。登場する全員が同じ重みを持って描かれている印象。それでいて全てのキャラクターには一定の行動原理が感じられず、場当たり的に動き回っているだけ。キャラクターではなく世界や物語を描いている? そうは言わせない。上述したように世界観はむちゃくちゃだし、後述するように物語も存在しない。
 誰に気持ちを寄せることも出来ないまま、遠くから人混みを見ている状態。たまに何かが見えた気がしてもすぐにそれは埋没し、せわしなく目を動かし続けるだけ。これも元のゲームが主人公を特定しない構成だからなのだろうか。変転するモザイク模様を延々見せられているようで気持ちが悪い。たまに「何か」に一瞬見えるのが、たちの悪さだ。

・物語が理解不能
 恐ろしいことに12話を費やして何が起こっているのか分からないのだ。いくつかの勢力が絡んでいるようだがそれぞれが非常に曖昧で玉虫色の関わり方をするため、はっきり断言出来ることがまるでない。最後には王都が吹き飛ぶシーンがなにやら思い入れたっぷりに描かれるのだが、誰が何のためにどうしてそうなったのかが雰囲気でしか描かれないので、吹き飛んだという事実しか受けとることが出来ないのだ。
 映像表現における物語とは個々のシーンがつながり合って意味を持っていく物であり、つながりが存在しない状況では何も感じる事ができない。単体では高さの異なる音に過ぎない存在が、連なり絡み合っていくことで音楽になっていくのと同様だ。今作はそれを逆説的にではあるが痛いほど感じさせてくれる。
 これも原作ゲームに物語が存在しないために生じた惨状なのかも知れない。

 さて、これだけ愚痴を述べるなら見なければ良いのにどうして最後まで見たのか。
 これまでのパタンでは「意味不明すぎて気になってしまった」というものがあったが、今作はそうではない。むしろ各シーンはきっちりと手間暇かけてつくられており、高品質と言える。自分が最後まで視聴したのは、何を言っているのだと思われるかも知れないが真実「出来が良かった」からなのだ。

 キャラクターデザイン。レイアウト。原画。動画。演出。
 これらについて、十分に質が高い。15秒で記憶が消えてしまう人間が今作を見た場合、これまでつらつら書いた不平不満はまったく感じずなんと良い作品だと言うかも知れない。
 ではなぜ作品全体としてみるととんでもない状態になっているのか。
 何が足りなかったのか。
 
 脚本、である。
 
 シーン単体のクオリティは他のパートの努力で持ち上げることが出来るが、全体としての、物語としてのクオリティは脚本が制限してしまうのだ。
 自分は「脚本が最も大事だ」「映画は脚本を超えない」といった言説を諸処で聞いてきたが、実は今ひとつピンときていなかった。脚本を解釈し、映像に落としていくことでいくらでも良い作品にすることは出来るだろうと感じていたのだ。これがある点で当たっており、ある点ではそうではないということが今作を見てようやく腑に落ちた。

 脚本は作品の土台であり、そこに構築される物を支え、基本形状を規定する。
 このイメージは「良い脚本」について物なのだ。
 他のパートががんばればがんばるほど壮麗で素晴らしい景色を描くことが出来る。
 
 今作のような「悪い脚本」のイメージは異なる。
 土台ではなく天井となって上を塞ぐのだ。
 いかに他のパートが努力しようと、ずぶずぶの足場に物は建たない。がんばっても上を塞がれている。どうにもならないのだ。

 自分は今作の脚本を読んでいるわけではないが、脚本が問題であることを確信出来る。全ては作品となって現れているのだ。
 意味のない台詞。つながらない状況。無駄なシーン。おかしな場面転換。
 全て脚本が規定していることであり、それ以降の作業者の努力ではくつがえらない要素だ。

 このような「悪い脚本」は珍しいものではない。同様に眉をひそめるような作品は多いが、見るのをやめて語らないでおくだけだ。
 その中でどうして今作はこんなにも燦然と輝いて、自分に脚本の神髄の一端を垣間見せてくれるほどに極悪な存在になったのか。
 
 それは脚本以外のパートがとてもがんばってしまったからだ。
 脚本以外の要素が申し分ないから、脚本がひどくても見れてしまうのだ。見てしまうのだ。
 結果として、性格最悪なのに外見的に魅力のある異性、になっており、これは最悪だ。一緒に過ごすと結局心を病むことになる。

 本当に、最悪だ。
 
 だけど、自分にとっては新たな発見のある価値ある作品となったことは事実。
 こっぴどい目にあって、それで初めて気づけることも確かにあるのだ。
 
 このようにパートごとのクオリティがあまりに剥離した作品は、教材として非常に貴重である。これまでに自分に同様の体験をさせてくれた作品を記載しておきたい。

『借りぐらしのアリエッティ』
 映像クオリティが非常に高い。各シーンの演出も良いが、シーンがつながった末に浮かび上がってくるものが愚劣。
 長いスパンの演出計画が足りていない。脚本も足を引っ張っている。

『ゲド戦記』
 宮崎駿と同じ映像なのに、魅力が喪失している。シーンのレイアウトは決まっているのに、それが何も物語らない。
 演出の重要性が際だって目につく。脚本も足を引っ張っている。
 
 上記は二つとも宮崎駿による脚本だが、監督業よりも才能はないと言わざるを得ない。
 本人監督作品の場合は絵コンテが脚本であり、自在に変更されることによって磨き上げられ、昇華される。この過程がない場合その脚本はこわばった頭でっかちのもののままなのだろう。

 

 


 

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